2022年10月23日日曜日

躰の不思議をどう摑むか

 山歩きをしていた頃の必須の生活習慣が今も残っている。朝、出発前の排便。山小屋泊でもテント泊でも、出発前に排便しておかないと歩いている途中で面倒なことになる。もちろん青空トイレだが、小さく穴を掘り、後で土をかけたり枯れ葉で覆ったりする。とともに、尻を拭いた紙をビニール袋に入れて持ち替えるのが、気分的に何ともイヤ。二重三重にしていれば匂いは漏れてこないが、しかしそれを思い起こすだけで「ケガレ」が一緒についてきているような感じがした。ま、これはこれで、なぜそう感じるのか面白い論題だとは思うが、そういうこともあって、出発の1時間半前には起きて、水を飲み、荷を整え、朝食を食べ、ともかくトイレを済ませる。

 山歩きとの時は特にそうだが、一日の水の摂取が上手くいかないと熱中症になるから、特に意識的に水分を摂る。だがそれ以上に私は便秘気味になることに注意を傾けた。これは、胃腸が丈夫な証拠ですよと、いつか医者に言われたことがあるから、身体の調子を推しはかる意味でも大切なことであった。

 ところが歳をとると、水分の摂取が必ずしも歩行や運動や外気温の寒暖と相関せず、その不足や過剰を汗になって外へ放出することも不器用になる。加えて、そうした躰の機能が鈍くなるのだと私は思っているが、過不足の感知機能も上手くいかなくなって、結果的に朝の排便で苦しむことが、ときどき起こるようになった。一度は、まだ60代であったが、余りの苦闘に草臥れ果て、血便が出たりしたので、医者に行って手を貸してもらったこともあった。

 去年皆野の病院で長期入院治療を受けていたときに、そういうことが生じ、退院のときに便秘薬を処方してもらった。それを貰うときに「(飲むと)クセになるか」と訊ねたところ、「これは腸に働きかける薬ではなく、排泄される便を軟らかくするのに作用します。クセにはなりません」と説明があり、確かにそのように感じるところがあって、一月くらい続けて用いた。

 今年、手術して入院中に再び便秘気味になり、医師が同じ系統の薬を処方してくれた。ちょうど7月の暑い盛り、どこにいても水分摂取に気を遣う時期ではあったが、薬を止めると朝のトイレで苦戦する。服薬を続けているとほぼ毎日苦しむことなくルーティン通りに過ごすことができて、何とか収まっている。服薬がクセになったのだ。涼しくなって薬を止めようかと思ってはいるが、朝が難儀になるのは困るから、このままでもいいかとも思う。整形外科の医者は手掌の診察をする毎に「便秘の方はどうですか?」と訊ねる。「薬を飲んでるせいか、順調です」と応えると、黙ってひと月分を処方してくれる。

 胃腸が丈夫であることは、山歩きならずとも年寄りの暮らしには有難い体質である。だが、水分摂取への気遣いを欠かせないのが、感受性が鈍っていることと合わせて、気苦労といわねばならない。

 体調をコントロールするということではない。躰の訴えに耳をよく傾けて、その不可思議な作用に敬意を払いながら、必要と思われる処置を執る。そういう、まず不可思議を摑む。そして処置との間のブラック・ボックスを経験的な知恵を傾けて感知して繰り出す。論理的な整合性などというものではない。ある種の祈りを込めたような振る舞いが「知恵」だと感じる。それを意識的に行わなければならないのが、歳をとった躰への向き合い方だと、朝晩の飲み薬の多さを手の平に受けながら、つくづくと思っている。

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