2022年10月2日日曜日

体質が似たようなものなのかな? それとも・・・

 ロシアのウクライナ侵攻はハイブリッド戦であったことに、「ハイブリッド・リテラシー」(2022-9-2)で触れた。表の武力侵攻の前段で、ウクライナ社会に深く浸透して、社会インフラの攪乱を工作し、気風に影響を与えて侵略への反抗心を挫いたり、ウクライナの戦闘状況を報告し形勢を左右する、謂わば裏戦術が、サイバー攻撃やスパイ活動などで行われていた。それを感知して台湾でも、大陸からの事前工作に対応すべく、すでに動き出していると新聞は報じている。

 それでふと思ったのだが、そうしたことに早くから日本社会が対応する必要があると警鐘を鳴らしてきたのが、櫻井よしこなど日本会議の面々であり、安倍元首相など自民党政権であった。日本社会の人々が「茹でガエル」だと口を極めて非難した作家も、この政治集団に加わるようにして元気ではなかったか。

 では、今回の旧統一教会の「手口」は、日本社会に浸透する「裏戦術」の見本のような活動ではないか。それに自民党の政治家の数多くが、何の警戒心もなく取り込まれていたというのは、どういうことか。韓国発ではあるが、反共宗教団体という「意を同じくする者」と受け止めたのかもしれない。だとしたら、いまさら手の平返しをするように「関係を断つ」などと言わないで、「何がワルイ」と反論すればいいではないか。だが一人二人を除いて、そうした居直りをしていない。

 といいながら、実は私は日本会議の人たちの動向や発言に注目しているわけでないから、今回のことについてどういう発言をし、どういう態度をとっているか知らないのだが、この人たちの旧統一教会に関する発言が聞こえてこない。そもそも安倍家三代、岸信介時代からの縁というから、多少ではなく他生の縁のある「骨がらみ」と受けとっていた。日本会議もまた、同じようにズブズブの関係だったのではないかと推測は広がる。

 とすると、「裏戦術」を通した社会への浸透に対する「(社会的)抗体」を醸成するには、「茹でガエル」状態の市井の民としてはどうしたらいいのか。そうしたことに、日本会議の人たちは言及しているだろうか。櫻井よしこさんの、時折耳に入る言説のイメージでいうと、政治家や社会のリーダーたちが真実をしっかり摑んで市井の民を領導しなくてはならないという趣旨のことは聞こえてくるが、ではその「真実」をどう摑むのかという「真実リテラシー」の方法については、言い及んでいない。

 いや「真実リテラシー」は、共産主義というコトの本質を摑んでいるかどうかだというかもしれない。だとしても、では、自分自身はどうやってその「本質を摑んだ」のかということを開示しなくては、習近平と同じ、「真実を知る共産党が人民を領導する」と専制政治を振り回すのと何一つ変わらない。

 いや、そんなことはない。そもそも共産主義社会と自由社会とのイデオロギー選択がある、というかもしれない。だが市井の民からすると、暮らしが成り立つかどうかが第一優先、その暮らしと不即不離の関係にあるのが社会秩序の自由と安定性である。それはヒトの暮らしに於いては、自律と依存の裏表が作用する微妙な関係にいつも影響されている。自分のことは自分で決めたい。しかしおおきな出来事が起きたときとか、おおきな社会インフラが関わる事項については、為政者がしっかり対応してくれなくては困る。そういうときには相矛盾する局面に出くわしながら、ヒトは自由社会を満喫している。

 そのとき、為政者と市井の民とはどういう関係にあるのだろうか。民主政治というが、(代議制民主主義の)自由社会日本に於いても(ごく単純に言えば)「選挙のときの主権者」にすぎない。恒に常に主権者として自らに問い自ら応える、日常的な動態的存在としての主権者という関係に於かれた活動関係は、大半の民は持っていない。これも(ごく単純に言えば)つねに主権者として遇される為政者との情報提供と意見収集とその相互討議が行われる関係があってこそ、民主政治体制下にあると自己把握できる。

