2022年10月5日水曜日

身が蠢く

 去年の10月4日の記事「想起域のスウィッチ」に、一昨年の9月29日から10月1日までのテント泊山行の記事「天晴の会津駒ケ岳」のことを記している。去年の記事は、こう記す。

《こうした「山行記録」は、私の想起域のスウィッチとして作用している。それも、単に○月×日にどこそこへいったというメモではなく、どこに泊まり何を食べ、何時に起きてどういう山歩きをして、下山して後にどのように過ごして帰ってきたかという記述の方が、ぼーっと生きてきた頭には再起性が強く働く》

 何かが、ポッと刺激される。なんだこれは? 山行記録を書くときいつも感じるのは、行程の道の凹凸や草木・景観とともに、身の裡から湧き起こる「躰の疲れ」や「足腰の草臥れ」の感触が甦る。ただ単に想い出しているというのではない。躰が反応している感触。そう思って、一昨年の山行記録を読み返す。

 三日間の行動記録。山の感触と言うよりも、kw夫妻と同行したテント泊の気配がひたひたと身の裡に甦る。ここ1年半の間遠ざかっている山歩きの虫が、身中で蠢きだしたように感じた。モノゴトを想起するというのは頭に再生することと思っていたが、それは違う。体中で再生して感じている。再現しているのとも違う。会津駒ヶ岳という山歩きの子細を総合して全体として好ましい感触で受け止めていたことを感じている。二年経ったら経ったで、身の裡の感触は違ってきている。それが距離なのかどうか、遠ざかってみているではなく、間近で遠望しているというふうな感触。子細を省略して総合的に、しかし鮮明に、全体像をまるごと摑んでいるという奇妙な感触なのだ。

 それが作動しているのか、この1年半ほど思い起こすことのなかった山歩きへの衝動が、2年前の山行記録で呼び覚まされた。テントを担いで、たっぷり飲み物も持って、ちょっとヒロシのぼっちキャンプのように飲み食いばかりになっても構わない。歩けるようなら半日程度のハイキングをして温泉に浸かって、一人宴会をして帰ってくることができれば、この上ないアウトドアになる。ふつふつとそうしたい意欲が湧き起こってきた。不思議なものだ。想起するということが、生きるエネルギーに結びついている。年寄りの「思い出に耽る」というのをほとんどバカみたいと思ってきた私だが、そのバカみたいなことが、今わが身の裡に起こっている。へえ、面白い。

 山行記録をつけているが、それを読むことがこうした想起域を刺激して、身の裡を揺さぶって行動意欲を湧き起こさせるとは、思ってもいなかった。もしそうなら、山行記録をそれとしてまとめておくのも、悪くない。たぶん65歳の高齢者になってからの山行だけでも、500山を超えるであろう。その記録を拾い出して、それぞれの時期に於けるわがアウトドアへの傾きの違いを探りながら、まとめ直すということは、過去に捨て置いた自分の足跡を辿るようなこと。かつてそれは、つまらないことと思ってきた。だが今の身の蠢きを呼び覚ますのに作用しているのだとしたら、それはそれで面白いではないか。

 だが、ちょうど来週から我が家の給水管給湯管と排管の更新工事が始まる。二週間ほど在宅しなければならないから、とうてい山に向かうわけにはいかない。だがそうした身の蠢きが感じられたのは、毎週リハビリ病院通いをいている私にとってはおおきな身の変化である。そんなことも考えながら、在宅期間中のテーマを拾い出していようか。

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