2021年6月30日水曜日

馴れと慣れと茹でガエル

 昨年の発生時からコロナウィルスの感染状況を気にしているカミサンが、去年6月29日の日誌をみて笑っている。電車に乗ってさいたま新都心まで行ってきたが、その間、はらはらしていたと記していたそうだ。その日の感染状況の数値、「東京47、埼玉11」。今年の状況「東京317、埼玉68」と較べてみると、いやはや「かわいい」。

 茹でガエルではないが、いったん大きな数値が出てしまうと、元の数値がなんでもないものに変わる。馴れなのか、これは。

 逆にみると、どうしてそんな小さな数値で「脅威」を感じていたのか。世界的な蔓延の勢いが、いつやって来るかという「来るべき将来」に対する不安が、「脅威」に感じられたのか。

 とすると一年を経た昨今、例えば埼玉県の日々の数値が三桁だと「まだまだ」と思い、二桁になっているとホッとしているのは、三桁が「将来的な不安」の解消には向かっていない証左であり、二桁だといくぶんかでも「解消の方向」を読み取ることができるからか。もちろん比較的なもの。TVの画面でいうと、神奈川県や千葉県と比較していて、数値的に「勝った」「負けた」と心裡では見ている。

 つまり「将来的な趨勢」を推し測る基準点を、周辺の県とか、前日とか前週という変数に置いて「(自分の)気分」の推移をみているのが「将来的な不安」ということか。これでは、私たちが嗤ってみている政治家たちの気まぐれと変わらない。

「ステージⅡ」になれば実施すると言っていた五輪を、「ステージⅢ」が見えた時点へ移したり、「感染者数」を「重症者数」や「空き病床数」へもって行ったりして、言葉遊びに右往左往している政治家の振る舞いが、私たちにも伝染してしまったのだろうか。それとも、日本人て、もともとそういう気分屋で気まぐれな気質を持っているのだろうか。う~ん、どちらともいえないと、わが胸に手を当てて考えている。

 そう考えてきて振り返ってみると、感染症の専門家というのは、エライ。

「感染者数」にせよ、感染拡大の兆候にせよ、どの数値をみているかをはっきりさせて、それを頑として堅持している。「病床逼迫」というのも、数値をみて、「ステージ」を定め、それに基づいて五輪に対しても発言する。

 その専門家の発言が、去年の「東京47、埼玉11」のときにどうであったか。覚えていないが、「病床逼迫が起こるのではないか」という懸念が、出されていたと思う。もちろんその後、病床拡大に関して何らかの施策はとられたであろうから、今年と同じ数値で較べることはできない。だがその、専門家たちの変わり映えのなさが、私たちの気分が振れる幅を、ある程度抑制していると思える。

 ただ単に「馴れ」たり「慣れ」たりしているわけではない。「将来的な不安」は、正体の見えないモノゴトに対して私たちが感受する「危険信号」だ。楽観的か悲観的かは、そのもう一歩先にある「判断」にかかる。まず、その「危険の察知」に関しては、「茹でガエル」と非難するのではなく、もう一歩踏み込んで、なぜ「馴れるのか/慣れるのか」を解析しなければならない。ひょっとすると、「危険察知」能力が拡散して、希薄になっているとも考えられる。

 コロナウィルス感染と重症化の世代的な差異があった。若い人たちが軽症で済むとなると、「ま、一度はかかって抗体を作っておいた方がいい」と考えて、出歩き、屯し、三密をものともせず、イベントに興じたくなる若者がいても、不思議ではない。日常の過ごし方自体が、「お祭り騒ぎ」に仕組まれているのだから、それを急に変えよというのは、それなりの「判断」に宿る「意識的な・社会的な・知的な・何か」が蓄積されていなければならない。そこにこそ、良かれ悪しかれ、ネーションシップの特性がある。

 そういう視点でみると、昨年以来の日本の高齢者の振る舞いは、褒められていい。わが身を考えてみても、自画自賛したくなるくらい、自己防衛に徹していた。当然、身の周りの人たちも、同じような振る舞いをしていたから、社会的な気質が作用したとみている。それは、日本社会における高齢者の特長を表しているのだが、そこに踏み込むと、また別のモンダイ次元に入るから、棚に上げておこう。

  もはや政治家に何かを期待する気分はないが、彼らが勝手なことをしているのに、そろそろ掣肘を加えたいと思う気分だから付け加えるのだが、大きな絵柄を描いて、上記したような「将来に対する不安」を解消する「地平」を指し示すのが、政治家の役割。細かな(非感染)五輪バブルの手立てを疎にして漏らさぬように講じるのは、役人の仕事。そう心得て、振る舞ってもらいたい。ゆめゆめ、民草は「茹でガエル」とみなして笑い飛ばすことをなさいませぬように。 

2021年6月29日火曜日

リアルとフェイクのハイブリッド

 カート・アンダーセン『ファンタジーランド』の「第6部 「ファンタジーランド」はどこへ向かうのか?(1980年代から現在、そして未来へ)」を取り上げよう。

 アンダーセンが本書を執筆していた(20年も前)ころの「予感」がトランプ大統領の登場によって証明された。そのことを誇っていい章なのだが、ずいぶんと控えめである。それは、「ファンタジーランド」化がすすむことに同意しかねる思いが、逡巡させているようだ。

 その一つに、気になる事実が記されていた。


 《1990年代国連軍がアメリカを乗っ取るのではないかとの不安が高まり広がったため、例えばインディアナ州運輸局は、高速道路標識の使用年数を管理する方法を変えざるを得なくなった。インディアナの住民たちが、標識裏の色付きの点は、迫りくる国連武装外国人を道案内するための暗号だと信じるようになったからだ。》


 なぜ「気にな」ったのか。ちょうど上記の年代に、日本の高名な哲学者が、自衛隊の1/3を「国連軍」に預けて、国際秩序の維持に貢献するという趣旨の提案をしていたからだ。日本の主権と異なる決定をすることが十分多いと考えられる「国連軍」に自衛隊を預けるという能天気な発想は、上記のアメリカの「幻想」を知っての上だったのだろうか。「国連軍」を編成することになっても、決してアメリカ軍の指揮権を移譲することはしないアメリカの姿勢を知っていれば、「主権」というのがどのような性格とどのような限界をもっているかわかりそうなものである。つまり、高名な日本の哲学者でさえ、「国連軍」にたいしてナイーブなセンスしか持っていない。それをインディアナ州の住民が教えていると思った。

                                            *

 1980~1990年代を通じて、マス・メディアやその後に広まることになったインターネットを通じて、ヒステリーや陰謀論、フュージョン・パラノイアと言われる人たちが出現し、それらの情報が世の中の空気を換えていく。UFO論者がメディアに登場することが多くなり、アレックス・ジョーンズと言われるタレントが「幻想」をまき散らして、アメリカの大衆文化と社会的風潮を動かしてきたことが、トランプ現象に結実していると、読み取れるのである。


 《1970年代以降、実際の陰謀が突如として暴かれるようになったことによって、アメリカ人は過剰反応し、悪いことはすべて何らかの陰謀によって意図された結果だと考えるようになった。皮肉なことに、そのせいでごくまれに存在する現実の陰謀を暴いてつぶすことが難しくなった。ニュースやインターネット・メディアはかつてないほどの陰謀論に溢れ、そのために身動きが取れなくなっている。あらゆる空想のノイズが、たまに現れる信号をかき消す。例えば、先の(2016)アメリカ大統領選挙へのロシア政府の介入だ。それが進行しているときには、ほとんど注意が払われていなかった。2016年の半ばには、多くの突拍子もない憶測の一つに過ぎないと思われていたのだ。》


 ファンタジックな物語が蔓延ることによって、もはや何が「事実」であり、なにが「フェイク」かと吟味することすらばかばかしくなって、あらゆるコトが相対化される。とどのつまり、自分の信じたいことを信じる。自分が信じることしか信じなくなる。それが「ふつうになる」。

 それはトランプという右派だけに起こったことではない。上記にあげたアレックス・ジョーンズは左派の論客として登場してきたが、メディアで重用されているうちに右派も左派もなくなり、フュージョン・パラノイアとして面白がられた人物のようだ。不動産業を営み、かつタレントであったトランプもその一人であったと言える。


 《1990年代以降、タガが外れたアメリカの右派は、タガが外れた左派よりもはるかに大きくなり、つよい影響力を持つようになった。それに加えて右派は、かつてない権力を握っている。大人でしらふの左派が、仲間たちとつながりをそれなりに保っているのに対して、地に足の着いた右派は、空想に耽りがちな熱狂的信者をコントロールできなくなった。これはなぜなのか?》


 末尾の自問は、「宗教、共和党を夢想家が乗っ取った」という同義反復的「事実」を提示して終わっている。


 《進化論を信じている共和党員は…2008年に3/4だったのが、2012年には1/3を占めるようになり、「2012年(には)ジェブ・ブッシュ一人だけだった」》

 《「共和党員の2/3がキリスト教を国家宗教にすることを支持する」「アメリカ人の大多数がアメリカはすでにキリスト教国家として成立している」と信じている》


 と、キリスト教国家・アメリカの誕生をみている。

 もちろん、いかなる宗教にも加担してはいけないと記された連邦憲法を掲げておいて、ファンタジックに進行する現実を(あきれ顔ではないかとおもえるように)書き留めている。イスラム原理主義と対比して言えば、(世俗イスラム主義に傾く)エルドアンの統治する「トルコに近いか」と、宗教と国家の関係を位置づけている。

 それと同時に、「無神論」者としての自分自身を俎上に上げ、国民の2割程度を占めると書き留めているが、それに関して、私が抱いた疑問を一つ上げておく。

 というのは、アンダーセンは、無神論を不可知論と同列において、神の存在を認めるかどうかがモンダイとしながら、自然に対する敬意とか畏怖の念とかを別物として扱っている。えっ、と思った。私も、無神論者だと言われても、だからどうってことを感じないものではあるが、自然に対する敬意とか畏怖という心情が、実は「(八百万の神に対する)信仰心」なのではないかと考えてきたからだ。アンダーセンは(たぶん)それは宗教ではない(アニミズムだ)というのかもしれないが、いくら原始的とはいえ、神道や仏教の信じる「神々」というのは、自然信仰そのものである。日本人は無宗教と言われては(無神論者の)私も、ちょっと違うんじゃないのと、彼の宗教観の狭さに戸惑いを覚える。自然観ではアンダーセンに共感するが、それって、「信仰心=宗教心のベース」と認めないと、次のドーキンスのような発言になってしまうと思うのだ。

 もう一つ、リチャード・ドーキンスとJ・トールキンの「幻想」をめぐる所感の違いがとりあげられていることに触れよう。

 ドーキンスは、「子どもにおとぎ話を読んで聞かせるのは、自然を越えたものがあるという世界観を植えつける」と批判する。対してトールキンは、《「幻想は」人間の自然な活動です。理性を破壊することはなく、侮辱するものでもない。……理性が鋭く明確であればあるほど、良質な幻想が生まれる》と力説する。

 ドーキンスの主張は、物理的外部自然が屹立し、「幻想世界」という人の思念・妄想の世界は、それを超越する存在とみなしているようだ。果たしてそうか。思念・想念・妄念もヒトのクセとみてとれば、自然存在の在り様にほかならない。むしろ、それを超越的とみなす前提には唯一神的創世論が置かれていて、人間の優越主義的な自然観にとらわれている。トールキンの「良質な幻想が生まれる」という言いぶりには、また、贔屓の引き倒しのような偏りを感じるが、まだトールキンの「幻想」に流れる自然観のほうが、わが身に近しいと感じる。


