2022年10月26日水曜日

ことばの魔性

 昨日の話「言葉の崩壊とワタシの世界観」に続ける。昨日は、誰もが同じように受けとる「事実」そのものはなく、それを受けとる主体によって様々だというのが、話しの起点であった。それが言葉となって私に届くときすでに世間の衣を纏っている。論理的にはその衣を一皮ずつ捲ってみるということになるかもしれないが、実は、そうはいかない。私がワタシであると意識するのが世間の衣を纏うことに拠っているからだ。その大部分は既定の事実としてわが身に流し込まれている。起きたら顔を洗う、右手で箸、左手で茶碗を持つという所作もそう、主体である私はそれらをことごとく所与のこととして身につけていき、どこかの段階でワタシが起ち上がっていた。

 この所与のことが、人によって異なる。子どもにとっては環境ということになる。親兄弟を最も身近な環境として、さまざまな生い方の違いが、遣うことばの違いとなって身に染み、ある段階でワタシが意識される。それは、世界(環境)と私が異なることを意味する。私が世界を切り離すのか、世界から私が切り離されるのか、そこはわからない。だが、意識される段階というのは、たとえば3,4歳の「第一反抗期」などと心理学では名付けているようだが、たぶんそういう画期に目を止めて見ているから名付けたに過ぎない。成育中のことごとくの所作に「切り離す/切り離される小さな契機」が埋め込まれていて、日々小さな気づく積み重ねが溜まりに溜まって「ワタシ」としてブレイクスルーすることが画期として(観察者の)目に止まるのであろう。

 「切り離す/切り離される小さな契機」は、思いどおりに行かないわが身にとっての不都合の感触と環境とのぶつかり合いだ。それの発生する主導権がどちらにあるかは、もっと長い目で見るとモンダイではない。たとえばそれが幼児の方にあるにしてもそれは、長い人類史的進化の過程で埋め込まれてきた「我が儘に生き延びようとする衝動」につき動かされているからだ。意識する主体とは言え、能動的か受動的かはモンダイではない。身に埋め込まれた人類史的遺産が内発的かどうかを問うのは、もっと次元の違う状況においてであろう。人のからだという次元で考えるとき、なるべくしてなるようになっていっていると受け止めるところから、ワタシは出発する。つまりわが身そのものが所与の人類史的遺産の堆積物とみてとるってことだ。

 そのわが身に埋め込まれたコトゴトをことばで認識することが世界を認知することだ。としたら、そう簡単に越えられない壁が立ちはだかる。ワカラナイことが多すぎる。ワカラナイことというのは、判っているかどうかさえ判然としないこと。私は仏教用語を借用して無明と呼んでいるが、外の世界も判らないことばかりである。逆に、わが身に埋め込まれている人類史的堆積物も(ここまでの私が出遭った)世界と呼んでいいと思うが、これもタマネギの皮を剝くのと違って、所与のこと、既定の事実、デファクト・スタンダードといってもいいような、コトゴトに満たされている。ワタシの無意識といっても良い。

 この、外に向ける視線と裡側に向ける視線とが、巨大望遠鏡で見ているような大宇宙の始原からの発見と微細な量子論的身の始まりからの洞察と等価な響きをわが身伝えてくる。そういう意味で、私は科学的な探求に門前の小僧としてワクワクして触れている。このワクワクの一角に解くに解けない不思議にさわっている手触りを感じる。それが、「ことば」が纏っている「衣」に感じるワタシの心裡の躊躇い、余白、伸びしろ。

 「ことば」それ自体が、明々白々な語義を持つものではなく、さまざまな由緒由来径庭の人の手を経ていろいろに衣を纏っている。そのかかわった(だれともつかぬ)人の思いに辿り着けるはずもなく、だがそれが、わが身に流れ来たっている。それに対する畏れ多い心持ちと面白いという、ちょっと自らを客観視しているような面持ちとが相乗して、不思議の国に転がり込んでいるように感じているのである。

 いや転がり込んだというよりは、ことばを用いる人の世界に生まれ落ちた。それ自体が不思議であり、そこにわが身が、諸々の曖昧模糊とした世界に感じる不可知的な魔性、驚天動地の魔術的力が働いている驚異がある。

 その畏れ多い感触の自覚が、口をついて出るわがことばの慎みを整える。書き記す度に畏れ多いことをしていると自戒の念が行間に張り付き、その畏れ多い(魔性の)領域に踏み込んでいるのかもしれないというわくわく感に結びついている。

 なんだかヒトのセカイの際まで来たのかな。そんな感じにとらわれている。その先は無明、真っ暗な闇。だが暗く希望がないという感触ではない。来るべきところへ来てオモシロイという心持ちになっている。

 ヨミとヤミは語幹が同じと大野晋は記す。ヨミとは黄泉の国のヨミ。なるべくしてなるというのが、身に刻んだ人類史的自然(じねん)の心の習慣に、うまく見合っているような気分でうれしい。

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