旧統一教会に対する文化庁の「質問権」の行使が行われるという。それが「解散請求」に繋がるかどうか取り沙汰されているが、果たしてそんなことができるのか。マインドコントロールとメディアは言うが、そんなことを立証することなどでとうていできまい。となると、せいぜい「献金」を制限することとなろうが、そうなると旧統一教会ばかりか、多くの宗教団体が「質問権」を行使されることになるのではないか。だいたい寄付行為が一般的でない日本社会で消費サイドから切り込むというのは、どんな法的隘路があるのだろう。
そんなことを考えながら、ユリア・エブナー『ゴーイング・ダーク――12の過激集団組織潜入ルポ』(左右社、2021年)を読んだ。ネオナチ、Qアノン、ISIS、ジェネレーション・アイデンティティ、トラッド・ワイフなどの過激組織に潜入し2年間に渡って取材したルポルタージュである。彼らがどうメンバーを勧誘し、主義主張を広く宣伝し、過激な行動へつなげているかを、著者が現場に乗り込んで取材している。
サイバーテロやSNSを駆使した「勧誘」からいつしかヘイトクライムにのめり込んでいくプロセスが活写される。その活動の様子は、旧統一教会の手練手管が「霊感商法」という呼称が持つ旧弊なイメージとは全く違って、ごく日常的な関わりからヒトの最も根源的な欲求と欲望に触れて、人の心裡にじわじわと染みこんでいくのと同じ恐ろしさを湛えている。7月に元宰相を銃撃したyの母親のように、わが子の苦難をも顧みず信仰に投企し、事件の後もyの行動の起点に自らの振る舞いがあったことに気づきもしない。その「狂気」は、彼女がすっかり旧統一教会の「群れ」に帰属していることを示している。そのように、ISIS(イスラミックステイト)の残忍なテロでさえ、日常生活の延長上に発生しているかのように思わせる。
「アメリカの部族主義がトランプをホワイトハウスに送り込んだ」と(アメリカを拠点とする部族主義の専門家)エイミー・チュアのことばを引用して、その特徴を「部族主義」と著者は見て取る。
《部族主義は人間の根源になるものだ。その力学には政治的な色もなければイデオロギー的な方向もない。とはいえ往々にして、民族、性、文化、あるいは宗教を隔てる境界――わたしたちのアイデンティティの最も深い層――に沿って分断が起きる傾向にある。そしてソーシャルメディアは、こうした境界を際立たせたいと考える周縁の集団に、彼らの部族を無理矢理押し上げるための武器を授けてくれる。その結果は不穏なものだが、それはまた予想がつくものでもある。》
こうも言えようか。政治的な色合いとかイデオロギー的な方向というものはヒトの根源的な欲求である「群れる」ことの上着のようなもの。ヒトは自らの内発的な衝動を意識することなく上着を着て「繋がり」群れることによって、自己の実存を確認する。個人が直ちに狂気に走るわけではなく、上着を羽織ることによって狂気が芽生え、その振る舞いを「英雄的」と錯誤するようになる。それを上手く操作するように過激集団がSNSなどを通じてアクセスしてくる。
《これは、国際人でリベラルな「どこにも属さない者」と、地元に根を張った保守派の「どこかに属する者」の対立である。それを「価値観による部族主義」と呼ぼうと「アイデンティティ・ポリティクス」と呼ぼうと、どちらにせよデジタル時代はこの現象を著しく悪化させている。》
《国際人でリベラルな「どこにも属さない者」》の抽象性よりも《地元に根を張った保守派の「どこかに属する者」》の具体性の方に分がある。「神は細部に宿る」からだ。トランプの醸す熱狂も、ここに起点がある。ヒラリー・クリントンの「欺瞞性」も、彼女の理念的な呼びかけが上着とみなされたからだ。
とすると、旧統一教会を「排除」するのはフランスの「セクト法」のような発想を日本の政治家たちがこなさなければならない。だが、宗教団体に対して(裏面での政治家との関わりが深いからこそ)腫れ物に触るようにおずおずと見ているだけの行政機関に、フランスのそれほど明確な指針が提示できるか疑問である。
というのも、日本の「部族主義」は、自然条件に大きく抱かれて「自ずと醸成された心地良い一体感」に包まれた感触を土台にしている。しかし、「セクト法」が意味するような理念に基づく人為的な切除は、フランスのようなカトリックの伝統が根強く、その上知的エリートが取り仕切る階級社会だからこそ、庶民の苦難を救済するという視点で取り組めるている。だが、日本のような(八百万の神信仰が身に染みこんでいる)大衆平等社会に於ける心の救済システムである宗教団体に、行政的な介入は無理なのではないか。
あるいは、ドイツのように、ナチス時代に行ったホロコーストとそれに対する厳しい自己批判を通して法的規制が成立してはじめて、実のある規制へと機能する。と同時に、エマニュエル・トッドが述べているが、ドイツ国民がごく一般的な通念として持っているドイツ観念論哲学の共通感覚をベースにしていてこそ、その法の施行が現実的な力を持ってくる。それとは異なる「自然に醸成された共通感覚」で結びついてきた人々の社会で、理知的な規制として作動するだろうか。
先の大戦の戦争責任を曖昧にぼかし、戦争をあたかも自然災害に出くわしたかのように取り扱ってきた日本の、殊に政治家たちは「セクト」の意味合いが「部族主義」的に解され、直に人種差別的とかナショナリティを峻別する「アイデンティティの最も深い層」へ一足跳びに結びつきかねない。
著者のユリア・エブナーは、こう警告する。
《ドイツは2017年にいち早く、バーチャル世界の過激思想のコンテンツを罰することにした。この議論を呼ぶ「ネットワーク執行法」は、アクティブユーザーが2000万人を超えるウェブサイトに対し、テロのプロパガンダやヘイトスピーチのコンテンツを24時間以内に削除するよう要求するものだ。これを浄化するための前途有望なモデルとなるとして歓迎した者もいれば、「他国にとっての危険な見本になる」と非難した者もいた。懸念されるのは、中国やトルコなどの余り民主主義的でない国が、政敵の検閲を正当化するために反ヘイト法を利用しかねないことだ》
この末尾にある「中国やトルコなど」の為政者が持っている統治的センスを、アベ=スガ政治でみせてもらった。またそれが、それなりに選挙民に支持されてきたことを体験した者としては、そちらの方を懸念する。
本書の著者・ユリア・エブナーが向き合っているのは、過激主義組織が繰り出す戦術ではなく、それに自らを投じていく人々の文化であり、身体性であり、そうしないではいられない社会的な構造とそれの醸し出す苛立ちである。まさしく、文化の戦争を闘わねばならない地点に着ている。そして、私たちも。
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