2022年10月12日水曜日

折角の素材をふいにしている

 今日(10/12)の朝日新聞の教育面は面白い素材を扱っているが、焦点が絞れていないから、結局何が言いたいの? と思うような残念な記事になっている。

 人類学者で独立研究者である磯野真穂さんに取材した「学の道 無駄じゃない」という記事。スポーツトレーナーになりたくて早稲田のスポーツ科学科に入り米国の大学に留学したが、そこで受けた人類学の授業がおもしろくて進む道筋を変えたという経歴を紹介し、「研究とは元来、面白くてワクワクするものだと思う」と寄り道を肯定する。

 スポーツ科学に入ったことを「寄り道」といっているのか。《でも、近視眼的な成果や実用性を求められると、寄り道は「無駄」と評価されてしまう。結果、ウケの良い研究テーマを選んで論文を書いたり、美しい報告書を短期間でつくって体裁だけ整えたりして実績にしてしまう》とあるから、大学とか研究機関など研究者の関わる社会組織の実用主義的な傾きを批判しようとしているのか。

 もしそうだとすると、文科行政批判に向かってもいいはず。それでひとつ思い出した。検索すると、2019/4/18の朝日新聞社会面「気鋭の研究者 努力の果てに」と見出しを付けた7段抜きの記事について、その翌日のこのブログで書いている。「将来を嘱望された日本思想史の研究者が、経済的な苦境から抜け出そうと結婚し、しかしそれが破たんして、命を絶ったというもの」。優れた研究者を救済する視線を持たない文科行政を浮き彫りにする哀切な記事であったが、この研究者の、研究を主眼にして暮らしを欠落させた人生の受け止め方に、私の批判の目は向いている。

 今回の記事が文科行政批判に向かっていないことは、当の磯野真穂さんの、独立研究者としての暮らしが成り立っている様子も取り上げているから一読瞭然。だが、では、「無駄」と評価して研究者の探究心を削ぐような所業をしているのは誰なのか。それへの言及はない。

 ただ、磯野真穂さんが大学に勤めることを考え応募しようとするが、「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」の多さに諦め、独立研究者になったと語っている。「元来研究とは」と語りはじめれば、まさしく「ワクワクするもの」というのはよくわかる。だが履歴書や業績書を書いたり、15回分の講義のシラバスを作成することを「クソどうでもいい仕事」というのは、「研究」と「教育」という仕事を切り分けて選ぶことができる贅沢な「研究者」だけ。恵まれた人に限られる。

 では、そのような「クソどうでもいい仕事」が無用かというと、大学にせよ研究機関にせよ、公の金を使って公正に人を採用するからには、欠かせない手順ではないか。例えば大学院の教師になるとしても、学生さんと共同の研究活動がメインとなると、シラバスならずとも研究目標や方法、手順はきちんと文書にして示さなければならない。その採用の前段で、履歴や研究業績を文書で求められることは、採用側から見ると必須の要件である。研究者と教育者が混在している日本の大学システムがモンダイだというのなら、それはそれでわからないでもない。だとするとアメリカの大学のように研究者が余計なことに気遣わなくて研究に専念できるスタッフを置くようなモンダイとして考える必要がある。でも記事は、全くそういうことに配慮して構成されてはいない。

 その煩瑣な手続きを「ブルシット・ジョブ」と「クソ」呼ばわりするのは、社会的な(他者と共有する)活動そのものを否定して、自分の興味関心の世界に閉じこもることを意味することになりはしないか。それでは、「独立研究者」としてやっていくのにも、差し支えが生じるのではないか。

 例えば私の知る数学の独立研究者・森田真生の場合。「数字を使わない数学研究」というモチーフが、生活そのものを組み込んだ展開として見られ、どうやって稼いでいるかは定かではないが、研究と暮らしが符節を合わせている気配が感じられる。

 この記事の場合、《その(ワクワクする)過程には、寄り道を許す、組織や研究者自身の余裕が必要です》といっているから、大学や研究組織自体の「余裕」がないことを皮肉っているのかもしれない。だが「研究者自身の余裕」となると、先に挙げた自殺した研究者と対照したとき、経済的にも「恵まれた方なのね」と推察するしかない。才能というより生活要件において、どう恵まれているかを差し置いて「ワクワクする」だけを取り出すのは、研究者ご当人よりも取材記者自身が「暮らし」を欠落して考えても一向に差し支えない育ち方をしているからじゃないかと思う。

 そうじゃないよ、独立研究者の需要が「人類学のオンライン講座や読書会」にあることを紹介しているのだというのかもしれない。これまで研究活動というのが、大学や研究機関という社会組織に帰属して続けることができていたが、現代では、独立研究者として自律することができる社会的需要がある。それを紹介する意図がある、と。

 もしそうなら、「オンライン講座や読書会」にやってくる「医療や福祉、メディアなど多様な現場で働いている『学生さん』」300人ほどの動機や関心が、どう、奈辺にあるのか、それと社会的な活動とはどう連関しているのかに言及することが必要ではないか。あるいは「社会貢献を考える企業の新規事業」が「家とは何か」「痛みとは何か」「苦しさとは何か」をテーマに人類学に声を掛けるのならば、《人類学は「そもそも論」へのアプローチを得意としている》と人類学だけの特異性のように片付けないで、社会の底流に哲学を求める潮流が流れているのではないかと、社会的に大きな「課題」を浮かび上がらせてもいいんじゃないか。

 ところが取材記者は「なんでそんなもの?」と世情思われるようなことをテーマに据えて、「ひたすら研究したり、何か一つのものを作り続けていたりする人の話を聞いたり……一見小さな世界の中に壮大な世界を見いだしたりしていて、そこから世界の楽しみ方が現れます」と話す磯野真穂さんの話に絞ってしまって記事を締めくくっている。

 これって、自分の興味関心がどんなにトリビアルであっても、そこを窓口にして世界を見ることはできるよってことをいいたいのかい? それでも暮らしはやっていけるよって知らせたいのかい? 誰にそんなことを伝えたいの? そんな疑問が次々に湧いてくる。

 人類学という分野であっても、独立研究者としてこれだけ社会的な活動領域があるよってことなら、それはそれで日本社会の思わぬ文化的な底堅さを示すようで、頼もしい限りと言わねばならない。でも、それならそれに相応しい記事の構成の仕方があるんじゃないか。

 折角の素材をふいにしてしまっているような気がした。

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