雲ひとつない青空。朝の内は少し寒いと思うほどで、外を歩くのが心地良い。ふと思い立っていつもの床屋に行ったら、「閉店します」と貼紙がしてある。
この地にやってきたときは、30歳ほどだったろうか。もう一人若い共同経営者という感じのスタッフがいて、新しい髪スタイルに挑戦する競技会に出るような言葉を交わしていた。丁寧な仕上げが良くてその後ずうっと通い続けた。そのうち一人が独立したのだろう、姿を消し、おかみさんも櫛と鋏を持つようになった。
夏前だったか、おかみさんが乳児をだいて娘さんであろう方とご亭主と、床屋前の通りで談笑しているところに通りかかり、挨拶を交わしたこともあった。そうかこの人たちも爺婆になったんだと、穏やかに過ぎゆく時を感じていた。
先月の散髪はおかみさんがやってくれた。私はマスクを外して帽子と一緒にしまう。別のマスクを手渡し、してくれという。髪を洗い「いつものようでいいですか?」と言いながらバリカンを入れ、鋏で丁寧に整える。マスクを外して髭をあたり、肩を叩いてほぐしてくれる。50分ほどのこの手入れは、ひと月経っても崩れないほどのしっかりとした髪の型を作る。
このところ近くを通るとき、定休日でもないのに、シャッターが降り、「本日休みます」と書いた紙が貼ってあることがあった。先月の経営者夫婦は元気そのものだったから、還暦祝いの旅行にでも行ってるのだろうか、それとも老父母に何かあったかなと思いつつ、わが身に起こった径庭を思い起こしていた。生まれ育ちがどこの方だったかも、知らなかったなあと、さして言葉を交わしたこともないことに思い当たる。
そしてこの「閉店します」だ。都会地の幕切れはあっけない。関わりの空っぽさが、さっぱりして心地良いとも感じている。知らないこと、第三者であること、でも穏やかに人生の道を歩み、またそこに住まい方を大きく切り替えなければならないデキゴトも起こってくる。それは、幸不幸という価値評価を寄せ付けない、誰もが歩む道筋である。ここにも、次元の違うセカイがある。
そうして昨日、いつも買い物に行く生協への途次、ニトリの入ったショッピングセンターの壁に「カット・ファクトリー1000円」と看板があるのに入った。順番待ちの男が一人。椅子をひとつ空けて座ると、その男が入口の方を指さして「チケット」と言う。なるほど、自販機がある。1000円と消費税100円を入れると、番号を記した紙が出て来る。陰になって見えなかったが、3人でやっているようだ。番号が呼ばれて椅子に座る。荷物と帽子とマスクは椅子の前のボックスに入れる。「スポーツ刈りに」と言って座る。電動バリカンで借り上げ、櫛と鋏を使ってさかさかと整える。後は掃除機のような大きな吸引器で切り落とした髪を取り払って、鏡を頭の後ろに掲げ、私がうんと頷くと掛けていた覆いを取り、肩や首回りの汚れを払うようにして終わった。洗髪も眉や生え際へのカミソリもない。髭剃りもない。言葉も交わさない。10分もかからなかったように思った。いかにもファクトリーであった。
致し方ない。ま、これまでの4分の1の料金だ。もっと頻繁に来てカットして貰ってもいいかもしれないと思いつつ帰宅。夜、風呂で髪を洗い、髭を剃った。
人との関わりとわが身の始末が、ほんのひと月の間に4分の1になったような気がした。薄くなり、軽くなる。こうして、世間には何のこだわりも残さず彼岸へ旅立つのか。そんな気がしている。
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