 つまり、社会がある秩序で統治されていればいいというわけでもないのだ。社会を統治的に見ているのかそうでないかというのは、市井の民(人民)をどう遇しているかによる。真実を知る為政者が率いるという単純図式で考えると、自由そのものがそこなわれる。それほどに、人の社会-政治関係は、脆く危ういものだとも言える。現実には、そう単純に専制的かそうでないかを二分して選択しているわけではない。そこに、言葉のまやかしとか曖昧さとか、それに頼っているワタシとは何かというモンダイが絡んで揺れ動き、どこでその事態をとらえているかによって複雑になる。

 自由な社会というのは、人々(人民)がそれぞれに於いて理知的に判断し自在に振る舞うことをして尚且つ、社会の一体性とか秩序の一貫性を(或る程度)保持できる関係を築くことだ。為政者はその水先案内人(パイロット)であるが、どちらの方へどの道筋を通って向かうかは、舟に乗っている人々の意思を尊重しなくてはならない。

 そういう社会体制を取っている日本に於いて、果たして旧統一教会のやっていることは、妥当なのだろうか。やっていることというのは、次のようなこととまとめられようか。

(1)布教活動……本体と友好団体とを分け、本体を隠して信者を集めること。

(2)信者を隔離し、マインドコントロールをすること。

(3)信者に多額の献金を求め、信者本体の(家庭)生活を壊してでも「集金」を続けること、各種の活動に献身させること。

(4)旧統一教会本体の、政治的影響力を駆使できるようにするという(日本ばかりでなく米国や韓国や各国に於ける)目的のために、政治家(またはその候補者)への選挙支援を行い、他方で政治家の権威を利用して、社会活動の信用を築き、影響力の拡張を目指すこと。

 マス・メディアの報道で(元信者の話も交えて)非道いなあと思うのは、(1)(2)(3)だが、自民党政治家の多くは、(4)での接点を認め、それを謝罪し(?)、今後関係を断つとしている。だが(1)(2)(3)に触れて、旧統一教会を批判した自民党政治家はいるのかな。マス・メディアの報道で「反社会的活動」と表現されていて、それを「世論」の多数が支持しているから、旧統一教会を「反社会的団体」とみなしている振りをしているだけじゃないのか。とすると、ちょっと待ってよ、といわねばならないと私は思う。

 (4)がイケナイことならば、日本の他の宗教団体も政治活動とは手を切らなければなるまい。創価学会も仏教諸派の政治団体も、影響力を行使してはいけない程度の関わりしか持てないとなると、何それ? ってことになる。

 いやじつは、(1)(2)(3)についても、本体を隠して「友好団体」的に活動して勢力拡張しているのは、旧統一教会に限らない。各政党も「友好団体」をもっているし、その中枢部に本体のリーダーを送り込んで当の活動・運動をわが派に惹き込もうと綱引きをしていることは、政治家なら知らぬはずがない。派閥抗争と呼ばれているものは、彼らの生き甲斐でもあり、活動基盤でもある。

 とすると、旧統一教会の活動の、何が悪いのか。信者勧誘の仕方か、マインドコントロールか、献金か、信者を使った政治活動か。そこには、一人の独立した市民が信者となっていく過程があり、それぞれの場で各人にしている自律的判断がある(と推測している。信者二世のモンダイというのも、それはそれで考えなければならないと思うが)。もし信仰が、市井の民の生活基盤を崩すことになるのがモンダイで、そこに政治が口を挟むのであれば、その地点に於ける社会的救済のインフラ整備を考えなければならない。例えば今回の山上容疑者の母親が信者となって、家庭を顧みず多額献金をして家庭崩壊を招くような場合に、社会インフラはどう向き合うことができるのか。

 いやそれはその宗教団体が考えるべきモンダイだと放置してきたのが、今回の事件を招いたと言っても良い。旧統一教会も「改革委員会」を起ち上げて、教団内部で調査をして解決を図るから、相談を受けた消費生活センターも、その旨教団へ連絡してほしいと各地の消費生活センターへ働きかけをしているというではないか。これは、モンダイをなかったことにする手法である。社会的な問題として俎上にあげるとは、社会インフラとして問題解決の手順と舞台を整えることに他ならない。

 そういう風に考えていくと、ハイブリッド戦の「社会抗体」をつくることと、今度の旧統一教会信者のモンダイを社会的に考えることは、将来のハイブリッド戦に関して、避けては通れない道筋だと思われる。ぜひとも「茹でガエル」批判をしていた日本会議の方々に、一つの処方箋を出してもらいたいと思うのだが、どうだろうか。

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