1年前(2021-10-22)「学問研究に対する軽視の体質」と題して記事を書いた。
《ノーベル賞学者の「KAGRA計画」重力波の検出は事実上、不可能に》という見出しの週刊文春オンラインの記事。《梶田氏が(オンライン会議で英語で)明らかにした「目標値の引き下げ」は、なんと「1MPc以上」。重力波の検出には1万5千年かかる》と「内部会議」での発言に呆れ果てたようなニュース。それを行政予算の配分を含めて「学問研究に対する軽視の体質」とモンダイにした。それは、1年経ってどうなっただろうと「検索」してみた。
驚いたことに、「KAGRA計画」当事者サイトにあるのは、2022年6月のコメントが最新のもの。文春報道に関する「KAGRA計画」推進側の発言は、全くない。サイト出発当初の意気込みを語る文書が平然と並ぶ、それどころか「2021年、學認を受けた」を誇らしげに記している。これが文春報道前かどうかはわからない。前だとしたら、空とぼけている。後だとしたら、「學認」という「権威」は井の中の蛙どころか、古井戸の中の「権威主義」ということになる。
唯一つ《民俗宗教(部族宗教)俺らについて》というサイトが、科学者(や数学者)が社会形成をするという意志を持っていないと批判する外野からのコメントがあった。このサイトの展開軸は、そちらを覗いて貰うしかないが、古い井の中の蛙の研究視界が土台とし、且つその研究が及ぼす社会形成をみていないと、いつまで経っても井戸から出ることはできないよと警鐘を鳴らしている。
だが研究当事者としての応答はない。私は全くの外野にいるから文春報道には大いに関心を持った。研究当事者はずいぶん慌てているのではないかと思った。この報道は、内部会議の梶田発言の暴露とは言え、報道された時点で、社会の側からの研究当事者に対する問いかけとなった。それに対して応答するのが、「責任」というものではないか。
市井の素人が余計な口出しをするなと思っているのかもしれない。だが、重力波の研究の出立地点が、市井の民の好奇心と同じ地平にはじまったものだと考えると、梶田発言がいう「(現状では)重力波を検知するのに1万5千年かかる」というのは、大変大きなモンダイである。それを研究者はどう受け止めているかに応えることは、研究者の「良心」にも関わる大問題ではないか。「モンダイ」とは好奇心にとって大きく関わるという意味であり、「問題」とは研究の社会的責任を果たすという意味である。
もちろん税金を使っているとか、世の中の暮らしに役立つかということをモンダイにしているわけではない。むしろ、どう実際の暮らしに役立つかはわからないが、ヒトの好奇心を満たそうとする振る舞いは、その視野の届くところまで生命の営みが続くように感じて、私は大事なことと思っている。
もしその研究が原動力となる(大自然に対する)好奇心に支えられているのであれば、探求が進めば進むほどその好奇心は昂進/更新され、次なる好奇心を呼び起こすことで(その限りで)永続性を持つように感じられる。それが、わがことのように思えて、何ともうれしいのだ。
ただ好奇心といっても、その息の長さは様々である。それも研究者の体調や心の習慣、暮らしの態様、世の中との関係に大きく左右され、変化する。飽きてしまうかもしれない。他のテーマへの好奇心が増して、切り替えたくなるかもしれない。探求によってある時点で満たされて研究としては終了してしまうこともあろう。あるいは生活に困窮して自死した研究者がいたように、経済的に行き詰まる人もいよう。逆に、その研究に対する社会的な評価がなされ、それに権威や名誉が付き纏うと、研究者は好奇心というよりも社会的期待に応えようとする責任に引きずられて、活動を続けることになることもあろう。その過程で、研究する時間もなくなり、研究テーマのもつ社会的関わりに応じて活動する領域も形態も違ってしまって、むしろ若手研究者の資金集めに奔走しなければならないというベテラン研究者の話も聞いたことがある。
にもかかわらず、重力波の研究という「KAGRA計画」のような浮世離れしたことに多額の税金を注ぎ込む学術研究に対する「熱意」は、ワタシのもつ卑俗な好奇心を刺激して高貴なものにしていこうとすると思え、まるで我がことのように誇らしいのである。それが、梶田発言では、おおよそ見当違いの研究をしていると思え、研究者たちはどうするのだろう、為政者はどう対応するのかと関心が掻き立てられ、でも直ぐに、それを忘れてしまっていた。
まあ、忘れたというのもいい加減だが、1年経ってもそれらしい応答が研究当事者からないというのも困ったものだ。世の中は旧統一教会騒ぎで一杯だし、夢も現もつまんないなあ。本当に古井戸の中の蛙になっちゃってるんだろうか。
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