 ともあれアメリカは、ファンタジーな物語りに取り囲まれて、社会全体が変わってしまっているようだ。ゲームやドラマ、映画などはファンタジーばかりだ。そこへバーチャル・リアリティがインターネットと共にやってきた。コロナ禍では、リモート会議、テレ・ワークも広がり、現実の仕事なのかバーチャルなのか、仕事の中身によっては、わからなくなる。

 それとともに私が心配するのは、こうしたものが満ち溢れた社会に育つ子どもたちは、どこからどこまでが現実で、どこからがヒトの幻想の世界かを見極められなくなるんじゃないかということ。孫が「サバイバルゲーム」に夢中になっていたころ、ばあちゃんは、銃を扱い人を殺すことに熱中する孫の振る舞い(の暴力性)を心配していた。それはひょっとすると、アンダーセンが描く、アメリカの「ミルシム・イベント」に延長上に起きた事件を想定していたろうか。

 アメリカでは、塗料付き弾丸を込めたエアソフトガンで撃ち合うゲームにはじまり、「ミルシム・イベント」へと発展してきたという。「ミリタリー・シミュレーション・イベント」のことだ。

 ある若い青年、エリック・フレインはペンシルベニア東部の田舎で、ユーゴ内戦の模倣ゲームに興じていたが、その延長上で、本物のAKー47(自動小銃)をもってスナイパーとなり、州の本物の警察官二人を待ち伏せして攻撃、殺害、以後逮捕されるまで、7週間も生き延びたという。「マジすげえ」ゲームだった、と本人が述懐していたそうだが、こうなると、模倣ゲームはもはや現実の関係を飛び越して、現実を幻想世界に引きずり込む事態になっていると思われる。

 その若者の(模倣における)、内心の跳躍が危なっかしい。

 現実はすでに、ものがたりと混在しはじめ、どちらが先か、もはやわからなくなりはじめた。ディズニー化するアメリカと前回指摘した。ディズニーは、フロリダにディズニー・セレブレーション地区を設けて、不動産開発もしている。そこはディズニーランドと現実のハイブリッドであり、ディズニーセレブレーションに住むことを念願として親子で移住してくる人たちが絶えない。設えられた物語世界を現実のものとして人生を築く人たちは、それを見に来る人たちとの相乗作用もあって、夢から覚めることはない。すっかりファンタジーランドの住人と化している。私たちの孫の世代が、現実を取り違えて、そのような世界に生きることを望むようになるんじゃないかと、私は心配する。

 あるTV番組の中、小さな(幼稚園年中組の?)子どもが「将来何になりたい?」とインタビュアーに聞かれたとき、「***」と応えて、何を言ったのだかわからなかったことがあった。ハリーポッターに登場するキャラクターの一人だと解説があり、知らない世界が広がっていることを実感した。子どものことと言えばそれで済む話ではあるが、大きくなり、ディズニーランドが現実社会になっていたとき、大人が口を挟む余地はあるのだろうか。

 トランプの嘘について、次のようなコメントがついていた。

 事実検証組織・ポリティファクトがトランプの400の発言を検証したところ、50%が完全な間違い、20%がほぼ誤りだった。一日平均4つの「誤解を招く主張」を発信していた。そして「公然とした嘘でも、聞くものからすると、あらゆることを疑うという価値相対主義を身につける。」

 それは、ファンタージランドを一層強固にさせ、目覚める端緒がみつからなくなると、アンダーセンは結論的に言及する。リアルとフェイクのハイブリッドが世に満ち満ちる。情報化社会の故なのだろうか。

2021年6月28日月曜日

「新規なものに適応」がメンドクサイ

 PCの「緊急事態宣言」に備えようと、後継機PCの物色に足を運んだ。今使っているノートパソコンは重い。持ち運びには不便だ。後継機は、たびにもって行けるものにしたいと「欲」が出る。

 いろんなメーカーのPCが並ぶ店頭をみて回る。ちょっと変わったのが、あった。OSの外のソフトが、クラウドに置かれている。機器本体の仕様はより単純。したがって安い。ソフトの更新も、ウィルス対策も、クラウドの方を通じて行われる。たぶん、保存とかの量によって料金がかかるシステムなのだろうが、こちらは「文書」と「写真」以外、保存するものもない。これくらいでいいじゃないか。そう思って、その新規なPCを手に入れた。

 ただ、もち運びとなると、WIFIがそばに必要。スマホにその機能を搭載するのは無料でできると分かって、3月にやってもらっている。そのときスマホショップのお兄さんが「そういうPCを買ったときに接続の仕方のセット模してあげますから」と言っていたのを思い出して、スマホショップへ持ち込み訊ねる。簡単に、操作の仕方がわかり、接続して帰ってきた。

 さてそれから、セットアップの方法へ移る。ところが、簡単な「説明書」にはない「項目」が現れる。アカウントを聞いてくる。スマホのアカウントを同じでいいかどうか迷ったが、同じものを入れる。パスワードも同様だ。ところがそうやると、クラウドからソフトを入れる「項目」がスキップされてしまって、次の項目へと移って行ってしまった。さあ、どうしたらいいか。問い合わせるには、QRコードを読んでスマホから問い合わせるるーとはある。でも、それしかないのか。

 ここで、作業は中断した。

 かつてなら…と思う。どこで行き詰っているか。段階を踏んで一つひとつ見分けて、行き詰っているところで、さらに細かく手順を踏んでいない部分を見極めることをしたか。「次へ」やってみて、行き詰ったら「戻る」操作がPCならばできる。だが新機種は、スタートアップするまでのモニター画面のどこにも、「戻る」らしきものがない。購入した店では「操作についての相談にいつでも応じる」と案内があった。そこへ行ってみて、尋ねてみるか。それが中断の「理由」。

 今使っているPCは「宣言」であって、まだ「緊急事態」ではないという感触があるからか。不要不急ということもあるかもしれない。ずいぶんあきらめが早くなった。

 新しい、つまり新規な機種に関して、自分でやろうという「根気」がつづかない。養老孟なら「バカの壁」というであろう。「高齢の壁」である。保守的になるというよりも、新規なものを受け容れて、それに対応する変化をわが身に施す気力がわかない。メンドクサイのだね。ああ、これが年々亢進して来ると、あれもこれもメンドクサクなって、体が動かなくなってしまう。そんな感じがする。

 でもまあ、これからまた、購入した店舗に相談しに行く。店舗のお兄さんの言葉をばねにして、何処まで使えるように危機を飼い慣らすのか、やってみる。そういうふうに、一つひとつの所作を、自分で解決して進めるよりも、他の人の助けを借りて歩一歩と積み上げるようになるのだなあと、わが身をみて覆いに感じ入っているところである。

2021年6月27日日曜日

宗教的熱狂の振れ幅と「哲学」の組みこみ方

 カート・アンダーセン『ファンタジーランド』の「第5章 拡大するファンタジーランド(1980年代から20世紀末まで)」は、表示する年代の宗教を軸にして変容・急進化するアメリカの精神世界を解析していて、刺激的である。キリスト教やユダヤ教の宗派の変わりようも、宗教というよりは人の精神が活動・集散する「舞台」という趣。バイブルやコーランを読んでわかったつもりになっていたキリスト教観は、ほぼ役に立たない。バイブルにかかれていることが、どのような象徴的なことかという理解も、旧習のカトリックやユダヤ教の方がはるかに近代科学合理性を組みこんでいるのに対して、プロテスタントは原理主義的なバイブル理解に固執して「狂信化」している。

 アンダーセンの記述で面白いのは、そういった宗教指導者の「狂信化」にドライブをかけているのが、受け手である大衆の狂熱ということだが、信仰というよりは、ただ単に何かに思いをぶつけ、狂熱のなかに憤懣をぶちまけたい精神世界の代償作用のようにみえる。それをアンダーセンは、「魔術」とか「ニューエイジ運動」とかと並べてキリスト教という人々の共有する文化的共通性としての「信仰」と受けとめているようだ。

 たとえば、近代的合理性に対するカトリックやユダヤ教とプロテスタントの対照的な違いに関して、次のように解析する。ローマ法王の一元管理の元にあるカトリック(の信仰)や高学歴者が多いユダヤ教の受け容れている合理性と、プロテスタントの学歴的、社会的不遇さの受け容れている「魔術性」とを比較するようにして解析している。つまり、今年初めのトランプ派の議会襲撃なども、政治党派が「魔術化」しているというわけだ。

 それは逆に、陰謀論を信じる基盤にもなる。ことにエリート層の、トランプ現象に対する冷笑や嘲笑は、システムにおいて優位に位置するエリート層の「陰謀」を明かしだてるものとさえ受け止められ、ヒラリー・クリントンの敗北につながった。さらにそれは、科学技術に対する疑問視にも広がり、ワクチンに対する不信にも結びついている。まさしく「ファンタジーランド」と化しているアメリカである。

 アンダーセンは、その行きつくところが「何でもありの世界」であり「最大の関心事は人生を楽しく過ごすこと」と人々の受け止められている、と解析する。この、末尾の部分だけをみると、日本も同じだと思わないではいられない。ただこうした部分だけをとって全体を推し量ることをすると、「分断」は一向に解消しない。つまり、「冷笑・嘲笑」するのと同じ轍を踏む。

「最大の関心事は人生を楽しく過ごすこと」という一言についても、どのような文脈に位置づけてそれを見て取るかによって、社会の風潮の流れを的確につかむか、外してしまうかが分かれる。つまり、もっと次元を深めてその言葉をとらえ返さなければ、表面的な解釈しかできない。

 たとえば、個々人の趣味嗜好に基づいて「人生を楽しく過ごす」としても、その趣味嗜好が、どこまで自然と人の拠り集う社会性とを視野に収めて活かされているかによって、「過ごし方」は違ってしまう。そういう趣味嗜好の広がりと深まりを吟味しながら、社会現象は解析していかなければならないが、言うまでもなく私たち一人一人のもっているネットワークは、それほど「哲学的」ではない。広がりや深まりを探るには、やはりメディアの質的な取材力量に拠るところが大きい。チャットやユーチューブというインターネットの「情報源」では、狭く、小さく、深掘りするような傾きばかりがいや増しに増し、その狭い世界での窮屈な言葉のやりとりで満たされてしまって、好みや憎悪が(つまり分断が)広がり深まるように見える。アメリカの強熱する「魔術」のようなものだ。

 その社会的な風潮の空間を掬い取るだけの社会的運動がどうやったら起こせるか。政治家たちには、そういうことを真剣に考えてもらいたい。

 私たち市井の庶民は、とどのつまり身の回りのコトゴトを「人生を楽しく過ごす」ことに傾けるしかない。ただひとつ、それが「人生を」広げ、深めることに通じているかと自問自答する。そういう「哲学的」なモチーフを組みこむことしかないと思うのだが、どうだろう。

