つい先頃滋賀県の小学校の50代教師が、担任児童を「スルーしよう」などと言っていじめていたというデキゴトがあった。チラチラとTVのお昼の番組が報じているのを観て、担任教師の困った顔が目に浮かぶ。「ADHDかもしれないから医者に診てもらったら」という担任のサジェストに親が怒り狂ったというのも、わからないではない。
全日制高校は、ある程度学力階層で分けられて生徒層が集まっているから、そういう生徒に出くわさないで教師仕事を終えてしまった。夜の学校にいた頃は、まだそういう病名が一般的に広まっていなかった。まだ統合失調症という言葉も一般的ではなく、分裂病とか多重人格、躁鬱病などとと表現されて精神科医師に診てもらう必要があるかと思案する時代であった。
注意欠陥障害とか多動症とかADHDという分別の概念がなかったから、物忘れが激しいとか、落ち着きがないとか、他の生徒に世話を焼くお節介が多いとか、集中力に欠ける生徒だと受け止めていた(と推察される)。
つまり学校の教師は、生徒の生活習慣を身につけさせるという視点から生徒の特性を見て取って、それぞれに応じた「注意を繰り返し与える」ことが仕事になる。たぶん滋賀県の小学校教師も、初めのうちは授業の進行を妨げる児童の質問攻めに「あとでね」とか「今ちょっと、聞きなさい」とか言っていたのだろうが、余り頻繁にそれが繰り返されたので、ADHDの疑いがあるとみて医者に相談するよう親に話したのであろう。
親もわが子が病気であるとは思っていないであろうから、じつはその教師同様に子どもの成長過程の特性くらいに思っていたであろう。ADHDの児童は、周囲との関係の察知能力にばらつきがあって、親しい間柄に於いては感度のいい振る舞いをすることが多い。他方で、そうでない場では(進行している)全体の空気が読めないことも多く、自分の胸中に湧き起こる疑問だけに固執する傾向が現れやすい。また気分が移ろう。ことに児童となると、そうした場の進行の中に自分を位置づけて振る舞うことが「しつけ」として求められるから、どうしたらいいか、教師はほとほと困ったのであろう。親は教師がみているのとは違う姿に日々接している。その、気が利く、頭がいい、感度の高いわが子をADHDではないかと疑う教師に怒りをぶつける。そのズレの極まった所に、今回の「いじめ」が発生したと思われる。
ヒトは文化を生育歴中に出会う人や社会関係から、空気のように吸収し、それに自分なりの文法を見つけて、振る舞い方や感性や感覚、言葉を覚え、育てていく。外から教わったことも、そのまま心中に蓄積されるわけではなく、ある種の象徴性を伴って吸収されていくから、何をどう教えたら振る舞いや感性や感覚や言葉遣いがこうなるということをパターン化できない。でもある程度、共通するやり方を体系的に見繕って学校の教育課程として文科省などが作成している。だがその文科省にしてから、その教育課程の基軸は言葉で教え、アタマで考えることに主力を注いでいるから、身体の動きが伴わない。
子どもが成長するときの基本は身体で覚えて身につけていくことなのだが、親も教師もそこは自然に任せたままにしている。家庭は、親が懸命に子育てをしていくから、子どもの心の習慣が生活習慣と共に形成されていくことを身体で感じている。だから、子どもの成長に寄与するのは、どういう環境で育つかが4割を占めるといわれるのである。もちろん注意してみていれば、子どもの身体の内側でどうそれらの体験を身の裡に取り込んで一般化していろんな振る舞いや言葉に結びつけているか感じ取ることはできる。だが、それを言葉にして(ある程度皆さんに共通することとして)一般的に提示するのは、専門的な研究者に任せねばならない。学校の教師は、たくさんの児童生徒に接していて(子どもの成長に関する知見の)、体験的な蓄積は(たぶん)親よりも多いと思うが、文科省はそういう「しつけ」を教育とは別次元のことと位置づけているから、ほとんど捨て置かれてきている。そこへもってきて、社会の変容の速度と多様化は随分と早く、かつ、広がりが多きく、深い。親と、子どもと、教師の齟齬やズレは、ほとんど言葉で埋め尽くせないほど大きくなっている。
