二年前と一年前のこのブログ記事を読んで、昨日の記事で紹介したジャン・ダヴィド・ゼトゥン『延びすぎた寿命――健康の歴史と未来』が指摘する環境的要素(温暖化が寿命に影響している)と同じ風景を見ていると思った。モノゴトを理解することと仮説を立てることとの根柢に、共通して流れる「構え」がある。それが「ルートnの法則」だ、と。
二年前(2020-10-12)の「ルートnの法則」はブラウン運動に於ける主潮流に逆行する動きが一定数必ずあることを組み込んだ思考を提起している。それを元にした一年前(2021-10-14)の「「仮説」提起のムツカシサ」は、「ルートnの法則」を組み込むことによって「仮説」の中に発生する(仮説提起者の)モノゴトを理解する枠組みの縛りを解きほぐす作用があると展開している。そしてそれが、ゼトゥンの寿命に関する思索の視界を広くしていることに通じていると感じ取った。
これは、なんだろう?
(1)身の裡にワタシの思考(嗜好/志向)に逆行する動きがあることを肝に命じ、受け容れる。私の気づいていないワタシを意識し、表層に浮かび上がらせてロゴスの一角に組み込む。
(2)ありとある現象にも、それが通用することを(思索の)土台に据える。
(3)だがそれらは思索の起点であって、逆行が正当化されるわけではない。だが(逆行する現象の)存在の合理性はあるということだから、それがなぜ「存在の合理性」なのかを論理的に明らかにする。それは無意識に沈潜するわが身の由来を摑むことでもある。
(4)身の裡の「感触」を「ことば」にする過程と言える。言葉にした瞬間、直ちにそれに逆行するモメントが発生するというパラドクスをもっている。つまり「感触」と「ことば/ロゴス)」の間の逆説的な関係をやわらかく身の裡に保つことが、ワタシを知るセカイ探求の作法である。
(5)セカイを感知しているイメージとしての「感触」は、「ことば/ロゴス」にすることによって人類共通の俎上に上がる(そのように受け止めてもらえるかどうかは、また別の次元のモンダイとなる)。とすると、(4)のパラドクスに揺蕩う「あわい」が、生きている原動力ではないか。エロス性もまた、相異なる(パラドキシカルな)次元の交わりによって発現される駆動性を指し示している。
(6)こうも言えようか。ワタシという個体に於いて駆動される(「感触」から「ことば/ロゴス」への)パラドキシカルな跳躍は、実は個体の思念から人類史的な思念の俎上に次元を換える動作である。これは「生きる」ということそのものであり、「生きる」意味であり、「生きる」目的であるとも言える。
(7)つまりここに於いてワタシは人類史の通過点であり、人類史そのものであり、人類史の未来をも背負っている欠かすことの出来ない断片である。
(8)従ってワタシの命は、私の所有物ではなく、人類のものであると共に、その視界に入るセカイを構成する生態系を含む大自然のものである。私ごときの勝手にして良いものではないと同時に、ワタシに発生する細々とした些末なことを疎かに扱っていいものでもない。その、今の私には煩わしく思うことごとをバグと呼んだりするが、じつはそれが「√nの法則」の、逆行する大切なモメントを含むものかもしれないからだ。
(9)上記(6)から(8)へのプロセスが通過する「跳躍」には、神憑り的な要素が付き纏う。古来「神が憑依する」ようにして、「感触」から「ことば/ロゴス」への「跳躍」をし、あるいはそうした「跳躍」を受け容れることをしてきた。つまり「跳躍」が含む超越的な直感性を腑に落とすには、わが身をセカイのほんの小さな欠片に位置づけて見て取る作法が欠かせない。それが「畏敬」であり、恐れ多きものに対する「畏怖」であり、「祈り」であり、「信仰」であった。
(10)神が死に、人が自らの自律の根拠を考えなければならない時代になって、人は「畏怖」することを見失った。(9)にまとめたプロセスを、しかし、憑依されることなく踏むには、無意識に蓄積した(9)の過程を意識して掘り起こし、まさしくそれが人類史的営為であることを証しつつ蓄積していかねばならない。どうやって「証す」か。大自然のほんの欠片であることを見失わず、「√nの法則」の、逆行する大切なモメントを畏れ多くもと目に留めて、自らの航跡を「ことば/ロゴス」にしていくしかない。
あっ、尾を引いている、と思った。忘れっぽいワタシが、書き置いたからこそ、こうして3年目の感懐を綴ることができている。もし古事記や日本書紀が出来する以前の「語り部」であったりしたら、自らの自画像すら日々湧き起こる傍から消えていき、映す鏡さえも見失っていたであろう。よくぞ、書き置く文化に出遭ったものだと感慨深い。
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