2022年10月7日金曜日

躰の現況

 1年ほど前(2021-10-05)の記事「自然体の妙とその対象化」には、事故後のリハビリを受けている躰の様子が記されている。これほどの期間をおいてみると、リハビリが結構効いていると判る。「日にち薬」ということも、そうかもしれないと思えてくる。

《この半年の、私が病んでいる実感からすると、山本の表現は「実感」である。だが、「楽」かどうかは「無意識の体の動き」であると「意識すること」によってみてとれる、とことばを紡がないとならないのではないか。》

 とあることも、今年の左手掌手術後の難儀で、別様の苦楽に置き換わっている。そう思うだけで、人の躰ってうまくしたものだと、わが身ながら感嘆する。

 左手掌のリハビリは一進一退、本当にゆっくりと回復している。ただ術前の手掌の動きには、まだまだ及ばない。これがほぼ術後三ヶ月の様子だと判っていたら、手術はしなかったなあと、今ごろ反省している。「人もすなる手術というものを我もしてみんとてするなり」という好奇心だけで決断した。切羽詰まるまで放っておけば良かったかなあと思う。やはり「身体髪膚之を父母に受く。毀傷すべからず」を貫くべきだったなあと、後のない年寄りは思うばかりである。

 医師は手術が失敗であったとは言わない。だが予測通りの回復過程に入っていないことを訝しくは思っているようで、小指に連なる筋が張って盛り上がっているのを摩りおさえながら、う~んと呻っている。あと三ヶ月もすれば元通りになりますよとでも言ってくれれば、私の気分は随分楽になるのだが、それも口にしないのは誠実の証しか。それとも予測通りに回復しないのは、すでに私の自己回復力がピークを越えて劣化しはじめているからなのか。ま、医療というのも生き物を相手にする仕事だから、予測通り運ばないのは、致し方ないと私は思う。「いい患者だね」とカミサンには皮肉を言われている。

 そうなのだ。躰の劣化・不調にどう手を打つかを考えるとき、寿命を視野に入れて考えなければならなくなっている。何でもあり得べき形に「直す」というセンスでいると、更新したのに寿命が尽きてしまったということになるかもしれない。まして、残された短い寿命を術後の不便な状態で過ごすというのは、トリートメント-ライフ-バランスに反する。もちろん外科的な治療だけを想定してはいない。もっと深い内臓の劣化と修復についても、どこまで「直す」かは、寿命を勘案して判断する必要がある。寿命が何処までかが判らないのが厄介ではあるが。身体の不具合と寿命という変数をいくつも抱えて変容しているのだなあと、あらためて、これまでほとんど構ってやらなかった身体を(申し訳ないと)思う。

 これは、いずれ辿る終息地点を、絵を描くときの遠近法的消失点と仮構して現在を位置づける手法である。そのとき、躰という感性や感覚、その統合装置である「こころ」が働いて「身」として一つになっているのだと、躰の形成過程を思って、不思議な思いにとらわれる。この不思議な思いというのは、ほとんど大自然の不可思議に対する畏敬の念とダブって、わが身の自然が辿ってきた動物の径庭を、凄いことだなと崇敬の思いで観ているのと同じだ。

 99%の生物が死滅してきた中で生き残っている。それだけではない。このセカイの、ほんの何千兆分の一という微生物的存在に過ぎないワタシが、身を置く世界全体をイメージしているってことは、なんと面白いことか。わが身はワタシがつくったものではない。ワタシが保っているのでもない。だがワタシが全人類史を受け継いで占有している。勝手にしてイイものではない。まさしく人類史の一コマとして存在し、後を繋いで、いずれ消えていく。ヒトという生き物に産まれてきて、こういう感懐を以て世界を眺めることができるのは、歳をとって遠近法的消失点を仮構してわが身を世界に位置づけているからである。ふふふ、うれしい。

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