2022年10月22日土曜日

兄弟という同床異夢の色合い

 三十数年続いた中国の一人っ子政策が見直されて7年になる。1970年代も終わろうという頃だったか、「一人っ子政策」を耳にしたときは、14億になろうという人口を抱える中国の苦難を共感的に思っていた。というのは日本でも、その少し前、私が小学生の頃には「多すぎる人口」が社会科の学習テーマに上がっていたからだ。ブラジルへの移民船が出るという話しも新聞記事やラジオのニュースで取り上げられていたから、十倍の人口がいる中国は大変だろうなと思っていた。

 兄弟五人の真ん中に生まれ育った私は、しかし、一人っ子がどういう心持ちを埋め込まれて育つかということには思いが及んでいなかった、ただ単に人口が少なくなる、食べ物を分けるのも容易になるという程度にしか思っていない。だが現実に、その一人っ子が成長して後に、子を生していく社会が21世紀に入って眼前に広がってみると、その事態が生む社会的困難さもまた、目に止まるようになった。

 実際に私が中国へ行くようになったのは、その頃からであった。当時の広州や武漢の街や朝の出勤風景は、まさしく過剰な人口が人を押しのけて生き抜いているエネルギッシュな気配を十分すぎるほど湛えていた。だからこの時も、一人っ子政策がもたらす困難に思い至っていない。まして、その社会的困難よりも、人間形成に於ける困難がひたひたと押し寄せていると感じられる現在の中国の苦難は、経済成長だけで片付けられない大きなモンダイを提起していると思う。

 社会的困難は、すでに国連統計などで指摘されている。

《中国の人口は14億にまで増え、国連の推計によると2022年から減少に転じます。2100年には7億6600万に減ると予測されています》

 高齢化で退職者が増える一方で若い働き手が急減する。生産年齢人口の減少が経済成長にもたらす影響は日本がすでに実証中である。日本はそれでも「一億総中流」といわれる人類史的体験をした。中国は今から「共同富裕」政策に入ろうとしている。果たして14億人の総中流が実現するかどうか。まして目下、対外的な政治経済的環境は中国にとって厳しいものがある。極端な格差をそのままにしておくと、暮らしに於ける憤懣が爆発する。ゼロコロナ政策がもたらす都市封鎖がすでに破綻しそうな画像が、ときどきTV報道される。これはただの端緒。強権的な統治体制は、ちょっとした火口で発火し、大きな暴発になる。

 たとえ総中流が実現しても、厄介なことが起こる。それが豊かになった人たちには、開かれた将来が希望になる。だが言葉狩りを始め、徹底した情報統制とメディアの国家統制は、庶民の生活の隅々にまで目配りして手を入れなければ適わない。それはほとんどジョージ・オーウェル「1984年」の実現社会である。AIによって全事象コントロールをするとしたら、まさしく人間をデジタルシステムを通じて機械化していくことに他ならない。その事象は、ゼロコロナの都市封鎖の実態がよく示している。息が詰まるというよりも、ほとんど人間を社会家畜化することに他ならない。これまたジョージ・オーウェルの「動物農場」同然となる。

 これが「開かれた将来が希望になる」裕福となった人たちに我慢できるか。空や海の向こうに、自由な社会がそれなりにのびのびと暮らすのを見て、なお、「豊かなままである」ことに耐えるというのは、たぶん、精神的に怺えることのできないことではないか、人の精神を脱け殻のような空っぽにしてしまう。

 聞く所によるとここ数年中華圏では「寝そべり族(躺平族)」というのが増殖中だそうだ。それなりに高学歴をつけたのに相応の仕事がない。国の一人っ子政策への庶民の対策が跡継ぎの男児を生むことであったから、男女の数が大きく異なり、結婚できない男子が多く輩出されている。ことに優秀な人たちは(強権的統治を嫌って)海外へ行くことができるが、大半のふつうの人たちは懸命に働いても単なる労働力として扱われるだけ。ならば食べていける程度にそこそこ働いて、のんびりと人生を送ろうではないかという若者が増えているというわけだ。そこは老荘思想の生誕地でもある。無為自然で生きて行けるかどうかはわからないが、猛烈社員は勘弁してよという声に聞こえる。20年以上前に見た「人を押しのけてでも前へゆく」という武漢の街の出勤風景はもう見られなくなる。豊かになるって、そういうことだ。

 だが私が43年後の「一人っ子政策」に感じるのは、中国の青壮年層の社会を見る気質の変化だ。兄弟姉妹がいない。大事に育てられる。経済成長期であったろうから、努力すればそれなりに報われる結果を手にすることができた。それはたぶん、彼らの親世代の薫陶も受けているから、伯父伯母・叔父叔母、従姉妹。従兄弟という関係の関わりの感触も、人と人との関係として身に刻まれている。

 だが、彼らが成人し、家庭を持ち、子を生したとき、その子らにとっては叔父も叔母もおらず、従姉妹兄弟もまた全くいない親族関係となる。地域的な近隣関係がそれを補うだけの関わりかどうかわからないが、家父長的な男系血族を重んじる宗族的な宗法制度の下で暮らしてきた人たちにとって、身に刻まれた無意識の規範感覚の違いが混乱をもたらさないであろうか。

