見事に晴れた。天高くというのは、こういう天気をいったのだと肌で感じる。アッパレと音になり、天晴れという文字がついてくる。朝の内は空気もひんやりとして、躰が喜んでいる。つい先日までは日陰を選んで歩いていたのに、今日は日だまりを伝って歩く。可笑しい。半袖の下着に長袖のシャツ一枚でちょうど良い。汗ばむこともなく、囂しく鳴き交わすヒヨドリの声も気に障らない。
久々にカミサンは家に居て、八畳間にブルーシートを敷いて積み上げてある居宅工事中の避難物を仕分けしている。そのままキッチン下の物入れや押し入れなどに戻すよりも、この際、捨てるものは始末しようと頑張っている。明らかにまだ使える木製のサラダセットがあった。大きなボール、5枚の取り皿、サラダを取る木製のフォークとスプーン。でもこれ、誰かがもらってくれればいいが、我が家ではもう使わない。どうしたらいいのかなあ。カミサンは決断が早い。使わないとなると捨てようという。私はう~んと呻る。天は高いのに、何だこの、わが身の決断力のなさは、と思う。
こういう執着を見切る所まで考え詰めればいいのに、それができない。グズグズとした見切りの悪さは、物を大切にするという子どもの頃の心の習慣を引きずっているからなのか。じゃあ捨てないで使えばいい。今使ってるのを捨てるかい、と問われると答えに窮する。じゃあ何処に置くのよとカミサンは笑って、いいよ置いとくからと包んであった紙箱に入れ直している。そうして、そうしたことを私は忘れ、物は仕舞い込まれたままになる。まるで私の記憶装置みたいだ。すっかり忘れてしまったわけではない。何かをきっけかにして想起域のボタンを押したみたいに眼前に取り出され、その時には某かの思いが甦り、わが胸中で色づけが為される。誰かが丹精込めてつくった物を使いもせず捨てるって、どうよと自問自答し、そうか人類史的遺産と思っているのか。あるいは、物に対する物神性というか、その物が放つオーラに心がとらわれてしまうのか。困ったものだ。
ところが他方で、忘れてしまえば、そんなものに何の執着もなく、例えばカミサンが私の知らぬ間に捨ててしまえば、感嘆に断捨離できる。これって、なんだ? メンドクサイ性格ってもんじゃないか。
そういえば、天高くの「秋」は「とき」ともいう。つまり人生の終着点からわが身の現在を見て取ること。色即是空を思って執着することがなくなり、それ故に断捨離も容易となり、さっぱりとした天晴れ気分に浸れるのではないか。
そう考えると、私のメンドクサイ性格を断捨離することしか道はないのかもしれない。そんなことを思っていたらカミサンが、断捨離なんか自分でしなくてもいいのよ、生き残った者に任せてしまえば、さかさかと遺品整理でやってくれるから心配しないで、という。 何という慈悲深いお言葉。そうだよねえ、わが身の性分まで整理して死ぬなんてことは、誰にしてもできっこない。なにもかも未完のままで彼岸に渡るというのが、人生の作法。高い天に昇って下界を見て、子どもが遺品整理屋に頼んで始末するのを見て、ああ、それ捨てないでって口にすることはないものね。もうそのときには、すっかり肚が据わって色即是空、空即是色と思っているはず。
そうかそうか、そうだよね。ありがたや、ありがたや。
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