2021年6月26日土曜日

コロナウィルスの声を聴け

 緊急事態宣言の解除を嗤うかのように感染者数が増え始め、五輪実施に挑戦するように、コロナウィルスの勢いは、増している。とうとう都知事も(都議選がらみかもしれないが)ダウンしてしまった。「人流を抑えて」と都知事はいうが、そもそも東京が人流を抑えるような成り立ちをしていない。人が密集しすぎている。そこへ踏み込まない限り、いくら都知事が「人流を止めて」と呼びかけても、当面の弥縫策を訴えているだけになる。聴いてる方は、現実的ではないと受け止める。為政者には、到達目標を提示して、そこへ至る道筋に具体的な手当てをすることが期待されているのに、目前の(漠然とした)対応を促すだけでは、現実性があるとは感じられないからだ。

 昨日(6/25)どこのTV番組であったか、「ワクチン接種の世界の様子」を放送していた。ベルギーだかオランダだったか、感染状況の変化と「規制」の強弱を3段階に分け、営業やイベントや振る舞いの必要を一覧表にして市民に配ることをしていた。一枚のペーパーにびっしりとその段階表が記されている。そう言えば日本も、似たような施策を行っているはずだが、TVの画面でそれをみるだけで、市民に配られるようなかたちになっていない。まずそこに、行政と市民との「齟齬」がある。行政の自信の無さとも言えるし、「朝令暮改」の布石とも受け取れる。事実4段階のステージも、「感染状況」から「重症者数」へ指標を移して厚い面の皮を曝している。

 自信のなさというのは、たぶん、行政の策定段階に応じて提示する施策の次元が異なることを意識していないからではないか。中央政府がすべてを取り仕切って、地方政府の採るべき施策の一つひとつまで統制しているというセンスが、すでにして、このコロナウィルスに対応するにはふさわしくないのではないか。そのレエベルの違いを意識していないから、都と中央政府の「齟齬」も、政治党派的対立にしかならない。

 地方政府の方にも、中央からの手当・指示がないことのせいにして、施策の進行を滞らせている姿が垣間見える。むろん行政システムの改善されるべき点が改められる必要もあるが、そもそもそのシステムを疑ってかかる姿勢が(中央の側にも地方の側にも)見当たらない。とどのつまり、不毛な責任の押し付け合いが表面化するばかりなのだ

 たとえば政府は、居酒屋の営業を展開するのに「山梨方式」を見出して得意げに吹聴していたが、それとても、山梨の人口とそれに見合った数の居酒屋だからこそ、「山梨方式」が成立するのだ。東京でやろうとしても、居酒屋の数が多すぎて、コロナ対策をしているかどうかチェックするなんてことも、何人人がいても足りなくなる。机上の空論なら、簡単に口にできるが、それを実施するとなると、手間暇と動かせる人の絶対数とを考えただけで、無理だとわかる。

 加えて、山梨ならばまだ、県知事の呼びかけや市町の首長が何を心配して「山梨方式」を取り入れようとしているかわかるくらいのコミュニティ性を、人々がもっている。その程度の気遣いが働く人間関係が日常のたたずまいに残っている。だが東京では、例えば神田の神保町や猿楽町、小川町の小さな居酒屋を考えてみてよ。常連さんだけでならまだしも、ほかの店が閉まっているからちょいとごめんよと入ってくる一見さんがいかに多いことか。その人たちに気遣いを求めても、読み取る空気が違う。端から期待できない。都会って、そういうつくりになってるんだよ。それを「山梨方式」って一緒にしても、うまくいくはずがない。

 地方政府も、中央政府からそれが提示されると、そのまま実施しようとしてすぐに暗礁に乗り上げる。手が足りないのだ。それは実施するまでもなく地元の居酒屋の実態を見ていれば、すぐにわかること。だのに、地方から「無茶を言うなよ」と声が上がることもない。手が足りないと(地方政府の責任とは言えないと)事実が明らかになったところで、取り組みは終わっている。どこを向いて仕事をしているのだと、現場を取り仕切ってきたものとしては、思う。

 それのどこが目詰まりしているかを、中央政府も地方政府も、その両者の間を取り持つ「関係」を論題として改善していこうと手を付ける方法が、存在しない。

 つまりここは、あの手この手を打っても構わず広がっていくコロナウィルスの、気随気ままの在り様に耳を傾けて、最初から出直すくらいの覚悟をもって都市設計からやり直した方がいい。いや、そうしなければ、根本からの解決策には向かわないと、素人論議ながら、私は考えるのだが、行政の関係者たちは、それは学者が提起してくれなければと考えているのだろうか、わがモンダイではないと言わんばかりに、知らぬ顔の半兵衛なのだ。それが市民からすると、もどかしい。「自助」の扶けにもならない情報公開では、「公助」も「共助」も、関係づけようがないのである。

 コロナウィルスへの対応をいろいろと聞くけれども、マスクと三密用心くらいしか自己防衛の仕方がわからない。行政の人たちもどう対応していいのかわからないのだろうとは思うが、それにしても、クラスター探しのやり方が通用しない感染状況になっても、他の感染経路を探り当てる方策も提起できないというのは、どういうことだろうと、無策ぶりに呆れている。感染症への対応戦略をどなたが描いて指揮しているのか、わからない。

 こう考えてくると、日本には、行政的にモノゴトをすすめていくものの考え方の経路(つまり、哲学)が、意識されていないのかもしれない。ことごとく、行き当たりばったり、いつも当面の仕事ばかりが思い浮かんで、その先が具体化していく段階で何がどう必要であり、何をどう進めておく必要があるかを考える視野が、ほんの一週間先のことにしか届いていない。一カ月先にはどういう事態になっているから何をどう策定する必要があるか、半年先には何が予想されるか、一年先はどうか、五年先にはなにがどうなっているか、そう考えて、施策というものは練るものではないか。

 そのとき結局、視界に収まっているのが、選挙だとか、派閥の力関係だとか、世論の動向という表面的な数値の移り変わりだけに焦点が合い、そのそこに流れている「事態」の推移が真剣に検討されていない。そんな感じが、行政全体に行きわたっているように思えて、がっかりしているのである。

 コロナウィルスの声を聴け、人類史に位置づけてと、大上段に構えたくなっているのだ。

2021年6月25日金曜日

騙す―おちょくられる

 「緊急事態宣言」を出したわがパソコン。でも、まだこうやってみなさんへメッセージを送り続けている。モニター画面が表示されないと言った最初の症状は、解決したのか?

 そうではない。

 じつは、何度か試みていた間に、一度、画面が表示されたことがあった。やったあ、と喜びはしたが、それを閉じるとまた、表示されないってことになった。となると、今度表示が出たら二度と閉じなければいいのかもしれない、と先を読んだ。

 PCを騙すしかない。つまり、PCを閉じるときに「終了」にしないで、「スリープ」にすると、次に起ち上げたときに、画面は表示されるんではないかと、診たてた。そう、やってみた。次に開けると、「スリープ」から起ちあがり、画面は表示される。

 ということは、起ち上げたときの画面が表示されないのは、このコートパソコンの本体部分とモニターの接続のモンダイではないのだ。むしろ、モニターに「表示」命令するソフトの部分に、何がしかのモンダイが生じているのであろうと読んだ。

 そこで、PCを閉じるとき「シャットダウン」にしないで「スリープ」にする。そこからの起動にすると、「表示指示」はすでにセットされているから、うまく表示されると考えたわけ。うまく行った。一昨日からになるが、ずうっと「スリープ」で閉じる。オープンすると、それまでよりは少し時間はかかるが、画面が表示される。PCを騙しているのか、PCにおちょくられているのか、やはりわからない。ただ、11年も使っているから、老体に鞭打って良く働いているねと、ときにはねぎらいの言葉をかけてやらねばならないと思った。

 良かった。

 ただ、これがいつまでもつかは、わからない。いましばらく頑張っている間に、次の後継機の準備とそちらに移しても支障がないような、ソフトやセッティングをしなさいと、少しばかりの猶予期間を頂戴したと受け取っている。

 雨が続くというから、電気屋を経めぐって後継機を物色しなくてはならない。それがめんどくさくなると、もう、PCとはおさらばすることになる。いずれにせよ、私の寿命を勘案すると、最後のお供となるにちがいない。それ程の性能はなくても良いから、さほど手入れを必要としない丈夫なのがいい。

2021年6月24日木曜日

トランプ現象は地球規模のディズニーランド化

  カート・アンダーセン『ファンタジーランド狂気と幻想のアメリカ500年史』の「第4部 狂気と幻想のビッグバン(1960~1970)」は、トランプが登場する素地が、その半世紀も前に合衆国では出来上がっていたことを子細に描いています。しかもその登場が、アメリカ国民の単なる気まぐれではなく、建国当時からの気質によるものという物語とともに提出されています。

 いつだったか、どこかで河合隼雄が、ある婦人とのやりとりを喋っていたことを思い出した。そのご婦人が交通事故で友人がなくなった夢をみたが、そのときその友人が実際に交通事故で亡くなっていたと話し、「こういうことってあるんでしょうか」と河合に問いかけたとき河合が、「そういうことがあったっていうんですから、あったんでしょ」と応じたということだ。つまり「事実」は事実、それが「物語り」として成立するかどうかは、また別のモンダイとあしらった話として聞いていました。

 だが、1960~1970年代にアメリカで起こったことは、「事実」とその「事実」の関係を述べる「物語り」との区別も行われなくなり、ありとあらゆる価値が相対化されていく言説と相まって、当人がそう信じることができればそれは「現実」という、妄想と現実との区別がつけられなくなるほどの「狂気と幻想のビッグバン」が起こったというのである。

 「偽物と本物の融合」「西部開拓時代の戦闘を再現するドラマのようなイベント」「フィクションが日常に入り込む」「アメリカをディズニーランドにする」「ギャンブルとセックス――急増する幻想・産業複合体」という小見出しを掲げて、1960~1970年代に進行した都市と郊外の変容を書き留める。そうして、SF作家のフィリップ・K・ディックの言葉(1970年代)を引用して、現実と非現実とが区別できなくなっていくアメリカ社会への不安を、次のように言う。


《……現実とは何かを定義すること、それは大切な問題であり、死活的に重要な問題でさえあると思う。その中には、本物の人間とは何かという問題も含まれる。なぜなら、まがい物の現実が無数に提供されることで、次から次へと、本物でない人間、偽の人間が生まれている…。それは、四方八方から迫りくる偽のデータと変わらない。……偽の現実は、偽の人間を生む。偽の人間は偽の現実をつくり、それをほかの人間に売り、その人間を偽の人間に変える。その結果、偽の人間が、他の偽の人間に売りあるくことになる。これはいわば、きわめて大掛かりなディズニーランドである》


 そして半世紀たった今、きわめて大掛かりなディズニーランドは世界大に広がり、他の国々の指導者をも、産業関係者をも、「偽の人間」にかえて行ったのである。

 いまや「どちらが偽の人間か」さえ問われているのであるが、そこであなたは、河合隼雄の「事実でしょ」というやりとりから、何を教訓として引き出すでしょうか。あるいは、それをベースに、「偽の人間」「本物の人間」の区別をどうつけるということができるでしょうか。

 何だかカート・アンダーセンの下巻を読まなくても、いま立たされている「せかい」が読み取れるように感じています。こういう、「幻想」の変遷に照準を当てたアメリカ史を読んでこなかっただけに、その写し絵のような日本の移り変わりをどうとらえたものか、立ち止まって戸惑っています。

2021年6月23日水曜日

理性への傾斜とマス・メディア、著名人の誕生

 カート・アンダーセン『ファンタジーランド狂気と幻想のアメリカ500年史』(東洋経済新報社、2019年)に触発された話を続けます。

 20世紀になって「第2部 理性への傾斜の時代」に入ったとアンダーセンは見立てている。だが、19世紀末までに「幻想・産業複合体の基礎が築かれた」のが、華々しく実を結んだのが、20世紀初頭であった。

