2022年10月4日火曜日

身体の構造と相互連携の関係

 昨日の話(私の身体が1000兆個ものバクテリアやウィルスなど微生物によって構成されている。その連携の総体がワタシになっている)につづける。身体諸器官がそれぞれの特性に従って勝手に動いているのに、全体として統一性を保つというのは、どのようなメカニズムに拠るのであろうか。

 医学や生物学の専門家はそれを子細に研究しているのであろうが、それについてはほとんど私は知らない。80年ほど生きてきた私の体験と、小耳に挟んだ身体に関する流言飛語とわが身の内側を覗いてみると、以下のようなことが言えよう。

 1000兆個ものウィルスや微生物というのは、細胞よりも更に細かい単位が自律しているようにみなして数値化した表現である。実際に数えた人がいるわけではなかろうが、といって、当てずっぽうの数値をあらわしているわけでもなかろう(ある種の統計学的な類推の方法に基づいて1000兆個とみなしていると思う)。自律した単位というと基本的に動きはブラウン運動的になると思うが、それら微生物単位の生成過程やに思いを馳せてみると、それなりの動きにまつわる範囲とか機能的な限定性を持っていよう。それらの集合が諸器官をつくり、それぞれの器官の配置と関係から総体としての機能が特定され、それらの集合的総体がわが躰の構造をつくり、かつ、相互の関係がある種の調和を保って動くように関係づけられていると考えられる。その総体が人の計る時間で80年近くも間断なく動いてきたということに、まず畏敬の念をもつ。

 だが躰は生命体である。精密機械のように動きと機能が固定されているわけではない。水分やエネルギーの補給も、躰全体の運動状況と気象など環境条件によって多様でもありばらつきもある。にもかかわらずある程度の体調が保たれているのは、生命体35億年の絶妙な径庭を表している。むろん99%の主は滅びたと生物学者は言うから、本当に偶然が重なって生き残ってきた初産と言えるのかもしれない。

 その身体諸器官が、それぞれ固有の機能を持ちながら、しかも(ヒト個体間の自在性を考えると)かなり勝手な動きをしていながら、相互の連携を絶やさずに動態的平衡を保っているのは、その連携が幅を持ち、融通無碍に作動し、精密機械のように固定的でないからだ。市井の日常語で言えば、いい加減であり、適当であり、ちゃらんぽらんだから巧くいっているのだ。これは、ウィルスや微生物の固有性と同じで、なるようになる、なるようにしかならない、出くわした状況次第に適応して対応の仕方を変える片言自在性を持っているからである。むろんいつもそれが巧くいくとは限らない。というか、35億年の経験から言わせると99%は、巧くいかないことがあるのに、期待通りに作動しない箇処の大体を他の部分が変わって担うことによって、全体としてはほどよく運ぶようにしてきたのだ。その融通無碍性が畏敬するに値し、1%の(偶然の)絶妙さに感謝したいと思うののである。

 ところがデジタル処理をする手順の運び(アルゴリズム)は、これとはまったく別物のメカニズムの論理をヒトに押しつけ、ヒトはそれに習熟することによって心の習慣を形づくるように(だんだん)なってきた。デジタルのアルゴリズムからすると、何に役立つかワカラナイ要素はバグ(害虫)として扱われる。システムエンジニアはバグを取り除くのに随分力を入れる。それはしかし、ヒトを自然から遠ざける。自然の躰が長年掛けてつくってきた(偶然の絡む)調整装置「わが躰」を、わかっているロゴスに統一し、その余のワカラナイことを白黒付けて排除する。そのロゴスの中には、ヒトをバグかどうかに仕分けして行くことも含まれる。こんなことを放置していたら、動物としてのヒトは滅びてしまう。いやもうすでに、滅びに向けての坂道に入り込んでしまっているのかもしれないと、日々感じているのである。

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