今日は東奔西走した。といっても、せいぜいさいたま市の中をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしただけ。でもそれだけで、この暑さもあってすっかり草臥れて、ボーッとして過ごしてしまいました。
午前中は5kmほど離れた市立病院へ行き、コロナウィルスのPCR検査。明後日から入院するのに、必須の条件。ついでにちょっと聞いておきたいことがあって相談窓口へ行った。偶然私の前に入室した老人が持っていた用紙が私の質問と同じ「誓約書」。彼の老人は、「どうして連帯保証人は、入院患者と別世帯の独立した生計を営む人」なのか説明してと口にしている。そう、それ。私はすでに連帯保証人欄へ家のカミサンの名を書き入れている。「これじゃダメか」と訊く。窓口の人は「入院受付の人に聞いてくれ」とたらい回し。二人の老人が、そちらへ行くと、番号札を取れという。続けて取ると、どうぞこちらへと椅子をすすめる。そして、同じ問いを繰り返す。入院受付の人は、「そういうことになっている」としか応えられない。それでいて、「欄外に連帯保証人欄を空欄にしなければならない理由を書いておけば、それでいいです」という。
彼の老人は「どうしてなのかを説明してと言ってるのだが・・・」と納得しない。だが受付の人は、それ以上は応える必要を認めないというか、応える権限を持たないというか、応えようとせず遣り取りを打ち切ってしまった。
私は「息子が遠隔地にいて」とだけ書き添えて、このまま提出しようと決めた。彼の老人は納得しないまま部屋を出て行ったが、さてどうしたものだろうか。
そのあとでPCR検査を済ませ、一旦家へ戻ってから西大宮へ向かった。
6月の四万十の旅の「反省会」をするからと、集合の声がかかった。鳥の専門家たちは仲がいいのだ。私はほとんど門前の小僧であるから師匠の縁でつながっているだけなのだが、じつは十年ほど前にコスタリカやアラスカへ行った折、アメリカ人のバードガイドと昵懇のMさんという野鳥の会の古老が顔を出すというので、ご無沙汰を詫びる意味もあって、会いにいったのであった。
ところが、西大宮のタイ料理レストランは、テーブルの間にアクリル板を置いて仕切っただけの開放的な設え。前後左右に他の客がたくさん座っていて、賑やかだ。いかにもコロナ禍から自由になったという雰囲気に満ちている。ちょっと遅れていったこともあって、すでに他の方々はメニューの注文を済ませている。四万十の「合宿」では生ビールを皆さんで飲んでいたから今日もそうなるのかと思っていたのに、皆さんクルマできているという。パソコンで「合宿」の写真を写しておしゃべりしようと考えいたようであったが、それも叶わない。食事を済ませ、紅茶やジュースを飲みながら軽くおしゃべりをして解散となった。何だか、タイトルだけの集まりに顔を出し、何をしたのかも分からないままに解散したような気分であった。
それなのに、帰ってきてから後、何もやる気が起きない。パソコンを開くことも億劫になり、いつもなら寝る時間の今ごろになって、やっとこうやってよしなしごとを書き付けている。じつは先述のMさんは私の一回り上の午年。御年92歳だが、まだ山歩きとする気力があり、この集まりがあると知って私のところにメールが届いた。そこでは、7年前に私が書いた「オーストラリア・ノザーンテリトリーの旅」のことに触れて、面白かったとお世辞を記していた。矍鑠たるものだ。
今日もしっかりと食べ、話す口調もしっかりとしている。いや、わが身に引き換えてみると、あと12年後にこういう状態をでいるのは難しいなと思うほど。いやそこまで生きられるかどうかもわからない。
Mさんの顔を見ただけで今日の集まりは十分だったと自分なりに意味づけをして、あらためてあと12年の寿命へ向かおうと思った次第です。
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