 その事例のひとつとして、1910年代半ばに「恥知らずな」クー・クラックス・クラン(KKK)のプロパガンダ映画が上映され、1920年代初頭には、「アメリカ白人の5パーセントがKKKの会員だったと思われる」事態を迎えている。

 またもう一つとして、テネシー州で「科学による怪しい学説を禁じる法律が制定され」、「あらゆる公立学校の教師が、…神による人類想像の物語を否定する学説や、人間が下等動物から進化したとする学説を教えることを違法」としたという。1925年の夏には、テネシー州のデイトンという田舎町の高校教師が訴えられ、これは全国的な注目を浴び、科学派と反進化論派の論争がマスメディアの紙面で取り上げられて、文字通り劇場化裁判の走りとして取り上げられている。判決で高校教師は有罪となり罰金を科されることになった。これは、21世紀になってからも同様な騒ぎがあったことを私も耳にしている。

 つまり「理性傾斜の時代」は、「幻想」が、科学の進展を排除し、電信や写真や社会技術的な進展に伴う時代の変容に「ノスタルジー」をベースに花開く時代と同時進行だったのである。なるほどそうしたことが可能になるのは、アメリカ大陸という「広大な未開地」へ先住民を駆逐して乗り込んだ「フロンティア」だったからかもしれないと、狭い日本の「自然」を私は想いうかべてみている。そうした「自然」は身に沁みたものだ。「広大な未開地」の感触を知らないものが、イメージする「自立/自律」とは、そのスケールにおいても、その運びにおいても、まるで桁違いの進行がみてとれる。それが「自然/じねん」であると得心するには、現地を知る作家のイメージを介在さあえねばならないのだと、わが身を振り返っている。

 ただ結論がどうあれ、裁判までもが劇場化したことは、逆に、すべてを明らかにして公にやりとりする「おおやけ」を構築したことでもあり、そういう意味でアメリカは、大衆が参加する基礎条件を整えたとも言える。そしてそこが、日本の近代的な政治設計と決定的に異なった地点なのであった。古い大陸を見限り、反抗し、棄てられて、「新大陸」へ伸して来た気概が、なおのこと推進力になったことは疑いない。

                                        * * *

 20世紀が「理性傾斜の時代」となったもう一つ大きな要素が、映画、ラジオ、出版であった。アンダーセンの指摘で面白いのは、それらマス・メディアを通じて、アメリカの大衆文化に誕生したのは「セレブ」だったということ。なるほど、そうしたマス・メディアがなければ、大抵の著名人は「知る人ぞ知る」存在に過ぎなかった。

 ところが、マス・メディアが誕生し、それに載せて広告宣伝が行われ、その手法があれこれと創意工夫を重ねていくうちに、映画館も増え、映画の制作本数も増加していく。ラジオは声だけではあるが、無料で情報を届ける。人々は文化を共有し、あるいは共感し反撥して、場を為していく。まさしく週や都市単位であるとはいえ、「ユナイテッド・ステイツ」の土台がかたちづくられていく。新聞や出版の発行部数も、後にそれに載せる広告・宣伝も、商品や出来事の文化として社会的に共有されていく。「19世紀までに基礎がつくられた」狂熱のファンタジーランドの並みに載ったのは、アンダーセンが謂う「セレブ」だけではなく、「コマーシャル」も「デキゴト」も、つまり社会文化のありとあらゆるコトゴトが、「アメリカ人」の共有する文化として「セレブ」として著名化していったのであった。狂熱をベーシックな気質とするアメリカ人にとって、第一次大戦と第二次大戦を経て、「自由社会の自由と人権の旗手」として「理性の時代」を迎えたことが、そのまんま、敗戦を迎えアメリカによって占領された日本に流れ込んできたのであった。

 戦中生まれ戦後育ちの私たちが、「日本国憲法」や「アメリカ」を新しい時代の「希望の指針」と受け取って吸収していったのも、むべなるかなであった。

 その「情報化時代」が、さらにその後、テレビやインターネットを通じて、量も変え、質も変わり、かたちを変えて大衆の自己表現へと移り変わってきたことは、よほど人間を変えてきたと見なければなるまいと、78年の径庭を振り返っている。

2021年6月22日火曜日

狂熱の啓蒙主義500年が陰謀論を生んだ

 昨夕、私のPCの「緊急事態宣言」を出した。やはり予想通り、今朝ほどから今しがたまで、何度やってもモニターは暗いまんま。これからPCの新しいのを探しに行こうかと思っていた。ただ、ためしにONにしてみると、なんと画面が見えるではありませんか。

 やれやれ。これでとりあえず今日は、ブログに書きこみができる。そう思って今、いそいそと書いている。

 書こうと思っていたことは、昨日の続き。

 アメリカの作家、カート・アンダーセン『ファンタジーランド狂気と幻想のアメリカ500年史』(東洋経済新報社、2019年)の記述。じつはこの本、(上)(下)の二巻に分かれている。私がいま読んでいるのは(上)なのだが、全体を通じて、アメリカという国が、その建国の前段階から、そこに身を置く人々の心を囚えつづけている「幻想」というか、宗教的熱狂に照準を合わせて、その推移と浮沈を描き採ろうとしている。

 読みすすめながら、私自身、これまで抱懐していたアメリカ観が大きく変わる感触を覚えている。

 まだ上巻の6割くらいしか読んでいないのに、全体を大まかに概観する。全巻が6部に分かれている。ヨーロッパ大陸からの移住と建国を内面的にも社会的にも支えてきた宗教的情熱が「第1部 アメリカという魔術(1517~1789)」を生み出し、「啓蒙主義」に結果する。カント哲学の延長上に位置する啓蒙主義の「私の信じるものを信じる」という側面が良くも悪くも併存するようにして「第2部 狂信者たちの合衆国(19世紀)」に結実する。落ち着く先を求めて幻想が陰謀説への偏愛に実を結び、メディア、広告、娯楽を通じて幻想が産業化され、「開拓時代への郷愁」を合わせながら、狂信的なアメリカはいっそう進行する。

《こうして、全国的な規模で夢のような嘘を売るのが、当たり前のことになり、アメリカの生活の一部になった。つまり、幻想と産業が永続的かつ相乗的に結びついた幻想・産業複合体の基礎が築かれたのだ。》

 第二部までに「アメリカ史の第一期」の終わりまでが描かれる。19世紀の終わりころである。

「第3部 理性への傾斜の時代(1900~1960)」は世界の分割と第一次大戦をヨーロッパ諸国が追いかけて争っている間に、一躍(ヨーロッパに対する)対抗文化から自律することになったアメリカが、第二次大戦を経て、科学技術においても理知的な面においても世界を領導する立場を得て、ヨーロッパ出自への対抗という側面もあって、なお一層「理想郷」へのモチーフを強め、アンダーセンにしてから「アメリカの黄金時代――まともに見えた1950年代」と言わしめる理知・合理的なアメリカが現出した(ちなみに、この時代の米占領軍の若い人たちが日本国憲法を人類史的に理想の憲法として作成したということになる。そういう幸運を子ども心に身につけてきた私などのアメリカに対する「幻想」が、アンダーセンの記述によって、ほんの一面しかみていなかったと思い知らされるわけだ)。

 そして「第4部 狂気と幻想のビッグバン(1960~1970)」で、科学は宗教の一形態となり、対岸にソビエトを措いて「陰謀論」は現実と混在し、「幻想・産業複合体」が弾ける。そう言えば、ディズニーランドなどは、まさにその典型であるし、大統領レーガンが「悪の枢軸」という言葉を使ったとき、この人の頭の中では映画の世界と現実が混在していると私は思ったのが、いやそれこそがアメリカだよとアンダーセンに教えられたってわけ。

 上記が、(上巻)。

(下巻)は1980年代から本書出版までの37年間。「第5部 「ファンタジーランド」(1980~20世紀末まで)」と「第6部 「ファンタジーランド」はどこへ向かうのか?(1980年代から現在、そして未来へ)」と、全てをつぎ込んで、アメリカ的狂熱の立っている地点を総覧している。

 トランプ時代が、実はアメリカという国の社会形成の必然的結晶であり、「陰謀論」がじつは「エリート不信」と背中合わせになっている証明と見るのは、トランプ時代が終わって(なおかつ共和党が未だ占拠されていると)みると、アメリカの宗教的というか、もはや文化的狂熱(しないではいられない気質)が、どん詰まりまできている気配と思える。世界が、日本が巻き込まれるのはやりきれないなあと思うが、安倍宰相がそもそもそういう人であったことを想い起すと、富裕な暮らしが産み落とす歴史的必然の人間像なのだろうか。

 一つ付け加えておきたい。

「開拓時代の郷愁」に関して、アンダーセンがヘンリ・デイヴィッド・ソローの『ウォールデン――森の生活』のファンであったと明かして記していることが、ちょっとショックであった。

 ソローは「上位中流階級らしい青春期の延長の仕方を編み出した人物」なのだが、27歳の時に「牧歌的幻想を実現するプロジェクトにとりかかり、……森の一角のウォールデン池のほとりに一部屋だけの小屋を建て、居を移し、辺境の地の住人として、素朴で自立的、純粋で高潔であることを夢想した」人として、私もその記録を読み、共感するところ大であった。

 ところがアンダーセンは、

「自裁に小屋をつくる際に友人の助けを借りているうえ、小屋を建てた場所は両親など数千人がkらす古くからの繁華街から歩いてわずか30分ほどのところ。新たに敷設された鉄道で30㌔移動すれば、アメリカ第三の年もあるところ」

 と追記する。つまり、ソローの「自然の中の生活」というのもまた、フィクションだと書いている。そしてこう続ける。

《……実際ソローは、ウォールデン池を離れたのち、メイン州北部の本当の荒野で数週間を過ごしたが、「薄気味悪くて野蛮で」「巨大な怪物のような自然」に恐怖したと述べている》

 いやはや、『ウォールデン――森の生活』を呼んだイメージしていたのは、まったく私の手前勝手な「郷愁」の投影に過ぎないと思い知らされたわけ。

 そうなんですよね。そんな風に、自分の姿を(ありうべき鏡に映る姿を通して)他に転移してみているだけなんですね。肝に銘じましょう。

2021年6月21日月曜日

いつアウトになるかわからない「緊急事態宣言」

 今朝ほどブログに記事をアップした。

 リハビリに行ってきて、お昼前にパソコンの電源を入れたら、起動の音はするのに、画面は真っ暗なまんま。どうも、ノートパソコンのキーボードとモニターの繋がりが悪くなっているみたいだ。

 思えば買ってから、11年目か。よくもった。キーボードの文字のいくつかもすり減って消えかかっているくらいだから、本体全体が、そろそろ寿命を迎えるのだろう。

 午後、何度か試みてみたが、相変わらず。やっと夕方五時を過ぎてトライしてみたら、やっと画面が復活した。次に消すと二度とつかないかもしれない。今のうちに記事を書いて、ひょっとするとしばらくこのブログはお休みになるかもしれない。「緊急事態宣言」をしておくことにした。

 もしこのあと、同じような事態になったら、しばらくお目にかかれない。勘弁してくださいね。

 ちょうど今日は、夏至。昔のデスクトップでは、暑い夏に負けてフリーズしたこともあった。マシーンの中が汗をかいていたらしく、しょうがねえなと、どんと叩いたら、うまく復活したこともあった。まさか今度のノートもそうだということじゃあるまい。

 データは、実は外部記憶装置の2テラバイトにしてあるから、保存には心配していないが、次の機種を手元において、ぼちぼち移行措置をとらなければならないのかもしれない。だが、ソフトを入れ替えなければならないから、さてどうするか。どんなパソコンを手に入れるか。いくつか店を歩いて、物色することになりそうだ。

 そんなことも、だんだんメンドクサクなっている。齢だな。こちらは、まだ、すぐにアウトってわけじゃない(と、思っている)。

コトはとっくに起こっていた!

