2020年5月26日火曜日
#コロナウィルスと政治家・マスメディアの言葉
東京高検の黒川検事長が賭けマージャンをしていたことで辞任したのを問われた首相が、自らの責任を認めたという報道を聞いて、ヘンな感じがした。首相は自分が任命するのだから当然責任はありますといっただけなのだ。つまり制度的な仕組みを認めただけ。だが、首相の責任を問うたのは、彼の黒川検事長の定年延長を、「解釈を変更して」閣議決定したことを問われたのであるから、制度的な仕組み上の位置を認めるかどうかは、論外のはず。だが彼は、(定年延長の)発議をしたのは法務省だからと、法務大臣に責任を転嫁している。黒川さんの賭けマージャンに関する「処分」も同じ。法務省の提案を了承しただけとケロリとしている。こういうのを「責任を認める」というと、そうか、昭和天皇の戦争責任というのも、こんな感じだったのかと、当時、腑に落ちなかったことを思い出した。
記者会見などでのやりとりは「再質問」が認められなかったりするからムツカシイのかもしれないが、首相の口先だけの回答をに対する「追求」は、行われない。記者たちも馴れあいの片棒を担いでいるのかと(黒川検事長の麻雀仲間がいずれも新聞記者だったことと合わせて)思ってしまう。政府も官庁も、取材記者たちも、エリートと思っていた人たちが皆つるんで、日本社会をイイように弄んでいると思える。
と思っていたら、一昨日(5/24)の朝日新聞「日曜に想う」で編集委員の福島申二が《「言葉」に逆襲される首相》と題して、安倍首相のものの言い方を揶揄っているのが目に付いた。
編集委員という立場が新聞記者仲間の中でどういう位置を占めているのか知らないが、察するにえらい人であるらしい。取材に駆け回るよりも、記事の軽重を見極め、重みのつけ方を決定して、いわば新聞社の方針を見定めて打ち出していく立場かな。つまり、時代全体の中のマスメディアという位置からすると、日本社会を引っ張っていく重責を担っているという気配がある。だからいうのだが、首相を揶揄っていているだけでいいのかい、と思う。
福島申二は、徳富蘆花の言葉を引いて、言葉が弾丸なら、その発出力になる火薬は信用だが、首相には「もはや十分な火薬があるとは思われない」という。「弾も自前ではなく大抵は官僚の代筆である」とも。で、どう展開してるか。「危機のときに言葉が国民に届かず……言葉に不誠実だった首相が、ここにきて言葉から逆襲されている」と感懐を語るにとどまっている。
なんだ、自分は久保田万太郎や徳富蘆花や丸谷才一やの指摘している言葉に関する金言を知っているぞと「知的優位」をまぶした、修辞(レトリック)を誇っているだけじゃないか。加えて、梶谷和恵の詩集を引用して、感性の面にもちゃんと目配りしていますよと奥行きの深さをお披露目して、《……「コロナ後」という時代の創出は、新しいリーダーを早く選び出すかどうかの選択からはじまろう》と、次へと目を移している。
こりゃあ、だめだ。立ち止まって、自分の言葉を掘り下げていくだけの膂力をもっていない。
首相の答弁の言葉が官僚の作文を読むだけだとしたら、答弁書を書く官僚の言葉がどれほど腐り切っているか、なぜなのかを取り出さねばならないのではないか。私自身、政治家というのは言葉の受け答えの(当意即妙であるとか、追いつめられるのをうまく逃れたという)巧妙さを気にするだけで、その中身を気にする人種ではないと考えていたせいもあって、まともに何を言っているかと耳を傾けたことがない。ああ、こいつも同じ政治家人種だと思ったら、その言葉の中身よりは、彼はここで何を護っているのか、どう煙に巻いているのか、その下準備はどうなされてきて、そことの齟齬はどう生まれているのかいないのかを、読み取るように考えてきた。
だが、民主党政権のときの副大臣や政務官を務めた人たちの応答を見ていて、官僚との齟齬が表面化したこともあって、彼らは政治家というよりは、ほとんど(少し知的な)庶民の目線で、懸命に自分の言葉を繰り出そうとしていると、それまでと見方を変えたこともあった。まるでそれは、素人の庶民が政治の舵を取ったような気配であった。それはそれで逆に、政治ってのは「誠実さ」だけではうまく運ばないと、そのムツカシさをあらためて思ったものであった。
つまり福島申二に即して言えば、「火薬」ってなんだ。安倍首相の軽言麗色というか、巧言令色が、支持率アップにつながっていたのは、なぜなんだ。「信用」というのが何を根拠にどうかたちづくられるかを、検証したうえで論難してよ。世論調査という表層の数字を自らの発言の根拠とするのなら、あなたも安倍さんと変わらないよと、毒づきたくなる。言葉に逆襲されているのは、アベさんだけではない。福島さん、あなたもそうだよ、と。
黒川検事長の「処分」は、法務省と内閣府が「調整した」という。法務省は「懲戒」を用意していたのに、調整して最終的に「訓告」にしたとなると、内閣府の思惑が挿入されたとみるのが、妥当である。法務省の「説明責任」もさることながら、「内閣府の意向」が問われている。だが法的手続きにだけ着目して回答するのは、問いにこたようとしない贅言である。モンダイは、それでもそれですり抜けて顧みない政治家のふるまいが、とどのつまり選挙民の胸中に突き刺さってこないことにある。つまり、政治家の取り仕切る領域を、ほとんど国民は当てにしていない。勝手にしやがれって思ってきた。
ところがコロナウィルスが襲ってきたことによって、私たちそれぞれが勝手にしのいでいた社会に、共同的な作用が必要だと痛感する機会を得た。中央政府は当てにならない。地方政府がしっかりしなくちゃいけないと感じとれる機会になった。そうなることによって、安倍首相の言葉の軽さが浮き彫りになっている。リップサービスにすらならないと、感じられる。
となると、次の誰かに変わればいいというのではなく、首相の言葉を巧言令色にとどめさせない社会の空気(=エートス)を、どう醸し出していくのか。そこに、官僚やメスメディアはどう作用を及ぼすことができるか、それをこそ、福島申二に提起してもらいたいと思う。
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