2022年7月15日金曜日

何をどうするかが明々白々

 入院した。何時に何処へ行きどう手続きするかは、前回来院時に書類に記されている。提出書類を出し、3階の売店で手術時使用のお襁褓を買う。8階で日常の服用薬を預けたあと、個室へ通される。荷を置いて麻酔医のレクチャーを受ける。全身麻酔に伴う合併症や事故により、何万分の1~5の割合で死亡するケースもあることを知る。入れ歯はもちろんのこと、ぐらつく歯があるかどうかにも気を配る。場合によっては抜歯する事への同意書にも署名した。なるほど、こうした危険を承知して手術を受ける「責任」を法的にクリアしていくわけだ。

 部屋に戻ると、お昼が置いてあった。食べて歯を磨き終わった頃、看護師がやってきて、手術までに何をどうするか、準備と手順の説明を受け、全身麻酔と手術中の行動制限(術箇所の固定、術中の脚の拘束など)に署名する。部屋着、術中の着衣などレンタルを申し込むと直ぐに用意してくれた。

 部屋からは、芝川が二手に分かれたあとの見沼田圃の広々とした緑地が見おろせる。雨模様の天気に静けさが漂う。あとは本を読むだけ。トイレへ行きたくなり廊下に出て看護師にどこにあるかと聞く。部屋は何処? ここ、と指さすと部屋へ入ってきて、このドアがトイレと指さす。ハハハ、去年入院した皆野病院と異なり、部屋ごとにトイレがあるんだ。これはありがたい。

 コロナウィルス向けばかりではないだろうが、外部から雑菌を持ち込ませないようにする仕組みは徹底している。ロックとその解除は単純明快。清々しい。

 夕食までに一冊読み終わった。北村紗依『批評の教室――チョウのように詠み、ハチのように書く』(ちくま新書、2021年)。この方は50歳手前のシェイクスピア研究者、舞台芸術史、フェミニスト批評家という触れ込みだが、映画批評などをもっぱら楽しんでいて、面白い。本書そのものは、プロの批評家になるための入門書といっても良いようだが、著者は自分が面白ければそれだけで批評は価値があると考えているから、私のような素人にも楽しみながら読める。いや、楽しむというよりも、さすがプロは違うと感嘆させられる。参照する視野の広さ、しかもそれらを精読したと思われる形跡、そして自分の関心を身に引きつけて展開するだけでその世界が際立ち、それを読む人が集まってコミュニティをつくるというネットワーキングができあがる。いわばオタクたちの集いというわけだが、それはまた、プロの世界で際立つ批評のポイントにも通じる。でもまず、自分の楽しみを踏まえてテーマを絞り、関連資料に目を通すのが持続のコツといいながら、あまり楽しいと思わないテーマでも仕事だからと取り組んだケースを紹介して、ま、この程度は楽しみになるとお手前を披露する。

 一つ思うこと。「精読」は、自分を映す鏡を磨くような所作だ。きっちりと精読していけば、より自分の姿が浮かび上がる。この著者は、そうは書いていないが、市井の老人の胸中に澎湃と浮かび上がる「精読図」はその点に焦点が合う。何につけ、一つ一つ丁寧にわが身の裡と往き来する自問自答を積み重ねながら読むことが、わが身の裡に胚胎する知らなかった自分の発見につながる。それは、経てきた人生の時空を超えて往来しながら、じつは現在から読み替えも加えつつ、径庭を総括する趣になる。でも、あくまでもこれは、わが庭でのこと。わが庭からみた「せかい」の、違和感や驚嘆や感嘆を記し置いているだけだが、本書は「分析」において比類の無さを見せつける。映画批評にしても、一つの作品の由緒由来や類似作品をたどり、批評家の関心にポイントを絞って比較しつつ、その芸術性などの価値付けもしていくというこの著者の技は、若い人たちのエネルギーと蓄えを感じさせて、デイジー(雛菊)に思いを寄せたい心持ちになる。

 えっ? どうしてデイジー? ってお思いになった方は、本書をお読み下さい。

 いやいや、こうして個室に籠もってボンヤリと過ごしていると、人が生きる原点に戻ってきたような気分になる。どうして四国のぶらりお遍路の旅にこうした気分に浸れなかったんだろう。簡単素略な佇まいが、わが身に刻んだ幼い頃の、故郷の記憶によく見合っているのだろうか。

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