  いま読みはじめた本で、ちょっと驚いたことがある。カート・アンダーセン『ファンタジーランド狂気と幻想のアメリカ500年史』(東洋経済新報社、2019年)の第一章「「ファンタジーランド」と化しつつあるアメリカ」。

 ジョージ・W・ブッシュ政権の黒幕と言われたカール・ローヴが口にした「現実ベースのコミュニティ」という言葉。

「現実ベースのコミュニティにいる人々は、思慮分別をもって目に見える現実を検討すれば解決する策が生まれると信じている。だが、世界はもうそんなふうに動いていない」

 と言ったという。そして1年後に「コルベア・リポート」というコメディ番組が始まったそうだが、そのなかの「用語解説」というコーナーで右派の大衆迎合主義者を演じるスティーヴン・コルベアが「トゥルーシネス」という言葉(「証拠や論証」に拠らず直観的にある事柄を真実だと信じることを指す)を紹介し、概要、こうと解説していたそうだ。


《そんな言葉はウェブスター辞典にないというでしょ。でも辞書や参考書はいわばエリート。何が真実で何が真実でないか、何が実際に起き、何が実際に起きていないかを、絶えず私たちに教えてくれます。しかし『ブリタニカ大百科事典』にパナマ運河が1914年に開通したと言う権利があるのでしょうか。私が1941年に開通したと言いたいのなら、そういうのが私の権利であるはずです。……本は事実ばかりで、心がありません。……現実を見てください。わが国民は分断されています。……頭で考える人たちと心で理解する人たち。みなさん、真実は直観から生まれるのです。》


 ハハハ、いやはや、コメディ番組と前振りがなければ、なんだこれは、トランプ現象の先取りではないか。そう思ってしまうところでした。トランプさんは二番煎じだったのですね。知らなかった。知っていれば、まるごとコメディと受け取って、本番さながらに現実を舞台に演じてみせているトランプさんや、そそくさと駆けつけてゴルフクラブをプレゼントする安倍さんの演技を、声をたてて笑うことができたのにと、思います。

 この人、何者?

 作家のようですね。評論家でもあり、ラジオ番組を製作したり、TVや映画、舞台の脚本も担当したり雑誌の編集長をしたりと、八面六臂の活躍をしている方のよう。

 何しろこの本の原題は「How America Went Haywire: A 500 Year History」。原書は2017年の発行。「go haywire」というのは台無しになるという意味だから、トランプ政権の展開をまじまじと見据えながら書いたのかと思いきや、そうではない。本書のアイデアを思い付いたのは、冒頭のカール・ローヴの発言の有ったころというから、2004~2005年頃のこと。やはりアメリカ文化の潮流をみていると、コトはとっくに起こっていたのですよということになる。

 だとすると、クリントンがトランプに敗れる(かもしれない)というのは、文化の潮流を見ていれば、読めなくはない「事実」だったってことになる。日本は、やっぱり二周も三周も遅れて走っているのだと、肝に銘じました。

 えっ? 遅れて走っているのは、お前さんだけだって?

 う~ん、そうかなあ。

2021年6月20日日曜日

大自然と言葉を交わすということ

 動物と言葉を交わすとか植物と言葉を交わすというのは、どういうことであろうか。動物や植物が発する信号は「ここにいるよ」という存在の声であり、音であり、あるいは様態である。生き物だけではない。巨岩や洞窟に、あるいは山や湖に、さらには暗闇や深い霧や風に感じる「畏れ」や「恐れ」がかたちを変えて「ことば」になり、それとの身の裡の応答が「会話」になる。「言葉を交わす」という響きからすると、「外部/環境」をわが身の一部に取り込んで「ここにいるよ」と共に生きている感触がある。

 ところが人類学がとりあげる少数部族になると、そうはいかない。とらえる側のヒトのもつ文化的な優位性が剥き出しになるからである。ヴィヴェイロス・カストロの『インディオの気まぐれな魂』(水声社、2015年)はブラジルに入ったイエズス会宣教師、アントニオ・ヴィエイラの史料を読み返して、16世紀インディオの「気まぐれ」に振り回される西欧人の姿を描き出す。


《…ブラジルでは、神の言葉は一方の耳では熱烈に歓迎され、他方の耳では無頓着にも無視された。ここでの敵とは、異なる教義ではなく、教義に対する無関心、選択することの拒絶であった。気まぐれ、無関心、忘れやすさ。「この土地の民は、全世界のあらゆる民族の中で最も不作法で、もっとも恥知らずで、もっとも気まぐれで、もっともへそ曲がりで、もっとも教えがたき者たちだ」と、幻滅したヴィエイラは挑発的な言葉を並べた…》


  これにはじまる他民族文化のとらえ方が、後に文化人類学として、他者を対象化する方法として論題化されるのだが、1980年代末のダム開発をめぐるインディオを対象化する様態に関して、訳者・近藤宏は、面白い指摘をしている。


「計画においては環境への影響が問題視される。この時の環境とは、物理的環境、生物的環境、社会-経済的環境をその下位概念に位置づける。この環境概念により、人間もダムや保全区域という環境の構成要素となる。……(こうして)インディオ社会を広義の環境に取り込み、またその人々を「自然人」に近づけることになる。このイメージは、自然の守護者といった、自然環境と一体となるインディオのイメージにも近い」

 そのようにして、インディオの社会を社会的な主体として考えることをしない結果、

「インディオは国家に統制されるものとなる……ブラジルの場合、その統制は両義性に満ちた「保護」の形式をとる。この「保護」とは身体的には保護しながらも、統合することによって固有の社会性を破壊する」と。


 近藤の指摘からふたつの論点を取り出すことができる。

(1)近代社会における「開発計画」は、その地に暮らす人々をも「環境(の一部)」とみることによって、その人々が営む独特の社会性を「破壊」している。

(2)ヒト以外の動物や植物、あるいは大自然という環境を「保護」すべき対象と見ることによって、実はその独特の関係性を「破壊」している。


 (1)は、目下、中国のウィグル自治区やチベット自治区の「中国化政策」を想い起させて、同類のモンダイと受け取れる。ウィグルやチベット民族を「中国化することによって近代化する(漢民族化)」政策が、じつはそれぞれが持ち来っている独自の社会性を破壊している。それは(漢民族化という言葉は当たらないが)、香港についても同様で、中国の共産党が民衆を指導統治する(=保護する)というスタンスが、すでに、民衆の独自の文化や社会を破壊していることを意味する。

 さらにそれを敷衍すると、中央集権的な統治が地域分権的な(伝統的な)社会構成を阻害し、破壊することに通じていると読める。つまり日本の(地方自治的なセンスが破壊されてしまっている)現在にも通じるモンダイである。

 (2)は、SDGsで取り上げられている視線と重なる。大自然と言葉を交わす地平を(いつしらず)身につけてきた(敗戦前後生まれの)日本の人々は、どこかに大自然に対する「畏敬」の念を抱いている。それは大きな「開発計画」に関しては大自然もまた、「主体」であると声を発していると受け止める。それが、ひとたび破壊を体験してきたヨーロッパの人々の感覚と同じ地平かどうかはわからないが、SDGsへの共感のベースになってはいる。いわば、原初的な、素朴な自然信仰が、わが身(の開発計画)を対象化する際に作動しているように思えるのである。

 そういう微細な違いを、モンダイにするような地点に、いま、来ていると言える。

2021年6月19日土曜日

「ヒトのじねん」のあしらい

 江國香織『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』(朝日新聞出版、2014年)を手に取って、不思議な偶然に驚く。先日(6/17)に「太古のイメージ」で、動物と言葉を交わす人類学の記録を取り上げたばかりだった。

 本書は、そのものずばり、ヤモリやカエルやシジミチョウと言葉を交わす幼い子の振る舞いが主旋律のように描かれる。むろん、普通に暮らしている人たちには、理解できない。わからない。子どもにだってわかる子もいれば、わからない大勢もいる。

 だが大人は、それと気づかず「じねん」に振る舞うことはしている。ヒトの規範に縛られず、社会的関係にもとらわれず、わが身の思うがままに振る舞う大人の「じねん」は、動物と言葉を交わす幼子の「自然」センスが、人の世がつくりあげた身の裡の「じねん」に従うのと、どこが違うか。そう、本書全体を通じて、この作家は問うているようである。

  つまり、こうも言い換えられようか。

 人類学がとりあげたカナダ先住民の自然との一体性のセンスは、今や形を変えて、本性の趣くままに、現代社会の規範やシステムを潜り抜けて「じねん」に振る舞う人たちに体現されている、と。嗤うべきは、アンモラルに振る舞う「じねん」ではなく、ヒトを縛り付けている「イエ」や「カゾク」や「ヒトの文化」である。

 でも、ね、と幼子はいうかもしれない。言葉を交わせるのは、「ヤモリ」であり「カエル」であり、二匹が絡まり合って飛び交う「シジミチョウ」である。「家守り」や「帰る」処を見失っては、人の世はつづかず、でも、「シジミチョウ」の恋を否定しては動物の命そのものがつづかない。「シジミチョウ」の産み落とす結果としての「ヤモリ」や「カエル」をどう保ちながら、「シジミチョウ」をつづけるか。そうう疑問をかかえたまま、ヒトの営みは営々と続けられていますね、と。

 「じねん」を否定するでもなく、「ヤモリ」や「カエル」を、どうかたちを変えて保ち続けるか。それに対する一つの、答えを、作家・江國は用意している。それを明かしてしまうと、読む趣向を殺いでしまうから、ここでは明かさない。

 だが、その答えとて、果たしてそのまま承認していいものかどうか、この作家も迷うところだ。そこのところを「ゆめ・まぼろし」のようにあしらって、すがすがしく終わるのが、いかにも大衆紙の新聞小説であった気配をとどめる。

2021年6月18日金曜日

20の扉

 子どものころよく聴いていたラジオ番組に「20の扉」というのがありました。「動物、植物、鉱物」と最初に司会者の声が入って番組がはじまり、回答者が次々と質問を浴びせて、「それ」がなんであるか当てるというクイズものです。世界は、動物、植物、鉱物に分かれていると思って疑いませんでした。

「生物」という概念があると知ったのは、いつのころだったでしょうか。動物と植物が「同じ」であると、ひとつにされていました。それを得心したのは、中学校で「細胞」を学んでからだったでしょうか。いや、もっと昔、まだ物心つくかつかないころから、森の中や夜道では、動物も植物も同じように恐いものだったとも言えます。

「細胞」は「知識」です。でもそれが、「動物、植物」という壁を取り払って「せいぶつ」としての共通世界を生きているのだという「感得」を得たということは、「知識」が私の身の裡に胚胎し、根を張り始めたとも言えます。私にとって「知識」は「(私の感じとっているのとは違う)外」という「世界」。大人の世界でもありました。

