一年前(2021-07-19)の記事《コモンとは何か――身に沁みわたる「人権」》ですでにここまでみていたんだと、今ごろ再認識している。記事は、水道事業の民営化がもたらした悲惨な現実が何を見失った結果かを見据えて、バルセロナの地域問題に端を発して欧州議会の施策に関する方針へ影響を与えるまでになった欧州の運動の紹介をして、日本の地方行政と市井の民の「お任せ民主主義」を照らしだし、じつは日本でも喫緊の問題になっていることを取り上げている。
バルセロナと謂えば、スペインの財政破綻の問題が浮かび上がったときにEUの言いなりになるのならスペインから独立すると言って(住民投票を行い)抵抗した地域ではないか。ガウディの特異な建築群が街づくりに生かされていたし、そういえばナチスによって爆撃を受けたゲルニカという街もスペイン北部のバスク地方にある。この町の名はピカソの絵で最初に知ったが、ここも独立運動が昔から盛んな地方であった。自分たちのことは自分たちに決めさせてよという気風に満ちているのかもしれない。
水道事業を公営化から切り離し民営化した。要するに、資本家社会の市場原理と資本の論理に任せたわけだが、そのために水道料金が高くなり支払えない人たちへの供給がストップする。これって、コモン(公共)なのかいと疑問を呈して公営化に戻すのに半世紀近い歳月を要した。そしてその運動は、バルセロナだけでなくEU議会の「コモン/公共」概念をひっくり返して、各国に広がる自由主義路線へ修正を迫っている。
大事なことは、行政が「民営化」という道に踏み込んだことを半世紀ほどかけて公営化に戻すという修正をしたと言うこと。しかも民営化が始まった時代と異なってEU議会という決定システムの変更があった壁を乗り越えて、「コモン/公共」の概念の変更を成し遂げて行っているというのは、民主主義の有り様として学びべきことがある。
1年経って思うこと。哲学の世界では、大陸合理主義・イギリス経験主義と切り分けるが、バルセロナの水の戦いが教えているのは経験主義的な方法の良質さだ。徹底的に現場にこだわる。そこで何がモンダイかを人の暮らしから離れずに見つめ、その教えていることをきっちりと解決へ向ける。
その背景には、いくつかの要点が共有されている。
(1)人の為すことは誤ることがあるという気風が底流していること。それが共有されていると、モンダイが生じたとき責任追及に向かうよりも原因究明へ向ける。
責任追及は誰がやったのかを問う。だが民営化は資本家社会の論理に従っているだけとなると、企業のコンプライアンス(合法性)を問い詰めるだけでは、問題の解決に一歩も踏み込めない。
(2)原因究明に向ける目は、民営化というシステムの根源へ向かう。つまり哲学的にモンダイを考えると、水の提供を商品化していいのかというところまで考えて行けねばならない。そのとき、社会は何をなぜ護るべきなのかへ辿り着く。水と人の暮らしを個人責任に帰していいことなのかどうかが問われるわけだ。
(3)そのとき、民営化しているんだから水が商品化されるのは当然とする概念化は行政の初発の意思となる。経験則では、所得のなくなった人が支払いが出来ないのは当然な成り行きだが、それをその個人の責任と考える社会であると水の提供が出来ないという事態は、問題にもならない。これは、共に生きている社会という場から(お金を持たないものは)はじき出されることを意味する。そうなったものは生きている資格がないと言えるのかと問うところまで行き着かないと、折り返して、果たして民営化が良かったのかというところまで行き着けない。それは(誰もが失業や傷病や不運に見舞われることがあるという)経験則的な判断があってこそ、そういう人たちが生きていけるようにするのが「社会」であり「公共」の行政だという視点に立てる。
(4)上記の経緯を、その地に住む人たちが共有するとは、どういうことか。上記(1)~(3)のプロセスを人々がわがこととして共有すること。つまりそこに、自律心をベースとしてモンダイを考える民主主義の実践がある。その実践こそが民主主義なのであって、選挙で投票してあとは「お任せ」としているのは、「議会制専横主義」。実情にまで踏み込めば、「議会正統性付与機関」による「行政権威主義」の横行である。つまり、概念的に民主主義をシステムとしてみている限り、その社会が民主的になることはない。それらしいふりをしているだけなのだ。
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そう考えてみると、大陸合理論というのは、ただフランスのクセなのであって、ヨーロッパの人々も経験主義的にモノゴトを受け止めて感性や思念を育み受け継いでいる。それを、恒につねに原基に立ち戻ってともに考え、ともに問題の解決へ向けて事態を理解するしようとする取り組みを実践的に辿ること、それが、自律性を培い、自律心を育てる。その全プロセスが、民主主義なのだと改めて思う。
なるほど日本の現在は、自由で民主的な装いを取っている。だが、上記水のモンダイをもし抱えたら、バルセロナの人々のように欧州議会にまで寄せ詰めることが出来るか。イギリス経験論を好ましく思ってきた私も(歳のせいもあって)、いつも考えるだけ、言ってみただけ、後は任せるわ、知らんわと言ってきた。そんなこっちゃダメじゃないかと、一年前の記事に叱られている。それが目下ワタシの実践です。
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