イタリアで氷河が崩壊したとニュースが流れている。ドロミテのマルモラーダ。2013年の7月に故加藤滝男さんのガイドでここに登った。2013年は雪が深く、アイゼンを蹴り込んでも引っかからない。フェラータにセルフビレイのカラビナを引っかけて上り、最後の深い雪面は、膝で雪を圧し固めて、足場をつくり、ストックを差し込んで身を持ち上げるようにして登り切ったことが、思い出される。70歳の年。最年長のAさんは82歳であった。もう一人の同行者は67歳のNさん。滝男さんはAさんの山の教え子。その縁で私たちもご一緒することが出来た。帰国後の2013年7月10日~18日にかけて、8回にわたって「ドロミテを歩く」をブログにアップしたが、そのブログサイトは2014年に閉鎖になって、現在のこちらに引っ越してきたから、今はもう見ることはできない。
たくさんの人が登りに来ていた。今回の犠牲者が多いことも納得できる。
そういう事情もあり、今回氷河が崩壊したマルモラーダを歩いたときの記録だけを抜き出して再掲する。2013/7/14と2013/7/15の2回にわたって書いている。
□ ドロミテを歩く(4)いよいよ山頂間近の稜線に躍り出る
★ 一挙に雪原の世界へ
晴天。8時半からのリフト運転なので、それにあわせて、朝はゆっくり、7時半に朝食。8時40分にはリフトの人になっていた。
2074mから2626mまで登るリフトは、約1mの高さの柵に囲まれた縦1m、横50cmくらいの長円形の籠。後ろの短辺の一端が開閉できて、そこからリフトに乗ると係員が後ろ扉を閉じてくれる。イスはない。だから着くまで立っているしかないもっとも座り込んでいる人も見かけたが)。前方がだんだん開けてくる。中段を過ぎると、雪をかぶった氷河と高い岩山の岩壁と雲におおわれた山頂方向が、視界に巨大にかぶさってくる。リフトでもってマルモラーダに呑みこまれていくような感触がある。
うしろをふりかえると、下方のフェダイア湖が青っぽく湖面を広げている。その向こうに、マルモラーダに対峙するように、これまた巨大な山、ピッツボーエ3152m、サッソルンゴ3151mが鎮座する。これらもまた、雪をかぶって威風堂々たる風格をみせている。風はなく、静かな神々の世界へ登っていくような気持ちになる。東を見ると、遠くに昨日麓を通ってきたチベッタ3220mが聳える。西にはマルモラーダに隣接するグラン・ヴェルネル3210mの雪もつかない岩壁が視界を塞ぐ。
★ アイゼンの雪を食む音の気持ちが引き締まる
リフトを降り立つ2626mは、雪ばかりの世界だ。駅舎とレストランがあり、ここまでは軽装、ハイヒールでも来ることはできる。じっさい、その展望を愉しむために上がってくる人も少なくない。その前の小さな広場で登攀の用意をする。ハーネスをつけ、アイゼンを装着する。
何組かの用意を終えたグループが出発する。チェコ軍の関係者が休暇で来ているのであろうか、6人ほどでパーティを組んでいる。なぜチェコと分かるか。リフトの駐車場に止めた車のナンバーから、国名がわかるという。加藤さんが話しかけたとき、チェキッシュ(チェコ人・チェコ語)という言葉が聞こえた。
サクサクとアイゼンが雪をかむ音が、登ろうという気持ちをまっすぐに立てる。加藤さんはピッケルをザックにつけザイルをしまって、先頭を歩く。Aさんがそれに続き、ゆっくりした歩調。私たちはストックをもってバランスを崩さないようにしている。
Nさんは久々の雪山に心が躍っているようだ。思えば25年も前になる。彼とザイルを組んで、前穂高の北尾根を歩いたことがある。5月の連休であったか3月末のころであったか忘れたが、深い雪の上をNさんが先行し、私が撓んだザイルをまとめて後を追った。細い稜線の、たっぷりの雪の上の縦走は緊張を強いられた。もし彼が上高地側に滑ったら私は涸沢側に身を投じなければならないと考えながら、片時も気持ちを緩めることができなかったことを思いだした。それに比べると、今日は気楽だ。
30分ほど登りひとつの丘に立つと、これまで岩峰に隠れていた小屋が見える。まだかなりの部分が雪に埋まっている。そちらへの指標も雪面に顔を出す。踏み跡はまだないから、いまのところ誰もそちらに向かっていないのであろう。ところどころ、氷河のクラックがあるのではないかと思われる、少し色の変わった凹みがそこここに見える。加藤さんの話では、3日前にも2m位の積雪があり、こういうときの氷河の裂け目は新雪におおわれて危ないという。