 その「感得」が根を張り始めて芽生えたのかどうかわかりませんが、高校に入って、当時は最先端と言われていた「分子生物学」に言わせると、動物と植物の端境がないばかりか、鉱物さえ、同じ地平の地平線に見え隠れしていると考察されるようになり、「世界」は一挙に一つになる気配が漂います。「混沌の世界」の再来です。

 そこへ(後に)「物理学」からの宇宙論が運び込まれて来ると、「世界」が「宇宙」と起源を同じくして、しかも、「素粒子論」がかたちづくる星と「私たち」とが同じ出来上がり方をしていると考えると、これも「知識」でしかありませんが、ヒトは死んだら星になるという物語りが、俄然リアリティを持つようにさえ、思えたものです。

 子どものころの「混沌とした世界」の感触体験は、後の「知識」という外部世界を身の裡に取り込む「感得」の土台となっているのかもしれません。それを経て、外部世界と身の裡の「せかい」とが、つながったり/切れたりしながら、茫洋とした現在の「わたし(わがせかい)」を成してきていると、振り返っています。外と内との「繋/断」が何をスウィッチとしているのかわかりませんし、一度繋がったものが後に切れることになるのかどうか、それがくりかえされているのかどうかもわかりません。

 でも、身の裡の感触でいうと、いろんな局面での様々な体験とそれらを忘れることも含めて、外と内との「繋/断」に、なにがしかの物語を絡めて「わたしのせかい」が、ぼんやりとかたちになってみえるように感じ取れるのです。後期高齢者というこの歳になって、ボーっと生きて来たなという自分への思いと、この先それ程の発見があるわけでもないという見切りが、「せかい」をまとめる「ものがたり」を仕上げる接着役をしているのかもしれないと感じられるほどです。

 も一つ付け加えておくと、「宇宙論」が登場したころから、「宇宙論」の「物語り」も、わが身の裡の「ものがたり」も、似たような「ヒトの思念/想念/幻想」と感じられ、物質世界ばかりでなく、思念の世界も「混沌」に組み込まれて、「ひとつになる」気配に感じられています。

 これって、子どもに還るってことでしょうか。それとも「せかいはひとつ」ってことでしょうか。

2021年6月17日木曜日

太古のイメージ

 コロナウィルスが教える「暮らしの基本」に前回触れました。人類史をさかのぼって、太古をイメージすると、森の民が思い浮かびました。奥野克己『ありがとうもごめんさないもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』が調査したプナンの民は、ボルネオ島に暮らす少数民族です。

 森林開発を進めるマレーシア政府に反対して、自分たちの暮らす区域に手をつけないことを約束させます。でもマレーシア政府は、子どもたちに教育を受けさせてプナンの人たちを近代的な暮らしへ誘(いざな)おうとします。プナンの人たちは、自分たち流の森の暮らしを続けながら、反対はしないが従わないという態度で、なかなかそのお誘いには乗りません。人類学者の奥野さんは、ひょっとして私たちの近代的暮らしの方が間違っているんじゃないかと「考え」ている、面白い本です。

 また、カナダ先住民を研究してきた人類学者が、動物と話す少数民族の記録をいくつも見つけています。山口未花子「動物と話す人々」は、「北米先住民にとって動物と話すことはすべての狩猟者に備わった能力であるらしい」と知り、「生物学から人類学へ舵を切った」と述べています。

 カナダがアラスカと接するユーコン準州とブリティッシュコロンビア州の境界地域に、伝統的な生活領域をもつ先住民、カスカの人たち。山口がとりあげる人々の人口は725人。同じ地域の街に暮らすヨーロッパ系カナダ人は545人という規模。病院や図書館、スーパーなどのサービスも受けられ、日用雑貨も手に入るし、車で移動するから、現金も必要。それらを、狩猟採集した自然資源を利用しながら、成り立たせている。いわば、半農半猟の混合経済を営んでいる。その人々が、動物と話すという。

 動物と交わす言葉は夢であったり、焚火の音であったり、森の中で出くわした獣の振る舞いであったりする。それが話していることをつかみ取り、危険を察知する。どちらかというと、つねに危険にさらされ、自然におびえながら、禁忌(タブー)を護りつつ、動物が出すサインを読み取る。つまり原初の人間が、恵みでもあるが、動物に襲われる危険、天候気象や災害の予兆など、大自然の諸事象を読み取りながら、しかし大自然の恵みによって暮らしが成り立っていることに感謝しつつ、営みを続ける姿が思い浮かんできます。なかには、獲物を教えてくれ、幸運をもたらすライチョウやグリズリーやオオカミやカエルなどをメディシン・アニマルと読んで「(自身の)守り神」とみなしていると聞くと、日本にもかつては、そのような話があったことを思い出します。

 つまり私たちは、太古のそのような「暮らしの基本」を忘れて、いま今日の日々を過ごしています。「ボーっと生きてんじゃねえよ」と誰かさんに叱られるというのも、じつは、昔のことを忘れるほど、私たちの日々の変わりようが早いってことでもあります。

 何をそんなに生き急いでるのよ。ときどきは、人類史が歩いて来た径庭を振り返って、どれほど遠くへ来ているかを眺め渡してごらんよと、声をかけているのかもしれませんね。

2021年6月16日水曜日

専門家分科会への本格批判

 サッカーのアジア予選、日本とキルギス戦の休憩タイムに切り換えたBSフジの「プライムニュース」で、米村滋人という東京大学法学部大学院法学政治学研究科教授・内科医という方が、コロナウィルス感染症対策分科会の会長・尾身茂批判をしていて、オモシロイと思った。どういう成り行きで、その発言に至ったかはわからないが、米村滋人は「尾身さんという方は、去年から政治的な発言をする方ですから」ときっぱり。それが尾身という方のどことなく鵺的な印象を指しているようで、耳に留まった。

 その上で、「緊急事態宣言をして感染がどう収まったか収まらなかったか、データ提示して政府に進言するのが専門家の役割であるのに、専門家会議としての役割をしてこなかった」と手厳しい。つまり、「人流が拡大すればもっと感染が酷くなる」と素人が見るような発言をするのは専門家ではないと切って捨てていたのが、印象的であった。

 加えて、「メディアも話題性ばかりを追って、そういう本格的なモンダイへの切り込みをしていない」と言い、ちょうどこの日の、この番組のテーマが「自民党内権力闘争」であったのを揶揄うかたちになり、司会者が「どうもすみません」と謝っていたのが面白い。

 他の番組参加者・ジャーナリストが「専門家と政治家の間をつなぐ役割を果たす人がいない」と言ったのを受けて、「台湾の蔡英文も学者、ドイツのメルケルも学者」だと返す。つまり、うまく運んでいる国は政治家自身が専門家の言葉を読み解いて政治家として組み立て直す力をもっているというわけだ。

 もう一人の政策研究大学院大学教授が「それ(両者の中継ぎ役)を果たしてきたのが役人だった」と口を挟んで、役人の劣化も露わになった。

 総じて直観的にいうと、次のように言えようか

(1)日本は素人が政治を行っている。「専門家」も皆、素人論議に加わるから、専門家としての役割を果たしていないそれは、「専門家」という「限定」を取り払ってしまって、国民として「事態」に向き合っているからだ。これは「情報化社会」のもたらしたものである。

(2)役人の劣化を先導しているのが政治家だとすると、引き起こされている「事態」は、まさしく自業自得。だが、政治家まかせ、お役人まかせでのほほんとしてきた国民にとっても「自業自得」と言えようか。

(3)それでも、米本のような指摘のできる「学者」はいるのだ。私は、台湾の「唐鳳/オードリー・タン」を思い浮かべていた。これは「希望」である。

(4)米本に感じた「希望」的直観は、(己の)身を限定することと、「論理的に率直であること」と言えようか。そういう風土が、いまだ日本(の政治風土)には定着していない。


 日本とキルギスの対戦は、とっくに練習試合のようになっていた。


2021年6月15日火曜日

どういじくっても、優劣は変わらない

 久坂部羊『生かさず、殺さず』(朝日新聞出版、2020年)を読む。医師であるこの作家は、認知症病棟の医療を取り上げている。いや正確には、いろいろな病気を患っている患者のうち、認知症を併発している患者を預かっている病棟。つまり、病を治してもらっているという認識もなければ、振る舞いが我が儘という人たちだから、医師も看護師もかかわり方のモチベーションに狂いが出てくる。仲間内の言葉は率直にもなり、また乱暴にもなる。それが医療関係者のホンネを曝していて好感が持てたり、逆に嫌悪感を誘発したりする。仲間内の振れ幅の大きさを表したりもする。当然、患者と医療の間に患者家族がかかわってきて、世話をする面倒と世話をしないが気遣いだけはしてきた「愛情」とが交錯し、ぶつかり、狭間に立った医療関係者は困惑してしまう。読み取るものとしては、自身の価値意識が剥き出しで引きずり出されているようで、読みながら、登場人物の料簡の狭さを嗤い、融通無碍な態度を訝しく思い、きっぱりと切って捨てる姿勢に第三者としての潔さを感じはするが恥ずかしくて、さながら身の裡の見本市のように物語は展開する。

 困った問題は、最後のところで取りだされていると思った。標題の「生かさず、殺さず」という武家社会の武士たちが百姓に対して用いたことばが、じつは、「とことん搾り取る」という意味ではなく、「(世話をする)ぎりぎりの境界に手を入れる(にとどめる)」ことをもって、じつは患者(あるいは家族)の自活能力を保ち続けることを意味していると読み替える地点に至った時であった。

 はて、そうか? そう思ったのだ。

 確かに今の時代、認知症患者の(外のモノゴトがわからなくなっているが)いま自分が何をしでかしているかはわかっている(かもしれない)端境の領域の心情を大切にして、責めない、叱らない、黙って(やらかした)始末に手を貸す、という介護手法が称揚されている。だが、それは「生かさず、殺さず」のどちらの意味にしても、医療従事者と患者の優劣関係は変わらないのではないか。

 ちょうどラテンアメリカの人類学者の考察を読んでいたこともあった。ヨーロッパ発の文化人類学において、ヨーロッパ文化の優位が変わらないことに引っかかった。エドゥアルト・ヴィヴェイロス・デ・カストロは、ヨーロッパの優位性を前提にした人類学が、ヨーロッパの人間観の優位性を絶対化した植民地主義的な(宗主国的な)人類学であることを(ヨーロッパ流のそこから入りながら)ぶち壊そうと、試みている。すると、人間の優位性という人間中心主義的な視線がほぐされ崩されて自然存在としての、つまり動物としてのヒトという次元に入り込み、そこを軸に据えた人類学が浮かび上がる(『食人の形而上学』洛北出版、2015年)。

 この新しい試みは、フクシマをさながら植民地のようにして電力開発を進めている関東在住者のものの見方考え方を、原発が必要ならお台場につくれと対立項を立てて展開していたのとは違った地平を拓くように思えて、読み進めていたから、ひょっとして久坂部のこの作品が次なる次元を拓くかと、思わぬ期待をしたのであった。

 だめでしたね。やっぱり自分で考えなさいと突き放された、という読後感でした。

2021年6月13日日曜日

異郷に死す

 今年3月、タイで亡くなった友人・Mと1970年代以降親しくつきあっていた3人が集まって、追悼の会を持った。と言っても、湿っぽい雰囲気はなく、酒を酌み交わし、「日本へ帰ったらお刺身を食べたい」といっていたからと刺身とにぎり寿司をつまみに5時間ほどお喋りして過ごした。

