2022年7月4日月曜日

自然を生きる困難

 クッツェー『マイケル・K』(筑摩書房、1989年)を図書館の書架に見つけた。クッツェーの『モラルの話』を読んで、ポストモダンの作家のように思ったことを、2019年9月「すみなれたからだ、なのに」「すみなれたからだ、なのに(2)」と2021年11月「ジェンダーは文化の棚卸し」に記している。

 同じ作家の作品と思えなかった。モダンを突き抜けて人類史を背景にしたヒトの生きる様を描いている。本書のエピグラフ(本文に入る前に置かれた詩や警句など)はこう書いてあった。

  戦争は万物の父、万物の王

  ある者を神として、ある者を人として示し

  ある者を奴隷にし、ある者を自由にする

 原著は1983年。まだアパルトヘイトが公然と行われており、周辺のアンゴラやナミビアと戦争していた時代だ。本書の原題は『Life&Times of Michael K』。「マイケル・Kの人生と時代」ってとこだが、その世界を生きていくマイケルの姿を、プロットを限って描きとったのが、本書である。

 読み進めていて気になったのが、マイケルが黒人なのか、オランダ系ボーア人なのか、イギリス系の南ア人なのか、分からないことだ。その(人種的)区別が必要ないほど、社会システムと政治状況とに絡め取られ、人と人とが向き合っているということか。戦時体制下にあることは一読瞭然だが、「キャンプ」と称する保護隔離施設が強制労働力としてとか兵士として次のステップに移る準備段階として用意されている。夜間外出禁止令も発令されていて、浮浪者収容も行われている。

 三部に分かれる本書は、第一部で街を出て母親の生まれ故郷を目指すマイケルが登場する。移動許可証の発行を願い出るが一向に届かず、体の悪い母親を手押し車に乗せ、姿を隠すようにして野宿しながら向かう。途中で命を落とした母親の骨とともに、マイケルは独りで話しに聞いた故郷(らしきところ)へ辿り着くが、そこはすでに人の住まない荒れ地。マイケルはそこで食べるものを採り、畑にタネをまいて野菜を作り、谷間に身を隠して暮らす。ときどきゲリラが通り過ぎ、ゲリラ掃討の部隊がやってくきて、彼は発見される。彼は「キャンプ」に収容され、食べ物を与えられ(しかし咀嚼することが出来ず)、恢復を期待されて治療を施される。他方でゲリラの情報を得ようとする事情聴取を受けるが、何も答えることが出来ない。

 第二部は、その(欲望の全くない)マイケルの有り様がひょっとすると手厳しい時代批判ではないかと受け止めたキャンプの医師の、述懐と思念を交え、社会システムが保護隔離する世界から解き放たれて自由に身を処したいという思いを、訥々と自己批判的に綴る。マイケルはその手をするりと抜け出て、町へ戻る。

 第三部は、再びマイケルが自由な放浪者(らしき者)として町で出逢う(役人や兵士と違う)人たちと出逢う。そしてマイケル自身の身の変化に気づく気配が坦々と記録的に記されていく。

 たったこれだけの作品なのだが、マイケルが自然に帰るというか、自然に身を置く動物のヒトとして生きていこうとする様に自由を感じている気配が重なって浮かび上がる。  二元論に閉じ込められた世界、なにがしかの意味を読み取ってそれを自らのアイデンティティとする志向性からも自由になることが、マイケルの眠るように存在する有り様だ。そこでは「何かを欲すること」さえ、消え失せる。

「ボーッと生きるな」ってのを「don't sleep」というらしいが、とするとさしずめマイケルは「ボーッと生きろ」と言っているようだ。ポストモダンの前に、自然を生きることを主題にした作品をモノしていたのだと思うと、クッツェーの「モラルの話」も、もっと根源的に考え直してみる必要がありそうだ。

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