親が教師を軽んじるのか、教師の質が低下しているのかと議論が為されているが、質の軽重ではない。文化的な落差と学校や家庭に対する期待のズレが広がりすぎて、共通の言葉を持たないほどになっている。もはや自然任せにしても社会的治癒力が始動して両者のギャップがいつしか埋め合わせられる様相ではない。
ことにデジタル世代になって、モノゴトの白黒がはっきりすることを好ましく感じる若い人たちが多くなるにつけ、ちゃらんぽらんとか、いい加減なはんだんがに我慢ならない人たちが多くなっている。当然社会的な衝突は多くなる。若い人たちが(その社会的な様相を警戒して)人当たりが柔らかくなり、警戒心に溢れた「やさしさ」がずいぶんと多くなった。むろん若い人が優しくなったのは、世の中では悪くないが、実はその発端が、何が起こるかワカラナイ警戒心に起因するというのでは、若い人たちも心安まることがなかろう。この人と人の間の文化的な落差は、これまで「日本人」というある種の共通感覚によって埋め合わされてきた。言葉ばかりか、控え目とか、遠慮がち、謙虚であるという振る舞い方の好ましさも、共通する感覚と思われてきた。それが一億総中流と呼ばれたバブルまでの豊かな暮らしの中ですっかり姿を変え、更にその後の「失われた*10年」の中流の抱懐によって大きく格差は拡大し、人々の間の感性も感覚も心の習慣にもおおきな変化が訪れ、その中で育った子どもたちの間にADHDなどの(脳の障害に起因する)失敗も表出するようになった。これまで私は、統合失調症の一つと考えていたが、そうではなく、脳の機能障害による疾患とされたことによって、それはそれで治療の方途を探るようになってきた。それが妥当なものかどうかは、私にはワカラナイ。社会的な関係に起因して発症するものならば、薬剤などによる治療というよりは、その疾病を包摂するように社会関係を考え直していく方がいいのではないかと思う。
そう思わせたのは、コロナウィルスがやってきて、結局それと共に暮らす方途へ踏み出すしかなかったからだ。それは、私の身体が1000兆個ものバクテリアやウィルスなど微生物によって構成されていると知ったとき、もし私が微生物の一個だとしたら、このワタシは大宇宙に匹敵するような壮大なスケールを持ち、しかもこの微生物がそれなりに一個の存在を示して、本当に蝶の羽ばたきにも似たうごめきをしている。これはまさしく大自然そのものである。
そう考えてみると、ワタシというのも、実は、呼吸器や循環器や消化器や排泄器官、身体の浄化諸機関や筋肉や骨や神経やリンパの動き、水分や栄養の吸収・運搬などのために毎日幾億という細胞が世代交代を繰り返している、その総合的な運動関係の動態的均衡が保たれている、一瞬の姿である。とすると、躰に聞け! などと大雑把に言ってお終いにするのではなく、内臓諸機関に聞くのと骨や筋肉に聞くのと血液やリンパや体液の流れに聞くなどの諸人格が、巧い具合にワタシとして統合されているからこそ、こうして好き勝手なことを書き綴っていられるのだ。
まさしくこの人格統合が失調を来すようなことは、何を契機としていつ何処で起こっても不思議ではない。あるいは、それが、脳の機能障害としてADHDとか注意力欠陥障害とみなされても仕方がない。ああそういえば、物忘れも非道くなる。二つ以上のことをしていると、どれか一つにしか注意が向かず、他のことを忘失してしまう。不思議ではないどころか、すでにあちらこちらで、欠陥障害が起こっている。
そう考えてみると、統合失調症というのは、ヒトの悪いクセのようなもの。それを排除して成り立つ世界というのは、健全・健康・正義・正常・清浄な人たちしか住めない世界になってしまう。まるでファシストのセカイだね。そりゃあやっぱりイケナイね。こんな年寄りも含めてぼちぼちとでもやっていける世の中にしてよと、滋賀の小学生になった心持ちで(でも50代の教師を非難して済ませるのも、ちょっと違うんじゃないかと)思っているのですがね。
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