Aさんが「ここから引き返す」という。私たちの足を引っ張っては迷惑と思っているようだ。加藤さんがいくつか待ち合わせ方法を打ち合わせて、彼はリフトの方へ引き返していった。Aさんは82歳。加藤さんが山をはじめたころの「師匠」にあたる。2人であちこちの山に登った話を、道中でも聞いた。Aさんからすると加藤さんは出藍の誉れである。今回加藤さんが案内を引き受けてくれたのも「ドロミテの最高峰に登りたい」というAさんのたっての依頼があったからだ。ドライブにしても、navi役を務めるAさんと運転役の加藤さんの息はぴったりと合っている。私たちは、加藤さんが同道してくれるのならぜひとも、と参加させてもらった。私たちからすると加藤さんは、雲の上の人。その人の歩き方、ザイルの使い方、ガイドの仕方を観させてもらう機会は、まずない。
★ フェラータという固定ルートの安心感
チェコのグループが追い越してゆく。彼らの歩調は速い。背も高い。2mちかいんじゃないか。さすがヨーロッパ人だとNさんが感心してみている。加藤さんは、ときどき振り返って、Aさんが無事にリフトに着いたかどうかをチェックしている。リフトの裾で手を振っている姿を認めてからは、振り返らず、ぐいぐいと登って行った。傾斜は急になる。先行した人たちの姿は、ガスにおおわれてぼんやりとしか見えない。
斜面に何筋か、雪崩れた形跡が見える。その雪崩が押し流してきた雪の塊、大きなデブリを乗り越えて、さらに上る。先頭のグループが雪面から岩稜に取りつきはじめているのがわかる。ガスは濃くなったり薄くなったりしながら、両側の岩壁が立ちあがって雪の傾斜をさらに強める。
岩壁のところどころに穴が開いている。「あれが戦争のときの攻撃と防備の岩穴ですよ」と加藤さん。飛行機による攻撃に絶妙の効果を発揮したという。中がつながっているのもあるそうだ。ベトナム戦争のときのベトコンのトンネルを思いだした。ああいう穴を穿つ、その途方もない辛苦と忍耐と執念がいまだにつきまとっているかのようだ。いまはぽつんと高い岩壁の中ほど、どうやったらあそこに行けるだろうかと思えるような箇所に、往時を偲んでにらんでいるように中空の眼をあけている。
急な傾斜の雪面をトラバースして岩稜に取りつく。ハーネスに着けた自己確保用のシュリンゲロープ)を使う。全長5mの長さのシュリンゲの中間を自らのハーネスにつけ、両端末をしっかり結んでカラビナを装着する。そのカラビナを、岩稜に固定された径15mmくらいの太さのワイアに掛ける。そのワイアは5mほどごとに岩に固定されている。カラビナをかけ替えるときに必ず一つはワイアにかかっているようにすると、万一何かの拍子に滑落したとしても最大5mの滑落でとまる、という仕組みだ。これだけで、登山パーティがザイルを結んで確保する手間と緊張感とが解消する。一人ひとりが自らをシュリンゲで確保できると、岩稜のぼりのときに両手が使えるというのも、いい。何人ものパーティが同時に登攀できるのも、効率的だ。このワイアのルートのことを、フェラータと呼んでいた。このフェラータが設えられているせいで、単独行の人も(技量に応じてだが)安全に登ることができる。
ところが今年は積雪が多く、上部のフェラータが雪に埋まっていた。ちょうど、稜線に出る手前8mほどのところが雪におおわれたステップになる。見上げると、すでに登頂してきた人たちが、下山しようと、様子を見ている。もちろん私たちが登るまで見ているのだが、加藤さん、Nさん、そして私と、1人ずつ雪面にストックを突き刺して、アイゼンの前爪を蹴りこんで身体を引き上げてゆく。
こうして、山頂を望む稜線上に出た。山頂はまだ、くっきりとみえない。
□ ドロミテを歩く(5)岩と雪に身体がなじみ至福の時
★ 開店早々、雪に埋まる山小屋
稜線に出てみると、岩壁の反対側は広い大きな山体を思わせる雪原が広がっていた。といっても平らではない。雪の向こう側は崖になっているのかどうかわからない傾斜をしている。スキーのシュプールらしい跡が残っているから、ここを昨日あたり滑り降りた人がいるのであろう。
