2020年5月9日土曜日

人に触れる微妙さ


 昨日(5/8)朝ラジオで、スポーツ雑誌の取材記者が、「外出自粛」「三蜜回避」にどう対応しているかお喋りしている番組を聴いた。アメリカの大リーグにいる選手、スペインのバルセロナで活躍する選手などにLINEなどで取材することができるのは、当然ながら顔見知りの記者だけになる。新規の記者は締め出されるから苦労するだろうとか、お茶の間で取材を済ませると80点くらいの記事ができるとなると、交通費や宿泊滞在費を大枚はたいて87点の記事をつくるくらいなら、費用を節約して80点の記事でいいと出版社が言いはじめると、ちょっと違うんだよねと話している。

 
 ひとつ思い浮かんだこと。長年山関係の雑誌や取りや植物の書籍を出してきた出版社が、経営に行き詰ってIT関係の企業が資金を出して継続することがあった。そのとき資本を提供したIT企業の経営方針は、短期的な利益を目指して投資効率を優先するものであった。そのため、毎年少しずつ着実に売れていた(効率はけっしていいとは言えない)書籍の再販は行わず、速戦即決の販売戦略を採用して、その向きに絞るようになったため、絶版になる本が相次いだ。
 本屋の店頭でも、書棚にいつまでも置いておけないから、短期的に売れる本だけをそろえるようになり、ロングセラーといっていいかどうかは微妙だが、地道なその道には欠かせない本はすぐに撤去されて、読者の目に触れなくなる。でもAmazonがあるさといえないのは、単品ごとの出荷に見合う収益をAmazonが考えてくれるわけではないから、送料などを考えると、間尺にあわなくなるから、結局出版されなくなるという。
 ひとつの文化が、そこで消えていっている。
 
 IT関係の急進展と日本経済のバブルがはじけるのが、ほぼ符節をそれ合わせていたこともあって、それ以来の、この世の資本家市場がもたらした社会的雰囲気(エートス)の特徴がこれである。それは出版関係だけに限らない。コスパが問われ、投資回収の速度が問題にされ、その陰で切り捨てられていった「文化」とは何であったかを考えてみたら、冒頭の「80点」と「87点」の違いが何であるのかに目が移る。
 このスポーツ記者が「87点」と控えめに表現しているから好感をもてるのでもあるが、失われた「7点」が人間社会においては、数値で表せないぐらい大切な「なにか」であることにも、このラジオ放送は気づかせた。
 
 この番組がとりあげた記者は大谷翔平の取材をするときの、大谷の目の動きが気になって仕方がない。大谷は動体視力がいいから取材記者の体の動きに連れて、目が動いている。取材者は自分の話の中身と関係なく、身振り手振りがつきまとう。耳に手をやったり鼻の頭にさわることもある。その都度大谷の目がついて廻るのが、なんともいやらしいと感じるが、その感触が、記事には反映されているというのだ。
 聴いていて、そうか、エクリチュールばかりに気持ちが言っている私は、そういう取材される人の身のこなしに視線が無頓着だったなと思うとともに、スポーツ取材ということと体の動きの微細な移ろいに心を止めている記者の視線の「すごさ」が、人の触れる微妙さを湛えて、深みを感じさせていると思った。取材記事というものがもつ「力」は、取材対象選手のオーラを行間にとどめ、そうした記事の集まりが、その雑誌の、いずれは社会全体の雰囲気(エートス)をかたちづくっていくように感じる。
 
 つまり、消えていっている「文化」とは、人が持つオーラや社会のエートスを、そこはかとなく湛え、残していく営みであった。もしそれが消えてしまったら、そこに生れ育ち暮らして身に刻んできた人たちは、そこを「ふるさと」と感じるだろうか。
 いや、もはや「ふるさと」は消えてしまい、「遠くにありて思うもの」になってしまっているが、それでも私たち後期高齢者にとっては、敗戦後の混沌が、いかにも懐かしく思い出されている。その懐旧の情と関わるかどうかはわからないが、その幼き頃の「じぶん」を裏切っているのではないかという感懐が、高度消費社会の奢侈に浸っている「わたし」を見つめていることを、しばしば感じる。
 そういう感触を社会全体が湛えて醸し出すエートスが「文化」ではないかと思うのだが、違うだろうか。

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