 仕事を少し早めに退職して、タイに渡り、小さいゴム園などを栽培して静かに暮らしていた。ただひとつ、彼がどうして異郷にわたることにしたのかが、わからなかった。ひとつだけ、日本が嫌いだったことだけが浮かび上がる。でもどうして? 両親や家族に対する恨みつらみがつよかったから、とは感じたが、それがどうしてなのかはだれも聞きただしたことはなかった。

 2020年4月に小腸付近に異常が発見されたMが5月に入院してから音信が不通となり、私のスマホが壊れたこともあって、以後消息不明となっていた。だがMと兄弟のようにかかわっていたYさんに問い合わせたところ、生きていたことがわかり、闘病生活を続けていたと知れた。それから再開したやりとりは、痛み止め薬による譫妄状態が重なって、支離滅裂になっていたが、それでも、声を聞くことができ、国際郵便でのやりとりが何度か繰り返されて、Mの状態をうかがい知ることはできた。そして、3月6日に、タイの(日本語)ボランティアの方からYにMの逝去の知らせが入り、闘病に終止符を打つこととなった。

 その後、Yの元へは、日本語のできないMの奥さまから葬儀の写真や亡くなる直前の、仏教寺院を訪れたスナップ写真が何枚か送られてきた。盛大な葬儀であったことと、感謝を示す「絵文字」が添えられていた。また私の元へは、未開封の国際郵便があったこともあって、(たぶん日本語ボランティアの扶けを借りて)日本の兄弟に知らせが届き、あわせて、私にも御礼を行ってくれと依頼があったようだ。その旨記した、丁寧な手紙をお姉さんからもらった。

 とりあえず、Mとのやりとりをまとめておこうとスマホを覗いたところ、飛び飛びだが、2017年からのメールが保存されていたことがわかった。2017年には使っているスマホの調子が悪く、私のブログにアクセスできないと言って「訴え」が何度も出てきます。2018年には、私のブログの感想が記されていて、タイがすでに第二の故郷になりつつある気配を感じさせています。2019年の秋には、再びブログにアクセスできなくなって、どこに問題があるかわからない、あなたのパソコンに問題があるんじゃないかと思わぬ愚痴をこぼしています。ブログにアクセスするのは、ブログ提供のサイトだから、私のパソコンは関係ありませんよとやり取りがあります。デジタル機器の素人が四苦八苦している様子は、こちらも心当たりがあることだけに苦笑しながら受け止めています。2020年になると、新型コロナウィルスの心配が降りかかってきました。それでも、3月までは(むしろ)私の体調が崩れたことを気遣って「医者に診てもらえ」とメールが届いていました。だが、3月30日のメールで、「小腸に癌か良性腫瘍があった」と医者の見立てを記し、「小腸に癌はできないんじゃないか」と私が返し、十二指腸辺りに異変があるとか、医者の診立てが(担当医が決まっていないため)定まらず、気遣うメールのやりとりが行き来しています。そして、4月21日、吐き気や食欲不振に見舞われ、タイの医療体制の話になり、同じ年齢の人が肺がんで亡くなったことなどをとりあげて、先行きを心配しています。そして、5月7日、「最終的な診断が確定しました。癌ではなく、腸閉塞を伴う十二指腸潰瘍です」とあり、「切除するかどうか」を悩んでいます。そして5月9日、「現在入院中。管を鼻に入れています。来週木曜日に手術をしますが、癌の疑いは必ずしも否定できないそうでしょう」と、語尾が乱れたメールを最後に、音信不通になってしまっていたわけです。

 Mと連絡が取れるまでのYとのやりとり、1月21日にMからの「国際郵便」が届いてからのやりとりと、3月3日に亡くなったという「訃報」、その後の親族とのやりとりをまとめて、彼の追悼号として一冊にしました。A4判で20ページ、400字詰め原稿用紙にして120枚くらいの分量になりました。

 それを肴にして、5時間もおしゃべりをしたのです。追悼というのが、やはり残されたものの心穏やかな安らぎのためにある、ということかもしれません。30年近く離れていた、集った3人の距離が、異郷に死んだMを介添えにして、近くなったことがコロナ時代の手土産というところでしょうか。

2021年6月12日土曜日

言葉というヒトの悪い癖

 言葉を綴ってモノを書き始めた学生のころ、「太初(はじめ)に言(ことば)ありき」を耳にした。そのとき、結局そこを出発点にするんだキリスト教も、と思った。つまり、神のことを語るのに、「ことば」がどのように発生したのかを問わないで、神が7日間かけてつくった「創世記」を語るわけにはいくまいにと考えていた。「聖書」ということで、「旧約」も「新約」も区別がついていなかった。

 それが後に、新約聖書の「ヨハネによる福音書」の一節と知ったが、その言葉の後に「言は神なりき」と続いていると知り、バイブルの読み方ががらりと変わる気がした。

 人が口にする「ことば」が「世界をつくった」と読み取れる。なんだ、人の言葉(の不思議)が切り分ける様々なコトゴトによって、「世界」がつくりだされていくってことではないか。それなら、子ども時代からの「わたし」にすると、自然なこと。つまり、「ことば」にすることによって、はじめて「せかい」は起ちあがる。そのようにして「せかい」がつくりだされ、「わたし」の胸中にかたちをもつようになったのは、実感的にも間違いがないことであった。

 ヨハネによる福音書はさらに、次のように続ける。


「萬(よろず)の物これに由りて成り、成りたる物にひとつとしてこれに由らずして成りたるはなし」。


 そのイメージを絵柄にした塑像にも出会った。カンボジアのアンコールワットやインドのヒンドゥ寺院にあった「乳海攪拌」と名づけられたヒンドゥ(仏教)の物語。混沌の海から人が綱引きをして、モノゴトを取り出してくる。「ことば」にする、つまり名づけることによって、大自然という「世界」から切り分けて取り出すのは、「分節化」すること。そうすることによって「意味の次元」へと引きだされてくる。「よろずの物は言葉によって成り、ひとつとしてこれに由らず成りたるはなし」と得心も行く。唯一神というキリスト教も多神教のヒンドゥや仏教の描く世界も、大自然の不可思議を似たように捉えている。「ことば」は人の表象世界を具現するクセだ。「ことば」にすることによって「せかい」は混沌から切り分けられ、「わたし」のなかに起ちあがる。まさしく創世記だ。

 信仰や宗教的信条が、じつはヒトとその出会っている大自然の不可思議をふくめた由緒由来を物語り化したものなのだと受け止めることによって、「宗教」というものへの向き合い方も変わっていった。ただ、所与の大自然を「混沌の海」ととらえるヒンドゥは、乳海という母性に表象することによって是非善悪を越えた畏敬の念を押し立てている。他方、「暗黒」ととらえ、これを分節化することを「光」とみて、ヒトを「暗黒は之を悟らざりき」とみなす出立において、唯一神信仰は「ことば」を善悪二元論に押し込めていると感じる。

 不可思議に対する向き合い方が逆立している。「言」の原語が「ロゴスlogos」だと知って、いかにもヨーロッパ的だと思った。

2021年6月11日金曜日

枯れ木も山の花咲か爺い

 国会でのやりとりは、ほぼ毎日、お昼のTV番組のネタ提供に終始している。五輪を主催する機関も、なにをどうやるか説明もしないから、実務的にきっちりやればいいんでしょと、いわばお役人的な抜け目なさばかりが目につく。日本の行政機関も、いつからこんなに、低劣になったのだろうと思ってしまう。

 なかでも「有観客/無観客」の旗幟を鮮明にしないのは、方針が決まらないのか、ただただ先延ばしにしているのか、これもわからない。いまの首相は、切羽詰まってから「私が決めました」と発表するのが得意だから、実行部隊もそれを見習っているのかもしれない。

 すると、TVの番組では、「ワクチン接種を2回済ませた高齢者だけを観客にしたらどうか」と(笑)の提案が飛び出している。それを耳にして、うちのカミサンは「枯れ木も山の賑わいっていうからね」と面白がっている。

 続けて「懐豊かな高齢者から、入場料も取れるし・・・」というから、「ん?」と思った。一昨年販売した入場料チケット代金は、払い戻ししなかったんじゃないか。ここへきて入場料をとったら、二重取りになるじゃないか。そりゃあ受益者が違うって言えば、そうだが、最終的な受益者が五輪機関だとすれば、受益者丸儲けってことになるのは、どうなのよと、思わぬ場外乱闘へ話は転がっていく。もしこれで入場料などをとることになれば、「枯れ木に花が咲く」と主催機関は大喜びするに違いない。花咲か爺いだね。

 状況論的な「世論操作」の効果が出て来ているようだね。TVのネタ・テーマが、ゆっくりと旋回し始めた。「お上がやるとなったら、やるんだ」という日本的な行政体質は、変えられないってことか。それを「説明するかどうか」は、「お上」の沽券にかかわるモンダイ。民主主義とか、情報化社会とかいう状況的次元とは違うんだよと、木で鼻をくくったような答弁をしている宰相は、思っているのかもしれない。

 さて、ワクチン接種が順調に進んでいる花咲じじいは、どう考えているか。

 私の周りの知り合いも、概ね第一回接種は終わったと報告があり、第二回目も終わったと話す人もいる。では、7月下旬になれば、Seminarもできるんじゃないかと「問い合わせ」があり、そうか「できるかもね」と、新橋に仕事を持つ発起人のひとりに連絡をとったら、ちょうど二回目接種が終わったというので、さっそく会場を確保してくれた。

 五輪のことは、「状況」のひとつ。もうとっくに「観に行こう」という気は失せている。そちらは「バブル方式」とやらを採用しているから、枯木に危害を加えることにはなるまいと判断して、賑わう新橋界隈へ出向いて、1年半ぶりのSeminarを開催しようという運びになった。

 ただひとつ、やはり「状況をみる」条件が付いている。あの、専門家分科会の尾身会長がくり返す「感染拡大」が抑えられない場合のことだ。もし今と同じ状況が続いて「自粛」が続いていたら、Seminar開催も見合わせると。こちらは国際機関がかかわっていないから気楽に「状況論的に」対応しようとしている。

 さてこちらにも、花が咲くかどうか。

2021年6月10日木曜日

7月24日(土) 36会Seminar開催のご案内(予告)

皆々さま

 ご無沙汰しています。皆さま、元気にお過ごしでしょうか。

 ワクチン接種も必要ですので、気が早いのですが、7月Seminarの開催のご案内を「予告」します。


 来る7月24日(土)午後1時から3時までSeminarを行い、その後に、「お茶会」をもちます。ぜひとも、皆さまにはご参集いただきたく、それまでにコロナワクチンの接種を済ませて、お運びくださいますよう、ご案内する次第です。


と き:2021年7月24日(土)13時~15時……Seminar

会 場:新橋「鳥取・岡山アンテナショップ」2階会議室(36会・濵田さんの名で予約しています)。

講 師:伊勢木洋昭さん

お 題:鉄の話


 病気療養中であった講師の伊勢木洋昭さんの体調も回復し、1年3カ月持ち越した「お題」で、お話をしていただきます。


 なお、Seminar終了後に「お茶会」を持ちます。事前に料理を用意するとのことですので、一人あたり2,000円で、用意していただくことにしています。

 また、酒類の提供を控えねばならない場合を除き、「お酒」の提供もできるとのことですので、別料金で当日ご注文下さい。

「お茶会」の人数を7/17までに知らせる必要がありますので、7/16までに事務局へ参加の是非をお知らせくださいましょう、お願い申し上げます。


 重ねて、なお、「ご案内」(予告)としていますのは、都県境の越境自粛などがまだ続いている場合には、「中止」することもあります。正式の「ご案内」は、あらためて7月上旬に差し上げます。今回は、ワクチン接種を済ませていただきますようお願いする「ご案内」です。

 楽しみにしています。元気にお運びくださいますよう。

      2021年6月9日 事務局・藤田敏明

ワクチン接種。くわばら、くわばら。

  昨日、第一回目のコロナワクチン接種をした。

 指定の時間にクリニックへ足を運ぶ。10分前から建物に入る。10分に6人ほどだろうか。書類の受付、準備部屋への入室、片腕を捲る。医師のいる部屋への入室、ちょっとしたご挨拶をしながら、でも、さかさかと接種。痛くも痒くもない。別室へ行き、椅子に座って15分の待機。そして、終了、帰宅。

 たったこれだけ。予約を取るのにあれほどの時間をかけたことを考えると、なんだか、もっと合理的なやり方があるんじゃないかと思った。

 クリニックは、たいへんだ。看護師が6,7人。通常の医療時間とは別の、空き時間にワクチン接種をしている。1時間くらいやるとしたら、一日、3,40人ほどか。週に5日間として、多目に見ても約200人。ひと月に800人~1000人。う~ん、ずいぶん効率は悪いが、もしかかりつけ医がこの診療所の縄張りに住む高齢者を相手とすると、こんなものか? 