加藤さんは下山してきた人に上の様子を聞いている。雪が多く抜けることを断念したとか、ガスのなかで、山頂までもいかないで引き返している、という話をしているようだ。あるいは、「何、山頂までは20分だよ」と軽快に往復してきたことを告げるパーティもあった。
私は、今自分が登ってきたところを、下る人たちの様子を見ている。登るときよりも、下りの方が高度感が大きい。わずか8mの雪の壁がその下の岩壁も一目に収め、切れ落ちて断崖絶壁にみえる。下山する人は、一人ひとりピッケルをとりだし、ずぶりと雪面に突き刺してアイゼンのつま先を蹴りこんでいる。もう別の隊は、ガイドらしい人がピッケルを上部の雪面に打ち込みそこに支点をとってザイルで降りる人を確保している。加藤さんはあとで、あのガイドは基本的な確保をしていたと評価していた。
山頂部が少し見えてきた。加藤さんを先頭にザイルを結んで、歩きはじめる。雪が少し和らいで、アイゼンの底にくっつきはじめる。一歩一歩踏みしめて、前へすすむ。ガスが濃くなったり薄くなったりして、どれくらいすすんでいるかわからない。20分で行けるって言ってたがもう30分だぜと自分に愚痴を言いながら、でも歩を休めない。山頂の十字が見える。十字のモニュメントを建てているのだ。加藤さんはしかし、それと違う方向に歩を進める。そちらに小屋が見えてきた。ほとんどが雪に埋まっているが、裏側に通じる踏み跡が開かれている。最近2mの積雪というのが、実感としてよくわかる。
小屋の前には、雪をかき分けて木のベンチが設えられてあり、3人の人たちが休憩している。ドイツから来た人たちらしい。そのうちの女性が「まもなく71歳」という。なんだ私と同じじゃないか。「1942年生まれですよね、私と同じだ」というと、そうだ何月生まれだと聞く。10月というと、「私は9月だ」とうれしそう。負けた。この女性をガイドする男性2人も同じくらいの年齢だ。ザイルで結んでいる。ピッケルも持っている。こういう歳になっても、こうした山に登れる、それがうれしい。
コーヒーをトレイにのせて持ってきた人がいる。小屋が注文を受けてサービスをしているのだ。単なる避難小屋かと思っていたが、営業小屋らしい。加藤さんがすかさず、私たちにもコーヒーをと頼んでくれる。お昼の生ハムを挟んだパンにかぶりつきながら、暖かいコーヒーを頂戴する。飲んだカップを返しがてら小屋を覗いてみる。30歳くらいの若い人がひとりで小屋番をしているようだ。
聞くと、3日前に雪をかき分けて小屋をあけた、これから3か月、ここで小屋番をする、という。小屋の奥の部屋には寝具や何やらがまだ片付け途中のように散らかっている。その向こうの窓は半分雪が塞いでいて暗い。小屋の南側はすっぱりと4、500m切れ落ちた断崖。
十字架のところに行く。高さ4mはあろうか。十字に組んだ立方体の鉄の骨組みの下の方に岩を詰めて重しにしている。視界が開けてきた。その先のフェラータは完全に雪に埋まり、山頂部を超えて向こうの雪原に出るのは難しい。登ってきた道を引き返すことにする。
★ 快調な下山、一番の至福
下山は快調であった。ほんとうに15分ほどで稜線の、崖を下るポイントに来る。ここの下山は、私がザイルの先頭になり、最後尾を加藤さんが確保してくれる。登るときにふりかえってみた8mの雪壁は、すでに何人かの下山者が踏みしめて、ステップを切ったように踏み跡が残る。ストックを雪面に突きこんで、足をステップに降ろす。次のステップを見極めて降ろす。ところが、先行者の歩幅が大きい。がたいの違いを見せつけられたようだったが、難なく岩のところに降り立つ。ついでNさんが降りる。彼は原則的にアイゼンのつま先を雪面に蹴りこんで降りてくる。そうかああすれば、歩幅の違いを気にすることもなかったと思う。加藤さんもつま先をキックしながら降りる。
ここから標高差150mほどは、岩壁のフェラータを伝った下降になる。フェラータをつかんでもぐらりと来ない。ストックを腕にぶら下げ、右手をときに左手をフェラータに掛け、カラビナの確保をしながら順調に下る。Nさんとの間のザイルがあるから、引っ張りすぎないように、たるみすぎないように歩度を調節する。
