2020年5月11日月曜日
言葉が意味すること
新型コロナウィルスの感染を確認するPCR検査を抑えてきたことについて、厚生労働省が見直しを発表した。37・5度の発熱、4日間などを取り払って、呼吸困難などを感じたときは検査を申し出てほしいと、訂正することにした。それに付け加えて加藤厚生労働大臣が「誤解があった」といったものだから、「ひどい」と非難を受けている。だが、加藤大臣は、何が「ひどい」のか、わかっていないと思う。
マスメディアも、検査を受けることができず死亡して後にPCR検査で陽性と判定された人たちに心遣いしていないというニュアンスの非難を浴びせ、対応が遅いとはいうが、何がネックになっていたかについて、厳しく追及していない。
もちろん政府の対応は、遅い。ほとんど対応できていない。民間の医療機関や大学などから盛んにPCR検査の準備はできているといわれながら、どうしてこんなに遅いのか。それが、加藤大臣の「誤解」発言で明らかになったと私は、思う。
加藤大臣は厚生労働省の官僚たちの言葉をそのまま繰り返しただけなのだ。厚労省の官僚は、自分たちは間違っていないといっているだけなのだ。責任を問われることを恐れて、そう言っているのかどうかは、わからない。彼らはいつでも、自分たちは間違わないと考えてコトにあたって来たから、今回も同じ反応をしただけかもしれない。自分たちは対応を誤ってはいない、と強弁することは、現場が「誤解したのだ」と責任を転嫁することになる。もし本気で、どこに「誤解」のわけがあったかに踏み込めば、「誤解」といったことも、重要な教訓になる。だが彼らは、「何度も(柔軟に対応するように)通達を出した」といい、現場がいうことをきかなかったというが、当初の指示が間違っていたといわない限り、彼らはあの手この手で言葉をいじくりまわして、受けとる意味内容を換えてしまうことくらい、お手の物。それはモリカケにおける財務省や文科省の対応をみればわかる。
なぜ誤解したのか、一言一句を取り上げて、野党や人々が追及しても、責任回避に気持ちを傾けて責任回避する厚労省の体質を変えない限り、つまらない問答を重ねることになる。ばかばかしいからやめた方が良いと、私は思う。
そこに手をつっこむことこそ、じつは政治家である大臣がやらなければならないのだ。官僚の言葉をそのまま伝えるような大臣には、とうていできない。解任すべきだと思う。
でもさらに考えてみると、厚生労働大臣が前面に出ないで、ウィルス関連の対応は経済再生担当大臣が担当大臣になっている。これは、省庁の縦割り行政を打破するために内閣府が総合的な視点から統括するために獲っている措置だそうだが、それも言い訳。ウィルス禍よりも経済の高揚をはかることばかり念頭に置いている現政権の政治姿勢である。公衆衛生をきっちり取り仕切るというのは、公共の福祉の最たるもの。それができないでは、政権など担当する資格がない。誰がやってもムツカシイ、琴ではあるが、だとすれば余計に、手の内をさらして四苦八苦しながら、いつく方向を探るしかない。そのとき、経済というのが、経世済民であるという原点に立ち返って、庶民の暮らしを救済することに、思い切って舵を切らなければならない。そこにこそ、宰相の政治家としての真贋が問われる舞台がある。
PCR検査の遅れや不手際は、首相の責任である。リップサービスすれば、それがすぐ実現するかのように言い放っている。だがなぜ、それが目詰まりを起こして何カ月もたつのに実現しないのか。それについて厳しく自己批判しなくてはならない。まず隗より始めよ。厚労大臣を矢面に立たせるよりも、宰相が詫びて出直すことが必要なようだ。
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