「うちらぁの人生 わいらぁの時代」をまとめていて、この五年を振り返るところに付け加えておきたいことがあります。
第12回Seminar「総合商社の仕事とは、何か」を「オフレコに」という要望に沿って割愛することになりました。そのことに、じつは私たちの時代の変化のもっとも大きな様相をみるように思っています。このSeminarのテーマは「人生」や「時代」を語るうえで、社会の変貌にじかに手を触れてきた形跡を表明するものでした。ただ話は参加者のいろいろな質問に答えるというかたちをとったため、あちらこちらに飛んで散漫になり、これのどこがオフレコ? と私は疑問に思ったものでした。だがあとで気づいたのですが、商社に勤めていた講師が、何を話したかではなく、現役時代のことを話したということが、企業の琴線に触れることだったのではないか。企業秘密に触れるというのではなく、大手商社という企業活動が孕んでいる「裏事情」が、社会通念に反する要素を多分に含んでいることだったのではないか。
Seminarの話を聞きながら想い起していたのは、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』(集英社、1998年)でした。彼は先進国と途上国との交易などを通して7つの文明が衝突していると説いています。その中で、「賄賂」に関するとらえ方が印象的でした。途上国における「賄賂」は近代が行き届かない社会での「潤滑油」の役割を果たすとみていました。つまり私たちの暮らす市民社会では道徳的にとらえられている事象が、善し悪しを抜きにして機能的に考察されていたことに、軽い驚きを感じていました。これは通常の商活動においてはほぼ常識的なことではないのか。悪くいうと札束で頬っぺたをひっぱたくようにしてと表現しますが、少し綺麗にいうと「ご接待」だということです。
文明の落差を超えてグローバル化が進展している時代です。講師もまた「文明の衝突」を、あの手この手で乗り越えて、いわば開拓的な仕事をしてきたのでしょう。それに必要なスキル――ユーモアとか相手をくすぐるもてなしの技法を磨いたに違いありません。近代市民社会の内側では、彼の向き合った「文明の衝突」は不道徳なことであったり、不都合な真実であったりしますから、企業は外聞を憚ると、私は理解したのです。
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思えばこれは、世界的な企業活動ばかりの問題ではありません。国際的な文明の衝突ばかりでなく、国内的にも文化の齟齬が広がっています。国際、国内を問わず、政治も軍事も社会設計も、こうした「裏事情」を抱えて推進されています。しかし公然の論議は「裏事情」に張り付く「人間の真実」に触れようとしません。
たとえば国際政治の「裏面史」を繙いてみると驚くようなことがいくつも記されていました。ティム・ワーナー『CIA秘録(上)(下)』(文藝春秋、2008年)やスティーブ・コール『アフガン諜報戦争』(白水社、2011年)などを読むと民主主義国家アメリカの秘匿された「公的活動」が子細に記録されています。際物のようにみえますが、著者はニューヨークタイムズの記者であったりワシントン・ポストの編集局長を歴任した人です。
その「裏事情」が近年、隠す気配もなく公言されるようになりました。大統領オバマがためらいもなくビン・ラディン殺害の指示を出したり大統領トランプがイランの将軍の殺害を誇らしげに発表しています。あるいは、CIA元職員・エドワード・スノーデンが「情報源」であった「米国家安全保障局(NSA)が米電話会社の通話記録を毎日数百万件収集」の報道。これも、報道された(諜報の)事実よりも、国家機密を暴露したことへの非難として、いまだに係争中の国際問題になっています。「隠すより現れる」俚諺の如く、表の顔を裏の顔が「不都合な真実」によって緊密につながれて展開していると知るようになりました。
こうも言えましょうか。私たちが若かりし頃は、それでも静かに進行していた「裏事情」が、21世紀になって(9・11のテロ以降)からは外聞を憚らず公言されるようになった。「裏事情」と包み隠しておくことが大衆的に無用になったのが、ヒラリー・クリントンの敗北だった、と。トランプ政権になってから、「ミー・ファースト」は当然となり、「不都合な真実」はフェイクニュースとされてなりふり構わなくなり、気が付くとそれは世界的な風潮として表舞台に姿を現してきていました。
近代市民社会の理念が揮発してしまったようです。
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