旧統一教会と政治家との関係が次々とあからさまになっている。メディアも、ご本家韓国の統一教会本部の幹部やアメリカの元幹部にインタビューして、どういう活動をしているか情報を拾っている。日本と違いアメリカでは、あからさまなロビー活動が社会的に不通であるから、元幹部もおおっぴらに「宗教活動というより政治活動ですよ」とわだかまりなく喋る。
日本も、自民党の政治家の発言を聞いていると同じじゃないかと思わないでもない。だがなぜかお役所に求めた文書の肝心なところは黒塗りになっている。肝心なところというのは、旧統一教会が名称変更をして宗教団体として届け出たのを文科省が受け付け承認した理由の欄だ。ときの文科大臣が現在の阿部派の重鎮というから、その人物に聞けばいいようなものだ。が、その方は文科省の担当課長だか部長だかが決済したものを承認しただけと知らぬ顔の半兵衛を決めこんでいるというから、まるで責任感覚がない。
いやそれ以上に、議員たちも、旧統一教会に応援してもらって何が悪いのか分からないと、蛙の顔に**の態。あるいは現防衛大臣となると、反社会的団体と知ってはいたが、選挙応援をしてくれるのは(断るかどうかも)そのときどきに考えたいと保留すると言明している。元首相が銃撃されたのは全く不運な流れ弾、容疑者の銃撃理由は関係ない、そのワケを知ろうともしていないと読める。
これはなんだ?
まるで安倍銃撃の謀略真犯人がケネディ銃撃のとき同様、真犯人を隠そうとしているかのように振る舞っている。私は陰謀論を担ぐ者ではないから、まさかねと思っているが、自民党のこの人たちが「国葬」というのは、安倍銃撃を全部隠蔽しようとする総仕上げのようにもみえなくはない。「元宰相は二度殺される」というドラマのようだね。
メディアによるのかもしれないが、旧統一教会と安倍元首相との関係も、だんだん明らかになっている。銃撃容疑者が「誤解」するのも致し方ないような宣伝塔になっていたではないか。しかもこの人の祖父の関わりから辿ってみると、アメリカでの活動や(統一教会の教祖が脱税容疑で逮捕されたときの)保釈などにも(レーガン大統領へ手紙を書くなど)随分と肩入れしてきたことが報道されている(TBS・TV)。流れ弾センスを笑うように銃撃容疑者は、さほど的はずれではなかったようにさえみえてくる。
公明党にも維新の会にも立憲民主党にも旧統一教会と関わりのあった議員がいたと報道が続くと、各党各様の応対をするから、それぞれがその「関わり」をどうとらえているか浮き彫りになる。いくぶんかでも銃撃事件と元宰相と旧統一教会がかかわりがある感じている党は神妙だが、一つの宗教集団が選挙応援をしたり政治資金を提供してくれたりするのを断る理由がないと受け止めている気配が濃い。根っこはすべて、名称変更によって再スタートしたことで精算され、かつての反社会的活動は霧消したと考えているのだろう。
これまで日本の場合、宗教団体と政治集団の関係が棲み分けるように位置することと思われてきた。戦前の国家神道が軍国主義の神髄になったという見立てから、占領軍によって戦後、政治と宗教が分離された結果であった。だが実際展開に於いて分離なんて出来るはずがないと考えていた政治家たちは、その繋がりを地下に潜らせた。そうして、秘め事にしてしまったのである。それもしかし、徐々に装いだけとなった。創価学会と公明党という不可分の関係でさえ、あたかも別集団であるかのように装いさえすれば、問題にするにたらないとなってきた。装いはシースルーになっているが、微妙な関わりはあたかも秘事のようにみなされて、外からは触れないように扱われる。
政治家は「ただの宗教団体が党全体を左右できるはずがない」と言い切る。そりゃそうだろう。どんな利益団体もそれが党全体を左右するようになれば、単なる利益団体ではなく母体となる。ホンネとタテマエとアカデミズム用語では分けているが、そこはそれ渾然一体となって水心あれば魚心と双方が阿吽の呼吸でやりとりする。それがほらっ、「和の精神」ってものよ。宗教団体の方も、いろんな思惑を持って政治権力に取り入り、便宜を図ることを策する。ところがアメリカのインタビューに答えていた統一教会元幹部は、「政権を動かそうとしていた」と率直に話している。ホンネもタテマエもない。mind of people ってワケだ。
日本の場合、装いがシースルーになってちょっと恥ずかしいかなという風情があったのに、多くの政治家にはトランプ後のいまや、それすらない。何が悪いか分からないと仰る政治家もいて、宗教団体が集金活動をするのは当然、自分の暮らしが立ちゆかないほど寄付をするという方がオカシイといわんばかりである。
この問題がスッキリしないのは、アメリカとの違いを考えてみると分かってくる。日本では(選挙権が18歳からになったにもかかわらず)高校生の政治活動を禁じている。文科省が、小中高生が現実政治に触れるのは早すぎると父権主義的に考えているのは、彼らの考える民主政治というものが、そこに暮らす住民の(何をベターと考えるかという)セッションを通じて形成的に行われることだと考えていないからだ。住民に為政者が与えることを民主主義と考えている限り、人々はいつまで建っても主権者にはならないし、なれない。良いか悪いかは別として、アメリカのティー・パーティから始まる予備選の運びや高校生が現実選挙のボランティアとして参加するという「参加の志」は、それこそ統治形態としてはいろんなモンダイを含んでいるけれども、自分たちが主権者であるという幻想の基点をなすものである。
その運び自体が民意の形成であり、その施策が右往左往することがあっても、よりベターな「公」の有り様を求めて、試行錯誤を繰り返す。民主主義の完成形態なんてものは、ない。つねにつねにどこまでもどこまでも言葉を交わし、具体施策に結実させ、そしてまた修正を施してゆく。その運び(ムーブメント)が、民主主義だと考えるようになれば、小中高生であろうが、選挙権を持とうが持つまいが、この地に暮らす者としての振る舞い方があろうというものである。
今の大人の考えている父権主義的国家権力や政治権力を大きく変えていくようなところから、手を付けなければならない。大風呂敷を広げた国の政治も、足下の具体的なモンダイへの取り組みも、一つひとつが丁寧に取り組まれていかなければ、民主主義という政治制度は、ちっとも現実過程の問題にならないのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