安倍晋三元首相が銃撃され死亡した。まだそれほど子細は明らかにされていないが、メディアが「民主主義への挑戦」と報道したり解説しているのに、違和感が湧く。確かに選挙中ではあった。街頭演説中の元首相が対象となると、選挙を妨害するとか、政治的背景があるのではないかと推測するのは、ま、当然である。
だが容疑者当人は「母親の宗教的関係への恨み」と喋っていると報道されている。安倍元首相がその宗教団体と関係が深かったともいっているという。となると、政治的動機というよりは、私怨というか、今年1月に起きたふじみ野市の立て籠もり事件の犯人が亡母の診察をしていた医師を散弾銃で殺害したのと同じようなケースではないかと思った。となると、この事件の真相に迫るには、ふじみ野市の事件や去年12月の大阪の心療内科クリニック放火事件のようなケースと同じように考えていかないと、事件の本質を見誤るのではないか。もし関連付けるとすれば、それがなぜ元首相を銃撃対象とすることになったかという点で、政治システムとの関わりが浮き彫りになるかもしれない。だが「民主主義への挑戦」という文脈で受けとるのは無理があるのではないか。
もし牽強付会に「民主主義への挑戦」であったと考えると、安倍元首相と銃撃犯のいう彼の宗教団体との深い関係があったかどうかはわからないが、銃撃犯があったと思い違いをする程度には「なにがしかの」関わりがあったのであろうか。その関係がもたらすなにがしかのモンダイを銃撃犯が(どこかに)訴えていたにも拘わらず、安倍元首相またはその関係者が取り合わなかったのかもしれない。モリカケや桜を観る会など元首相が啖呵を切るように知らぬ存ぜぬと繰り返し、行政的な手はずをそれに沿って整えさせるという手法は、「民主主義への挑戦」とも言えるようなモンダイであった。でもまさかそんな文脈でメディアが報道するはずもない。
じつはこの元首相は、議会制民主主義がどれほど権力者にとって好都合に出来ている(国民にとって)危うい仕組みであるかを如実にみせてくれたという意味で、現今の民主主義の本質をよく体した政権運営をしたと私は受け止めている。憲法の規定は権力を抑制するものという私の法制観は内閣法制局の解釈によって簡単に覆った。しかも解釈を変更したわけではないといえばそれが通ることも政治の現実なのだと教えられた。集団的自衛権もそうだ。きちんとした議論を経て、国民の意見を付き合わせたわけでもなく、宰相がどう考えるかによって官僚たちが辻褄を合わせる。モリカケに至っては、宰相の言質を正当化するべく辻褄合わせをせんがために「行政記録」を書き換えさせることまでやってのけた。これは、安倍元首相が口を極めて誹る「押しつけ憲法」によって戦後民主主義教育を受けた私たち世代の民主主義法制度観をひっくり返すものであった。私は習近平(が香港や台湾に対して振る舞った態度と)と異なり、自分の都合の良い理念(内政不干渉)だけを取り寄せて、不都合な(中国本土と社会も政治システムも異なる自律的な)現実を無視するようなことはしないから、さっさと私の理念のほうを修正して、実際に展開する現実を受け容れるリアリズムへ切り替えはした。でも、私の長年抱いてきた理念の由緒由来と、それがひっくり返ったきっかけとかワケは、見極めておきたいと思っている。
そう考えてみると、安倍元首相の政権運営は、まさしくホッブズの謂うリヴァイアサンであることを示していた。主権をすっかり政権に丸投げして選挙のときだけ主権者気取りで過ごしてきたわが身の不甲斐なさを証しているように思えた。どういうことか。選挙は、たしかに政権の正統性を保証する。だが、そこまでが国民主権であって、あとは、政権保持者が官僚組織を取り込んで、謂わば勝手に国政を行っている。立法府という国会があるじゃないかと誰かが言うかもしれない。だが国会の議論は、国民の意思にどう耳を傾けているだろうか。立法府の政府提案以外の法案はどれほど提出され、そのうちどれほどが成立しているだろうか。あるいは、議員提出の法案にしても、それの作成にどれほどの僚組織の助力に拠るところが占めているかを考えてみると、ほとんど行政権力の独裁制といってもいいくらい日本の政府権力が強い。それを如実に証してみせたのが安倍政権であった。あるいは安倍政権を継いだ菅政権は、行政的な実務に邁進することが政権運営の本務とばかりに、説明責任さえすっぽかして、つまらない常套句を繰り返して良しとしてきた。これもまた、アベ=スガ政権が「民主主義への挑戦」をしてきたと思わないではいられない事実であった。
さてそういうわけであるから、安倍元首相の銃撃時間を「民主主義への挑戦」と呼ぶのは、安部宰相時代に何が行われてきたか、その間に日本の民主主義がどう転換してきたかを忘れさせてしまうことになるのではないか。そう私は懸念している。どうしてこういう文脈の勘違いが起こっているのか。なにかそこに、マス・メディアを含めた現代日本の政治を見つめている人たちに共通する「片寄り」があるのではないか。そこら辺を解き明かす政治哲学の登場を、そろそろ待ちたいと願う心持ちである。
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