 宗族制度の下では、後を継ぐ男児が親の面倒を見る。では一人っ子政策で生まれた女児の親は誰に面倒を見てもらうのか。一人育てた子が女児であるからといって、簡単に手放して嫁にやっておるまい。親の世話をするいわれはないとなると、親は孤立してしまう。女児の親は、嫁にやる先からたんまり支度金を頂戴することが習わしになる。謂わば、女児は「売られる」のである。

「1980 年代の末から,多くの農村地区で女性を売買する現象があらわれ,再び深刻な社会問題になった」と、『中国における婚姻と家族の研究』(張 琢著、星 明訳。佛教大学社会学部論集・第 63 号、2016年9月)は記す。

「改革開放」が掲げられた1979年から1990年代の初期までは、産業社会化の初期段階であった。こんな記述もある。都市化が進み、農村から出てきた若い労働者の間に恋愛結婚が広まると、親が決める結婚という観念がなくなり、女性もまた自立して稼ぎ手になるから、親によって売られるという(伝統的)習俗から離脱する。「売られる」のは、貧困に苦しむ(都会に出ることすらできない)農村部に残る習俗となる。

《1990 年代中期から現在までは経済が高度成長し,社会の貧富の分化が拡大した時期であり,相手の家族および個人の金銭的条件,財産獲得の能力が若い男女,とくに女性が配偶者選択をする重要な基準となった(王英侠,徐暁軍,2011)》

 こうして若い人たちにとっては、中国伝統の宗族制度は古い習俗として捨て去られる運命となったが、では親は捨てられるのかとなると、そうはいかない。一人っ子で育った娘は結婚しないことで仕事のキャリアを積み上げることもできるし、親の面倒を見ることもできる道を選ぶことができる。今度は一人っ子政策故ではなく、社会習俗的な自由によって少子化が進行する。

 あるいは、若い家族が、共々に両親の老後を見ることにして、伝統的な制度を崩していく。

《長い間一人っ子政策をとっていた影響に加え、最近では、教育費が高く2人めの子どもを持つ経済的な余裕がない人が増えていることや、価値観の多様化でそもそも子どもを持ちたくない人が増えていることがあります》

 自分たちの暮らしを味わうことに精一杯、子どもを育てること自体がメンドクサイ。ことに兄弟姉妹なしで育ってきた者にとって、自分と関わる人が増えることを煩わしく感じてしまうのは、うなずける。

 多くの兄弟で育つと、自分がワタシ一人のものではないと身が感じている。多くの兄弟の取り囲まれて育つことを私は、同床異夢の色合いと感じている。いつ知らず身に刻まれる感性や感覚や言葉や価値観や振る舞い方は、歳をとってから考えると、同床異夢であった。同じ生育環境で、互いの存在を感知することそのものが、自分の立ち位置を恒に常に意識させ、それがワタシをつくった。兄や弟はまた、それぞれにワタシをつくるが、それが、大部分は同じ空気を吸い無意識に刻みながら、異なったワタシであることを、向き合う毎に気づかされる。だが躰に刻んだ無意識が、異なったワタシを受け容れる糸口になっている。歳をとるとほとんど身の緊張を解除して兄弟と向き合える。席を同じうして黙って杯を傾けているだけで、言葉も要らないというのは、何とも年寄りに相応しい光景ではないか。何時も兄弟にあうときには、そう思う。

 アクシデントがあったときの他者や異なる振る舞いや考え方を受け容れようとする許容度も、ごく自然に大きい。だが一人っ子で育った人たちにとっては、常に意識して自分を制禦しなければならない領域のことになる。自己を解除する過程がそうなってしまう。これほどシンドイことも、そうない。「価値観の多様化」というよりも、身についた心の習慣が、結婚を忌避し、子育てを負担に感じることに通じていくのだ。

《人口が減れば不動産の需要が減るだけでなく消費も縮小します。さらに、さまざまな産業で必要な労働力も確保できなくなり、成長力が大幅に鈍るおそれが指摘されています》

 ともいう。いま中国は住宅バブルの最中。どうそれを破綻させないで辻褄を合わせるか、習近平政権は四苦八苦している。コロナ鎖国とアメリカとの対立と、目下の中国の振る舞いに向けたこれまでの取引相手の変節がじわじわと中国社会を締め付けている。

 政権の強権的体制さえ取り払えば、中国は、日本に似た社会関係になっていくような気配を感じていたが、国家体制の違いだけは、我らが庶民には手の出しようがない。社会が常に緊張状態に置かれ、なお個人として静かに気を休める場を持てないというのは、とてもシンドイ。骨の折れることというより、棲む処にならない。

 コロナの前であったが、香港を訪れ、案内してくれた現地探鳥家たちの大らかな振る舞いに、ああこういうのを「大人」と呼んだのだなと、中国の古典を思い出して感嘆したことがあった。あの人たちが、いつもいつも緊張して過ごしているのかと思うと、手も足も出ないのが申し訳ない気持ちになる。

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