私たちの考えている世界は言語でできているという。では、ワタシのセカイはゲンゴでできているか? ちょっと違うなあと思う。ゲンゴ以前の何か、「ことばにならない」というモヤモヤとした感触とか、それが夢に現れるのか、抽象画のような摑み所のない流体が四方八方に流動するイメージに目が覚めてから、あれは何だったのだろうと不思議な思いをしたこともあった。これもワタシのセカイであることは間違いない。だがこれをゲンゴと言うだろうか。わが「身」といった方が良さそうに思える。
もちろんそういう夢を見たイメージや身の感触をことばにして伝えているわけであるから、「ことばにならない」というゲンゴが「あなたのセカイよ」といわれるかもしれない。外の世界と共有する「概念」が言語だと考える人たちにとっては、言葉にならないことは世界ではないというのかもしれない。では、ワタシが外に向けて表現する前の体感や想念であるワタシのセカイはゲンゴなのか? そう自問している。
どうしてそんなことを考えるのか?
インターネットが行き渡って、人々が勝手勝手に言葉を用いて遣り取りをしていながら、事実もフェイクもどちらもがあり得べきこととして行き交って混沌としているのが現実世界。なぜそうなるのか? その見極める軸は何なのか。
そこでは「事実」がそれ自体として実在しているわけではない。その「事実」を誰が何処でどのように見て言の葉にしているか。それを「取り上げている主体の視線」がまとわりついている。つまり人それぞれに「事実」の持つ意味が異なる。どこでいつどのような状況に下に見ているかによって「事実」は見え方が違う。「事実」はいつもなにがしかの(見ている者の視線の)衣を纏って世界に登場しているといえる。
従って私たちがしばしば「確定的な事実」としているコトは、大多数の人々が似たような受け止め方をしているデキゴトである。それをフェイクというのは、その「事実」と「衣」の隙間を衝いて提示された妄想ということができる。
逆にフェイクを「じじつ」とみる人からすると、世の中に広まっている「事実」は、既定の権威が裏付けている多数派の「もうそう」であり、それが誰かの意図によって操作されたことだと考えると、陰謀論が論理的な一貫性を完結させることとして展開されてくる。このようにしてフェイクと陰謀論とは相性良く受容される。
大多数の人々受け容れる「事実」をフェイクとする妄想や荒唐無稽な陰謀論を好ましく受け容れる人(主体)は、その主体自身の中にそのように振る舞いたい契機とか土壌を(身の衝動として)もっている。それは(たぶん)当人にもわからない衝動に突き動かされているから、論理的な展開で食い違いを闘わせて解消することはできない。じつはわが身に問うしかないし、問うたからと言ってわかるものでもないが、そこでも自問自答がその個人にとっては情報吟味の作法/リテラシーとなる。だが社会的には、感情的なぶつかり合いを生み出しながら、決定的な分断に至るしかない。いまそうなっている。
大多数の人々が受け容れている「確定的な事実」が、揺らぎはじめた。既定の権威が疑われはじめ、大多数はいなくなり、いくつもの固まり、無数の個人が盤踞、跋扈する事態となっている。情報化社会の発信者が無闇と多くなったことによって真偽不明の「ジジツ」が世上に流れ出す。どれが本当でどれが偽物かわからなくなる。一つひとつを吟味することよりも、自分の好みに合った「情報」を受け容れ、それを紡いでワタシのセカイを築く方が心地良い。SNSの提供サイトのアルゴリズムが情報受容者の好みに合った情報をますます提供するように作動して、心地良いワタシのセカイはいっそう加速される。
このSNS提供サイトのアルゴリズムは、その情報を必要とする人に特化して提供することによって広告主の期待にも添うことになり、また情報需要者の利便性にも資して、ますます利用頻度が高まる。だがこれは、アルゴリズムというブラックボックスの文法によって不都合な情報が取捨選択されているという疑念を払拭できない。それを「陰謀論」と考えて、大きな裏の力が働いて世界の事実情報を操作しているのではないかと、揺さぶりが入る。私はアラビアンナイトのアリババと40人の盗賊を思い出した。お目当ての内の戸口に目印をつけたことに気づき、周りの内全部に同じ印をつけたという話しだ。つまり、ある事実が報道されたときに、何もかもありとあらゆる偽情報を出し並べてしまうと「本当の事実」が何処へ行ったか隠れてわからなくなる。それと一緒だ。
いつでもワタシが知るデキゴトは断片である。その断片の「デキゴト」を寄せ集めパッチワークして、なにがしかの文脈に乗せ、ひと繋がりのセカイとして心裡でまとめ上げている。それが、横合いから入ってくるSNSの情報によってかき混ぜられ、ワタシの内側で構成する文脈が怪しくなってくる。またそれを狙ってフェイクニュースが流し込まれてくるから、社会全体としては、人の思念のセカイを生み出す大海の潮の流れを熟知して押して加速し、あるいはかき混ぜて渦をつくるなど、いわば思念のセカイの総力戦になる。そういうことを、ロシアとウクライナの戦争は如実に浮かび上がらせた。
もしこれが二項対立的に行われているとみたら、その双方の領域が綱引きをしている。そこを往き来する人たちがいる。その綱引きの力の入れようとして、フェイクにつぐフェイク、勧誘に次ぐ勧誘が行われる。ただ単に情報戦というのではない。本体を隠して「勧誘」する。社会に関わる人が自らの内的衝動の契機や土台に気づかぬように、ヒトの弱点を利用した入口を設ける。何をしているかは別としても、人と一緒に一つの目的のために何かをすることは心地良い連帯感と成就感を生む。ビラ配りでも電話でも、集会やイベントへの参加でも、たとえば選挙応援という活動は、躰の動きとしては充足感に満たされる。気が付けばすっかり一方の側に身を置いていることがわかる。だが政治的なその側の主義主張よりも、わが身の欲するところに遵うとその運動はそれなりに心地良い。これが、アメリカのトランプ勢力の原動力であり、旧統一教会の運動が社会的に食い込んでいる姿であり、もっと場面を身近においてみれば、日本の自民党が揺らがぬ政権を取っている土台でもある。
このところの世界の政治社会状況から感じ取ったワタシの世界観である。
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