1年前の6月21日~7月2日の飛び飛びのブログ記事で、カート・アンダーセン『ファンタジーランド――狂気と幻想のアメリカ500年史』に触れて、リアルとフェイクのハイブリッドの時代を考えた。最後の(6)は、伊坂幸太郎がカート・アンダーセンと似たような文化のとらえ方をして書いた小説『モダンタイムス』に触れて書いている。
(1)コトはとっくに起こっていた!
(2)狂熱の啓蒙主義500年が陰謀論を生んだ
(3)トランプ現象は地球規模のディズニーランド化
(4)理性への傾斜とマス・メディア、著名人の誕生
(5)宗教的熱狂の振れ幅と「哲学」の組みこみ方
(6)小さなことのために働く
400字詰め原稿用紙で40枚くらいのエッセイだが、読み返していて気づいたのは、今や国民国家がディズニーランド化しているということだ。ロシアは、かつての大国ロシアか「ソ連」の栄光部分を引きずって物語を紡ぎ、親ロシア派を保護するためとして軍事行動に出ているが、これもカート・サンダーセンに言わせれば「ロシア・ファンタジーランド」。その夢に身を任せた人々がプーチンという英雄を支えて熱狂している。欧米は言うまでもなく、これまで主役を張ってきた。それに陰りが見えてきたところへ、降って湧いたウクライナ戦争。あたかも当事者になった如く、しかし相互依存の経済関係を築いてきたからいまさら身を引くに潔くってわけにいかない。日本は、アベ・=プーチン外交は何だったのよという疑問を残しつつ、何をしていいか、どちらへ行くか見極めを付ける物語を紡ぐことが出来ず、ボンヤリと欧米の周りを取り巻いて応援をしている風情だけ。中国は、欧米スタンダードを覆す秋が来たとばかりに模様を見ながら、世界の形成が書き換わる主導権を握ろうと構えを整えている。
つまり、いずれの国家も、情報化社会の環境的な舞台設定があったからではあるが、自らの紡いだ物語りで国民を囲い込んでいく。武力と情報戦と経済力で決めてやろうと、国民の意思動員を画策して情報統制を強め、愛国者以外を閉め出すか沈黙させ、政治手続き的正当性をかざして、拳を振り上げている。
コロナウィルスで一旦国民国家単位で鎖国状態を経たことがさらに推力を与えた。国民国家権力が前面に出てきて、経済的な自由は後景に退いている。国民の生命は国家が保障しているといわんばかりだ。では、各国ごとに必需品のサプライチェーンを整えているかというと、どうもその気配が見えない。相変わらず、エネルギー資源が足りなくなると言っている。
もしウクライナ支援をするがためにロシアからのエネルギー調達を諦めなければならないのだとしたら、それが私たちのウクライナ戦争だと、誰か政治家がアジ演説でもすれば良い。それなのに、そんなことはおくびにも出さない。これを好機と身を乗り出しているのは原発賛成派のご一統さん。何とも恥ずかしくないのかよと言いたくなる。
こうも言えようか。世界のどなたも力のある方々は、ご自分のお気に入りの絵柄を描いて、それに見合う道具を振り回して、#me-firstを主張する。力が無いか、そういう絵柄を描くのが得意でない人たちは、どっちへついていったらいいか、形勢を見計らっている。ご自分に好都合の「情報」ばかりが押し寄せるように耳目に寄せて来る。不都合な「情報」は、それを遠くへ押しやるように作用する「物語り」が積み上げられてきて、何がフェイクで何がリアルか、もう見分けが付かなくなる。そのうち、見分けようという意欲も失せてしまって、もうどっちでもいいやと、結局ご自分の好都合領域に閉じこもるようになる。まさに、カート・サンダーセンが取り上げたディズニー不動産の開発した住宅地。物語の中に設えられて、そこへ物見高い見物客も来て、羨ましそうにエールを送ってくる。そこに住む人たちは、自分たちをディズニー世界に閉じ込めて、あたかも出演者同然にリアル世界をそこで過ごす。
こう書いていて思うのですが、ヒトというのは、何につけ物語化して自分の生きていることを意味づけしないではいられない存在かもしれません。物語化すると必ず、身の裡の欲得や利害にかかわる妄想が膨らみ、社会というヒトの集団に於いては、正邪も理非も善悪も美醜も、ヒトとつるみ、ヒトと比べ、他国と比べ、競い争うようになる。それが大真面目に、大がかりに大時代的に行われる。それがロシア・プーチンの妄想を生み、アメリカの身勝手な正義を成り立たせ、中国の強権的支配の正統性/正当性を支える論拠になるというわけだ。いずれも言葉を通じてと言うところがキモ。世界がディズニーランド化するというのは、グローバル化と情報社会とコロナウィルスがもたらす究極の形なのかもしれませんね。
それをこそ、遊びを通じて崩してしまうのが、竹林の技ではなかったか。梁塵秘抄がそうであり、落語がそうであり、川柳もそれに連なる。いや、いつかも書き記し始めた我が朋友マサオキさんの、言葉遊びの神髄ではないかと思い当たる。
つまりことばをつかうヒトの本性の原点を見据えて、根柢から自己批評的に振る舞う。そこにこそ世のシタッパの気概があると言わんばかりにマサオキさんの茫茫たる藝藝が炸裂する。本ブログ記事「茫茫たる藝藝(1)」(2019-11-22)などこの時期の何編かの記事を思い出した。それについては、また機会を別にして記してみよう。
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