2022年10月16日日曜日

世界覇権とモラルと天の啓示

 2020年5月4日のブログ記事《【8年目からの追記】近代市民社会の理念が揮発した》は、第12回Seminarで「総合商社の仕事とは、何か」を話した講師が「全部オフレコに」してくれと要望したことがあり、えっどうして? とそのわけを私なりに考えた「商社マンとしての合理性」を書き記したものだ。簡単に言うと、経済活動がグローバル化していくと、文化文明の違いを乗り越えて取引をする。そのとき、先進国社会ではとうてい認められないような手練手管を用いて取引相手を籠絡して契約にこぎ着ける力業を用いることも多かったろう。それを公表することは憚られるから「オフレコ」にしてくれといったのだと、わが身の裡で腑に落とした。

 経済的な取引をする交通は、文化文明の交通でもある。先進国の文化文明が浸透するんじゃないかとデスクワークで考えれば思ってしまうかもしれないが、そうではない。文化文明に於いては、経済的先進性が優位に立つとは限らない。双方がフラットに向き合っているわけではないからだ。早く契約の締結にこぎ着けたい先進国が、その文化のギャップを埋めるために、おおよそ先進社会では容認されない下世話な手練手管を繰り出すこともあったろう。経済的関係だけでなく、背景にある政治的力や軍事的後ろ盾が両者の力関係になって作用するから、先進国の金でほっぺたをひっぱたくような振る舞いのみならず、ヒトの本性的な弱点を突いて、ま、越後屋のように「お主も悪よのう」といわれる様なことをしてきたのかもしれない。逆に先進国の商社マンが、そうした手管を下されて籠絡されることもあったかもしれない。

 現役をとっくに引退した講師本人はともかく、その後企業の「コンプライアンス」が厳しくなった世界にまだ事業を継続している商社としては、譬え昔話としてでも聞くに堪えない噂が行き交うのは迷惑千万、「オフレコ」にしてほしいというのは、わからないでもない。でもその時の私は、だったら、本当に「オフレコにしてほしい」様なことを話しなさいよ、まだ入口にも入っていないじゃないかと愚痴を言いたいくらいだった。

 でもそのときに思い浮かべていたのは、そこまでだった。澱のように疑問が胸底に溜まり、ときどきポカリポカリと浮かんできた。

(1)1980年代まではそれでも、ホンネとタテマエとか裏と表という風に、振る舞いの「正/邪」の分別はついていた。それがいつの間にやら、ウソとホント、リアルとフェイクというように取り扱われ、タテマエも単なる仮面のようにみなされて力を失っていった。これは、どうしてなのか?

(2)そう言えば、1990年代以降に経済のグローバル化が叫ばれ、アメリカンスタンダードが世界標準のように伸してきて、世界的なネットワークの再編が進んだ。冷戦という対立構図があった時代には、東西いずれがより正義か(より良いか)という詮索の目が世界に生きていて、世界のモラルの「正/邪」もそれなりに起動していた。その時の私の価値軸には「自由と民主主義」を好ましいものとする感覚が身についていた。

(3)ところが冷戦が資本家社会の圧倒で終結したことから、文化文明の先進性が資本家社会に認められてくるとともに、強いものが勝つという資本家社会の論理が前面に迫り出してくるようになった。産業革命の頃のイギリスの状態同様に、貧富の格差はますます熾烈に貧しい者を襲い、労働がほとんど奴隷労働かそれ以下のように苛烈な搾取に見舞われ、死んでも葬儀すら執り行えないまま放置される貧民街がロンドンの街に広がっていった。現代は、金融資本とグローバル経済の領域拡張とによって、一国だけでなく世界全体に、それぞれの民族国家の政治経済力を反映して、富の格差は拡大し、それを救済する哲学も大きく力を落としている。

(4)1990年代に、アメリカン・スタンダードの一つとして「コンプラアンス」を遵守するということが「企業倫理」として称揚され、アメリカ風の企業経営が広がっていった。それが、それぞれの国民国家が伝統的に紡いできた会社や経営の有り様を崩してしまい、優勝劣敗の利益獲得競争が剥き出しで行われ、(3)の様相が世界規模で広まっていった。

(5)アメリカンスタンダードにいう「コンプライアンス」は、法に触れなければ構わないという「企業倫理」であった。逆に法に触れて「有罪」となると法外な賠償金を取られるというアメリカ司法の懲罰が横行して、それなりに「コンプライアンス」が護られた。「法に規制されない」ことはすべて合法とみなされ、事実上モラルは崩壊したといってもいい。せいぜい「投資家保護」という帳簿上の辻褄合わせが求められ、それは会社が(経営主権者である)投資家のためのものであり、その経営の趨勢は、そこに務める労働者にも深く関わる必須の事柄という「倫理」も雲散霧消してしまった。それぞれの社会に通用している司法感覚の違いなども、「コンプライアンス」の遵守程度に差異を齎している。

(6)世界の覇権を握っていたアメリカの大統領がトランプであった4年間は、経済的な牽引すら政治的・軍事的覇権によって保たれていることを示した。アメリカが保っていた「覇権」は、文化文明的な先進性が世界各国の人々に支持されることによって、裏付けられていたことも明らかになった。トランプは自ら国際的な協調路線を破棄することによって、道義的な(覇権の)支持基盤を掘り崩し、世界の秩序を維持するというアメリカの長く保っていた役割を放棄したことになって、アメリカはただ単なる富裕な国のひとつに、今まさに転落しかけている。

(7)それに対して中国が、強権支配的資本主義国として世界の舞台に登場し、力を堅固にしようと乗り出してきた。その原動力になっているのは、国際的には経済的援助とそれに裏付けられた「取引の酷薄さ」であり、国内的には独裁を維持するための、国民生活と秩序の安定である。それがどこまで破綻を来さないで保てるか、世界はハラハラしてみている。「取引の酷薄さ」は、アメリカンスタンダードによる遵法性に照応しているが、(4)の広まりで苦しんでいる国々にとっては。大きくモラルに関わる振る舞いである。自国民第一主義が世界覇権と同義的にすすめられると、世界秩序の庇護者の位置に立つことはできない。

(8)プーチンのウクライナ侵攻は、上述の世界秩序の変転をみて、まだ強権的支配による(国民国家の操縦と)世界覇権への参入ができるとみて踏み切ったものだろう。中国のような独裁支配でないだけに、裏街道で働く政治的な手法の凄惨さが際立つが、これは、情報統制が中国ほど徹底できない政治社会体制の特性による。

(9)世界的なモラルの崩壊は、いま、ウクライナへの支持援助かロシアへの加担・または中立かをめぐって各国に問われて浮遊している。だが、どこかに世界的なモラルの平衡点は成り立つ地点は見えるのであろうか。

(10)国連もほとんど無力化している。唯一期待を持たせるのは、皮肉にも、新型コロナウィルスという共通の禍に人類が見舞われたこと。これによって、いがみ合いながらも人類は、なにがしかの相互共通利益的な対応策を採らなければならなくなった。天が、人類に「バカめ」と啓示を齎しているようにみえる。

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