2022年10月19日水曜日

戦争の綺麗事より虚数の理念

 ロシアのウクライナ攻撃が、いよいよ佳境に入った。生活インフラである発電所や変電所を破壊して冬を迎えるウクライナ国民の意気を挫こうとし始めた。初め軍事施設への攻撃だと「言い訳」をしていた。ウクライナは逆に、居住地や劇場、教会が攻撃されていると非難をし、テロだ戦争犯罪だと訴えていた。だが戦中生まれ戦後育ちの私たちは、戦争ってこういうものだと、「戦争犯罪」を「正当な戦闘」と区別する欧米センスを嗤う気持ちがある。

 欧米センスで言えば、戦争もスポーツと同じ、ルールを設け、その枠内で力比べをして、勝敗を決すると考えているのだろうか。それは、しかしデスクワーク。日本風に言えば、ホンネとタテマエの使い分けだ。第二次大戦がそうであった。実際の展開は、東京をはじめとする日本諸都市の空襲もそうだ。焼夷弾を使って街全体の焼き払いを策していた。ヒロシマ、ナガサキの原爆投下も明らかにルール違反、「戦争犯罪」である。これは「宣戦布告」という事前通告など比較にならないほどの「犯罪」行為であるが、敗戦国民の私たちは、そうは言わなかった。なぜか。戦争ってそういうものだと思っていたからだ。つまり戦争にルールがあるとは思ってもいない。

 もし欧米が「そうじゃないよ、やはり逸脱する行為は禁じられるべきだ」と、ナチスのホロコーストを例に挙げるかもしれない。だが、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下が、黄色人種で非キリスト教徒の(宣戦布告もしなかった卑劣な)日本人だという胸底の衝動に突き動かされていたのだとしたら、ユダヤ人虐殺と基本は変わらない。日本人は、アメリカの戦争犯罪とは言わなかった。

 戦争とはそういうものだという観念には、「戦争は政治の延長」という意識的な、自分が選び取った行為という思いはこもっていない。戦争となると、生きるか死ぬか、謂わば降って湧いた天災のようなことであって、ヒトの本性が剥き出しになると(庶民は)感じている。ルールを設けようという為政者とは違う感覚である。もちろんこう言ったからと行って、欧米為政者の意識的なとらえ方を非難しているわけではない。欧米為政者は、ヒトの本性が悪辣苛烈なものだと知っているから、意識的にルールを設けて(本性が剥き出しになるのを)限定しなくてはならないと考えているのであろう。タテマエを「神の言葉」と聞いているうちは、ルールを厳守することは厳かな美しい振る舞いとなる。逆に日本の庶民のように考えていると、加害的立場に立ったときに自己抑制が効かない。本当に赴くままの(中には恐怖に駆られて赴くままの)行為の暴発に繋がる。それを抑制する契機が何処にも見当たらなくなる。

 欧米為政者の戦争ルールというタテマエは、神の言葉が生きていた時代にはホンネに優先する誇らしい行いであったろう。だが神は死に、ヒトは自前で正義や真実を紡ぎ出さねばならなかった。それでも冷戦時代までは、自由主義と社会主義のどちらが「より正義か、真実か」が常に問われる立ち位置をもっていたから、「神」に代わって(世界の民が)「審判」する仮想の位置に立ったのだ。だがソビエトは崩壊した。

 そのとき自由主義アメリカが「審判者」の位置を手にれたわけではない。敵対する相方が崩壊消滅したために、じつは、アメリカもまた審判者の位置を失っていた。絶対神と異なり、神抜きの人智による「(正邪/真偽の)審判」が成立するには、対称的というか、敵対的というか、相方がいなくては判断がつかない。だがそれに気づかないか、気づかないふりをしてか、1990年代以降のアメリカは、アメリカン・スタンダードを振りかざして世界の警察官を務め、経済力と軍事的支配力を背景にそれなりにやっては来た。

 だが、失った「審判者」の立ち位置はごまかしようがなく、タテマエはボロ隠しの衣装に成り果てた。それが剥ぎ取られたのがヒラリー・クリントン、剥ぎ取ったのがトランプであった。つまり、タテマエが本当に着飾る衣装となり、ホンネを覆う薄衣に近いものとなり、裸の王様が裸のままで振る舞うのを誰も止められない事態が世界を覆うことになった。今そのボロ布を弥縫しようと空しく力を尽くしているのがバイデン大統領というわけだ。だが、ひと度剥ぎ取られたタテマエ衣装は、少しばかりの当て布では弥縫しきれないほどすり切れてしまっている。

 21世紀も1/5が過ぎ、アメリカに代わる「審判者」の覇権を中国が手に入れようとしている。だが残念ながら中国は、ご都合主義的に「連合国」の伝統を引き継いでいるようなことを言い、直ぐにことばを翻して古き良き(?)中華帝国の伝統に寄り添って自国利益を主張する。そこには「正邪/真偽」を感じさせる欠片もない。トランプ同様、資本家社会的利益追求の取引観念が浮き彫りになっているから、用心して付き合いこそすれ、信頼して向き合う心持ちにはなれない。まして「言葉狩り」(参照:「現代の焚書坑儒、言葉狩り」2021-10-16の当ブログ)まで行う百%監視国家である。この中国が、世界の警察官を気取っても、誰も真に受けない。

 かつては「審判者」の片割れであった旧ソビエトのロシアは、その時に蓄えた軍事力と統治制度遺産をフルに使って、まさしく恐怖政治国家として立て直しを図っている。もしこの国がウクライナの制圧に成功し、欧米体制と真っ正面から向き合うことになれば、現ヨーロッパも含めて、地上はすっかり荒廃した荒野になるに違いない。

 WWⅡ後に、日独を危険国家に指定して歩み始めた国際連合も、中軸国の「拒否権」に邪魔されて、いまやすっかり機能麻痺に陥っている。UNESCOやWHO、FAO(国連食糧農業機関)などが発足当初の理念に沿って活動を維持しているくらいだ。でもそれだけでもないよりましか。一応各国が顔をそろえて言葉を投げ交わすほどの場には成っている。合意を取り付けるのは難しいが、互いに言い訳をしている間は、まだそれなりに「正しさ」を仮構しているわけだから、形にはならないが「虚数の理念」を取り交わしているという存在価値はある。これは暫く、虚数の理念をぶつけ合い、覇権国家同士の力比べをして、共々に草臥れて何とかしなくちゃあという気分になるまで手がつけられない。メンドクサイ、ヤッカイな21世紀の中盤を迎えるようだ。

 日本はどうするのかって? 何かをなし得るほどの力は無いよ。もし何かをしようというのなら、五十年後を目指して、今から知恵の仕込みをするというのが、最良の道ではないか。孫たちよ、そう考えて頑張っておくれ。

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