2022年7月12日火曜日

対象が漠然とするわけ

 安倍元首相の銃撃について「安倍晋三を死なせたのは誰か」と記事があるのを読んで、ほほう、そんなことがあるのかと思った。安倍銃撃を誘ったのはSNSやいろんなメディアを通じて悪口を投げつけ安倍元首相を口撃していた世の風潮だと言う。なんとなく針小棒大なものの言い方だと思った。書いたのは、フジTV上席解説委員の平井文夫。

 どんな方かと「検索」したら、なるほど彼が身を置いている「世界」が悪口雑言に満ち満ちていると分かった。ほとんど見出しだけだが、2年前から彼に触れた非難がならぶ。嘘、でたらめ、でまかせ、大誤報とか、「坂上忍の監視員」などとある。TV番組での発言が取り上げられているから、喋る方もウケを狙い、非難する方もそれに輪をかけて悪罵を投げつけるって構図だろう。ひょっとすると安倍晋三元首相の身を置いていた世界も、似たり寄ったりだったのかもしれないと、ツウィートやSNSと縁のないわが身との隔たりを思った。

 だが、と立ち止まる。平井文夫の言う「悪口雑言の風潮」という狭い世界の犯人捜しよりも、宰相という政治的立場がもつ象徴的な意味が、今回の銃撃対象に選ぶことにつながっているんじゃないか。とすると、7月10日「民主主義への挑戦?」で記したふじみ野市の立て籠もり事件とか大阪の心療内科クリニック放火事件のようなケースとしてみるというよりは、秋葉原の通り魔事件のように、攻撃対象は誰でも良かったケースと同じような感じがする。

 今の時代、社会的事象に対して、誰に責任を求めたらいいか分からないことが多い。社会システムがそうなっているから、そうでしかなかったということが結構多い。社会システムの責任は誰に問えばいいのか分からない。となると、その象徴的な存在として政治家とか企業経営者とか、ただの市民という人たちが目に浮かぶ。つまり現代社会の関係的存在の茫漠とした形が、象徴的存在という有り様や、言葉が持つ表象性が落ち着きどころを探して、行き着いた先が安倍元首相だったってことではないか。

 となると、アメリカの学校や街での銃撃事件同様、何にぶつけていいか分からない「憤懣」が鬱積して爆発するのであるから、「民主主義への挑戦」などという生やさしいものではなく、社会全体に対する鬱憤を晴らす行為の象徴のような事件と言わねばならない。これは、今回の銃撃犯のケースと特定するだけでなく、もっと底広く世の中に広がっている鬱屈の根に目をあてなければ、何処に噴き出すか分からない。いや、政治家の警護を強化するという、何処に噴き出すかという対処療法ではダメで、もっと根柢的に社会をどうつくっていくかを考えて行かねばならない。

 安倍晋三の功績が、それに見合うものかどうかを見極めて評価しなくては、また同じ頃が繰り返されるってことを、図らずも平井文夫さんのコメントは示しているようだ。

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