このとき感じたのだが、登るにつれ下るにつれて身体が雪や岩になじんでいくのがわかる。どこかごろごろした違和感があってそれが緊張感に連なっていた歩きはじめ。それが、急斜面に慣れてきてステップを切るのが無意識にすすみ、岩角をつかむのも、アイゼンの足をうまく岩棚にのせて身体を押し上げるのも、ほとんど意識を経過することもなくパッパッと運ぶ。下山のときの脚の置き方もどこを見るかも掌を指すように動きが先行して、気がつけば降りているという感触は、この世界に身体がなじみはじめていることを示している。いつも思うのだが、これこそが、こうした世界に身を置く一番の至福だ。
岩壁を降りたったとき、目の前を、先ほど小屋で顔を合わせて挨拶をしたドイツ人の3人パーティが先行しているのに、追いついた。彼らは、しかし下山の、雪の急な斜面の方に向かわず、雪面をトラバースしている。はて、向こうの大きなクーロワールを登り返すのだろうか、と思いながら見ていると、彼らの前方の雪面が雪崩れはじめる。音もなく、すーっと上方から崩れ、雪を集めて下方へと流れる。「あっ、雪崩れ!」と私は声を上げる。彼らも足を止め、それを見ている。午後の気温が上がっているせいで、表層の新雪が雪崩れ易くなっている。ドイツ人パーティも、道を変えて、私たちの方へ軌道を修正した。
急斜面を下ってザイルを解き、まずは雪崩のデブリを過ぎるところまで急ぎ足で下る。加藤さんがひざを痛めていたことを、このとき知った。Aさんからマルモラーダに登りたいと依頼を受けたとき、加藤さんはひざを痛めていたのだそうだ。もし直らなければ、代わりのガイドを紹介するとしていたが、Aさんは「加藤と一緒に行きたい」と懇願したという。それもあって、加藤さんはだいぶ無理をしていたようだ。申し訳ない。そういう気配も見せない彼のガイドぶりには頭が下がる。
★ 無事の下山を祝う
視界が良くなった。日差しが照りつける。下を降りていくパーティも見える。雪崩の後を示す筋が多くなっている。小高い丘を越えるとリフト乗り場の建物が目に入る。疲れが消える。
さらに下方のフェダイア湖が青色を深くしているように思える。その向こうのピッツ・ボーエのピラミッドが鮮やかに所在を主張している。その西側のサッソルンゴの二段重ねの頂上部が俺だってと胸を張っているようだ。途中、ストックをひとつ拾った。まだ新しいLEKIの奴だが、先行者がザックに括り付けていて落としたものだろう。リフト乗り場にもっていけばわかるだろうと拾って下山を続ける。下につき、加藤さんが声をあげても、落としたと名乗り出る人はいない。加藤さんは、リフトの管理事務所に預けた。「ありがとう、連絡があったら渡します。」と応対があったというが、その響きには、こういう細かいことが、この土地とガイドに対する信頼を高めるのだという思いがこもるようであった。
「ビールを飲むのは下に降りてからにしましょう」と加藤さんは、私たちを急がせる。降りてみて分かった。リフト下の茶店の外の椅子にAさんが座って手を振っている。加藤さんが先を急いだわけだ。さっそくビールを頼み、4人で乾杯する。とりあえず、今回の旅の大きな念願がかなった。Aさんは、私たちが岩場に挑むトラバースに入るころまで目で追いかけ、その後リフトで降りて、中腹までの岩場を登って遊んでいたという。
チェコの人たちが通りかかって声をかけ、握手を求めてきた。山頂小屋で会ったドイツ人3人も下山してきて挨拶を交わし、私たちの脇のテーブルを囲んでビールを持ち上げていた。登ったぞという満足感が湧き起る。Aさんの無念をほとんど眼中に入れていない。ごめん。
***
氷河が崩壊する様子を見た。氷河の崩壊というよりも全層雪崩のようなスピードであった。ちょうど、私達が登ったのと同じ季節。気温が10℃もあったというから、イタリアも暖かくなっているのだろう。気候変動に対するヨーロッパの深刻さが突然飛び出してきた感じがする。コロナ禍でAさんともNさんとも顔を合わせていない。Aさんは91歳になっているはず。お元気だろうか。そんなことを考えてネットでチェックしたら、加藤滝男さんが2020年3月に亡くなっていることが分かった。76歳。コロナウィルスで大騒ぎがはじまった頃だ。思いもよらない訃報に、暗然としている。
追伸:今日これから8日まで宮古島へ出かけて、鳥を観て来ます。しばらくまた、このブログはお休みします。
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