2022年10月8日土曜日

工事が始まった

 昨日から給水管・給湯管・排管の、各戸内更新工事が始まった。朝9時少し前に、工事前状況を写真に収めておきたいと工事監督スタッフがやってきた。すでに片付けは済んでいる。どやどやと現場スタッフが6,7人入ってくる。手際よく廊下や壁の養生を施す。概ねこちらが想定した動線の範囲で動いているから、こちらが手を掛ける所はない。襖を外す、洗濯機や冷蔵庫を移動する、日々一旦外し夕方には再設置するトイレの置き場を指定するだけで、仕事は彼らが全部やってくれる。資材を運び込む。と、みている間にバリバリと床を一部解体して給水管・給湯管に手を触れる手はずに取りかかる。一人の監督スタッフが来て、今日は一日うるさい音がするが勘弁してくれと断りつつ、何か要望はあるかと訊ねる。何とも行き届いたプロぶりに感心している。

 9時から夕方6時半までは、水が使えない。洗濯機は管理事務所脇に設置していて、土日には鍵を預けてくれる。トイレは管理事務所のものを使用する。介護に必要な方がいる家には簡易トイレを用意している。夕方にはトイレも再設置し、キッチンもつかえるようにしてくれるから、お昼を凌げばそれほどの不都合はない。

 それでも、人が出入りし作業をしている家にいるというのは、落ち着かない。管理事務所までトイレに行くというのも、冷たい雨の中とあってメンドクサイ気分がいや増しに増す。ただ、リビングと作業をしている場との間には壁の養生であろうか、薄いビニールシートが掛けられているから、ソファに寝ころんで本を読んでいても、見られているという気配は感じないで済む。

 私は午後2時間ほど公民館へ出かけたが、5時前に帰ってみるともう片付け態勢に入っている。壁養生のビニールシートを取り外し、用具を片付け、掃除機をあてている。残った作業はその後1時間ほど続いたが、終了間際には監督スタッフが来て、キッチンの水やお湯が出るかをチェックして「本日の作業は終了しました。なにかお気づきのことはございますか」と丁寧な挨拶をしていった。手順の丁寧さに感心する。終了予定の6時半より30分ほど早く夕飯の準備に取りかかることができた。

 こうした給水管・給湯管の更新工事は、この団地が築32年になるから実施しているのであるが、これが私宅となるととても取りかかることができないと、いろんなことがメンドクサクなっているわが身の現在地を思い浮かべて思う。もう5年も前から、この工事が議題になった。私は4年前に理事長をやったから、工事全体の推進方法と工事費調達の資金準備を議題として取り扱い、それらについて「説明会」を行ってきた。何しろこの団地は、全部この理事会と附属の修繕専門委員会が立案・総会決定・具体的執行を執り行ってきた。これは、ある種の住民自治の民主的実践の場であり、住民の間の、家の修繕ばかりか資金や住み方、物事の決め方や周知の仕方などについて、人それぞれに暮らしてきた社会集団の気風のズレとそれらに対する理解の違いがぶつかり合い、共に暮らしている人と人との「共和」のあり方の感覚の違いにもなって、メンドクサイものがあった。でもそれが、高度経済成長からバブル時代を経て失われた*十年の間に、街に共に暮らす人と人との関係がつくってきたモンダイを浮き彫りにして、興味深い所があった。

 理事長としてこれに向き合うことを通じて、団地に共に暮らすということと個人住宅に住むこととの違いも浮かび上がり、同時にそれは、この社会が育んでいるコミュニティ性の現在を考えさせるきっかけになった。私にとっては面白い体験であった。しかも、私の後の理事長も、更に1年おいた後の理事長も私の階段5戸の内から交代で務める理事が担ったから、余計に言葉を交わすことも多くなり、共にすすめているという感触は強まった。コロナウィルス禍が重なったから、文書での遣り取りが多くなり、きちんと読み取ることが多くなったことも影響しているかもしれない。

 これほどの事業を、業者選定や事業実施の監理、休日を挟んで十日間ほどの居宅への業者の立ち入り、その間の日夜の暮らしとの調整などを、細々と作業展開に気配りして実施に持ち込んだ理事会(と修繕専門委員会)の仕事は、とても個人では対応できないことであった。同時にそれを通じて、ご近所との応接の機会も増え、人ととる距離を含めて、この団地に住まう心地よさを感じている所であった。それが、居宅に入って実作業をする人たちとその業者の応対にも体現されているようにも感じる。ああこれが、世の中全体に広がっていれば、随分住みやすさが違ってくるなと、日本全体の政治社会状況を思い浮かべて思っている。

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