 介助者に付き添ってもらって、接種にやってきた人もいる。歩くこと自体がたいへんな様子。用紙を提出し、接種を受け、副反応の様子をみて待機するというのが一人でできない人たちにとっては、接種会場が余程ご近所でないと、接種を受けるのをためらうことになる。予約を競わせて接種をすすめようというのは、そもそも見当違いの手法だったと思う。

 しかもこれの第二回目の接種の予約も、またネットや電話でやらなければならないとなると、嫌になってしまう。「自助」精神がよほど強固でないと無事に終わらないね。

 と、暢気に日をまたいだ今朝、起きて左肩に軽い痛みが走る。はじめ、寝違えたかと思った。手を当てると、注射後に貼る絆創膏が手に当たる。ああ、これが副反応ってやつだ。一人前に私にも、副反応があった。これって、ワクチンに身が応えているかたち。効いている、と思った。第2回の副反応が酷いと聞いている。くわばら、くわばら。

2021年6月9日水曜日

デジタルの臨界点

 デジタル化社会がすっかり出来上がったら、AIに人は邪魔にされてしまうんじゃないかと問題提起したのが、シンギュラリティ。AIが人智を越える技術的特異点。2045年に訪れるとレイ・カーツワイルが予言した。だがそれは、AIが人の知能の模倣をしていると想定したうえでの話であった。果たしてAIは人の知能の模倣をしているのか。

 昨日の記事を記していて、ひとつ気づいたこと。

 世論を味方につけて五輪関係者や政権が、いい加減な運営状況を乗り切ろうとしていること。そのとき「世論」とされるのは、新聞社やTV局が(どこかの調査機関に委託して)行っている「世論調査」。ときどき、電話がかかってくる。機会音で「世論調査です。これからの質問にお答えください」と断ってつづく。私はたいていその初発の音を聞いて電話を切るから一度も協力したことはないが、「世論調査」というのは眉唾物だと思っている。

 五輪に関して「状況適応的」と「世論」を批判したが、じつは設問者が操作したい「世論的結論」にそぐうように問いかけをつくっている。先に上げた読売新聞の「五輪に関する世論調査」も、「条件付き賛成/反対」と分けて、「どちらともいえない」とか「わからない」を取り払っているから、「無観客なら/観客を削減すれば」が増えている。つまりコロナ感染の広まりとの関連を断ち切る設問をする手法に、すでに調査者の「人間要素」が組みこまれている。

 デジタルのアルゴリズム(展開手法)というのが、じつはすでに「人間要素」を(知ってか知らでか)組みこんでしまっていることが、アルゴリズムの先に展開する世界の「乏しさ」に現れてくる。「乏しさ」と呼ぶのは、私のイメージ枠内に収まってしまう貧弱さを意味している。

 例えば、子どもの振る舞いが単純素朴なものだと考えていると、絵本も遊具も制作者である大人のイメージの枠を超えることがない。ところが子どもは、どんな遊具にせよ、絵本にせよ、自分のイメージ世界に取り込んで(なにがしかの混沌を通過させた文脈において)「気ままに遊ぶ/あるいは遊ばない」。何かわからないが絵本を見て、低いうなり声をあげながら一人遊びをしている孫をみて、そう思った。

 しかしその、意に沿わない「振舞い」に大人は、ADHD(発達障害)などと名をつけて病気扱いする。「病気」となると、大人にとって「不可解な振舞い」も、(異常なこととして)それらしく納得できてしまうから(大人は)安心するってわけだ。だがその時点で、子どもの「不可解な振舞い」は捨て置かれ、「人間論」の俎上に上がることはない。

 ここが、デジタルの臨界点ではないか。それをデジタルの側に思考主体を移して読み取ろうとしたのが、若い数学者・森田真生の「数学する身体」(『新潮』2013年9月号)であった。

 ヒトの技術的レベルではノイズとされる「論理ブロック」が、(なぜかわからないけれども)AIの処理の中では使われて、それなしでは機能しない結果になったという「謎」だ。ここには、ヒトの側からの「論理」とは異なる筋道をAIがとっていると考えられる。だから逆にいうと、ヒトはそう容易にAIを、人と同じように見なしてはいけないという教訓でもある。ヒトとの関係的にAIは配置されるべきだという視線から言うと、デジタルの臨界点である。

 ヒトがデジタルに適応するように振る舞うのが現代だとしたら、それはヒトを飼いならして平板化することにほかならない。AIを飼いならしてヒト化するロボット工学が、なんとも逆説的な結果を招いてしまおうとしている。

 でも、お役所仕事は直観的にそれに逆らっているのだろうか。デジタルに適応できないで、右往左往している(笑)。

2021年6月8日火曜日

状況論的「お・も・て・な・し」

 オーストラリアのソフトボールチームが、群馬県太田市で合宿に入った。その選手たちが53日間も閉じ込められているのはかわいそうだと、太田市長が「一部買い物に出ることを許したい」と発言して、非難を浴びている。

 でも人の良さそうな市長がにこやかにそう話すのをみると、たしかに(かわいそうだなあ)と思うし、市民と接触しないような工夫をしているなら、それもありかなと、ついつい同情してしまう。合宿以外の場には顔を出さないという「規定」で来ているのだから、それを崩すのはけしからんというのも、コロナウィルスの猛威が衰えないことを考えれば、よくわかる。井戸端会議は四分五裂して揺れ動く。

 太田市長の発言は、「お・も・て・な・し」なのだ。しかも、ソフトボールチームが成田を経てやってきた。健康そうな彼女らの姿を見ると、ワクチン接種を終えていることも含めて、コロナウィルスの猛威ということを忘れてしまいそうになるほど気持ちが上向きになる。接触しないという「バブル」の基本は、選手団がウィルスを持ち込むというより、こちらの市民と交流してウィルスを感染させてしまうことも憂慮している。だが、市長や市民の方は、まず、自分たちが感染源とは考えない。同じ太田市にいて、同じ空気を吸っているのであれば、「わたしたちと同じ」と「お・も・て・な・し」の心が揺さぶられる。練習試合を予定していたクラブチームとの練習試合が行われた。また同じく大学のチームが「14日間を経て後に・・・」と、当初の(6日間後の)予定の変更を求めたのは、上出来だ。気持ちの上では、「14日間を経れば、市民との交流もいいんじゃないか」という意見さえ、出かねない。

 つまり、「お・も・て・な・し」の心は、状況論的に移り変わる私たち自身の気分に違和感さえなければ、むしろ交流を促進し、「せっかく来てくれているのだから・・・」といろいろなことに便宜を図り、希望に応えるのを旨とする。それが、今回の太田市長の発言に現れている。

 それだけではない。読売新聞の世論調査によると、オリンピックの実施に賛成と反対の数が、大きく変わり始めている。6割近かった「反対」が40%代に減った。変わって「条件付き賛成」が増えている。これも状況論的な心持のせいだ。

  まず、外国の選手団がやってくる。国内の選手たちの活躍が(目前の五輪を目指して)ヒートアップする。TV番組や新聞紙面を飾る。となると、その選手たちに感情移入して、活躍する姿を見たいというのが、「状況論的心持ち」の弱い所なのだ。

 コマーシャルを請け負っている電通なども、それを承知しているからどこで何を使ってどう宣伝して行けば「世論」を動かすことができるか、文字通り陰謀論的に計算して推し進めているに違いない。「世論」を味方につけてそれを乗り越えなければ、ディレクターの日給が35万円というべらぼうな契約書が、後日明らかにモンダイになる。そうすると、それ以上に請け負って下請けに渡す仲介だけで10%、20%という仲介料をとっていることも、たぶん改めてモンダイになるであろう。すべて税金だよってことで、担当部署は非難にさらされる。

 「世論」の気分が変わることに、政権の浮沈がかかるとなると、何をするのか目標が明確になる。となると、何としてでもごり押しする方法を知っているのが、いまの内閣。さらに「解散と総選挙」がかかっているから、いわば、オリンピックは総力戦となる。

 さて、どうしてくれるのだろう。こちとら、ワクチンもまだ済まないままで、文字通り成り行きを見守っている。だって、それしか術がないんだもの。

2021年6月7日月曜日

青山文平の「武士」の幻影と原点

 このところ青山文平の作品をいくつか続けて読んだ。『江戸染まぬ』(文藝春秋、2020年)、『跳ぶ男』(文藝春秋、2019年)、『遠縁の女』(文藝春秋、2017年)、『半席』(新潮社、2016年)、『励み場』(角川春樹事務所、2016年)、『つまをめとらば』(文藝春秋、2015年)、『鬼はもとより』(徳間書店、2014年)、『白樫の樹の下で』(文藝春秋、2011年)。

 江戸の戦の無い時代の侍の苦悩に焦点を合わせる。取り扱う主題は、「武士」ってなんだ? 「わたし」は誰だ? 

 そこを軸として、江戸の時代の百姓や町人、女や素浪人の立ち位置へ思いを及ぼす。戦闘をもっぱらとすることによって百姓や町人たちの賄いを受けていた(はずの)武士が、戦の無い時代に何を矜持として生きていくか。なぜ、百姓や町人たちに先んじて収穫物を手にする立ち位置を保つことができるのか、それがこの作家の描く侍の問いかけとなる。

 それは、時代を換えていえば、すでに時代遅れになった「武士」という概念にしがみついて特権を振り回している人の実在が何によって支えられているかを自問自答する姿でもある。そうそう、公務員がなぜ税金から給料をもらえるのかも、自問自答してもらうようなものだが、いまのご時世、単なる商品の交換関係と思われているから、江戸の時代の「身分」制と同じセンスなのかもしれない。

 もうひとつついでに飛び越して言えば、すでに社会的にわが時代を終えた年寄りが、何を矜持として振る舞うことができるかという問いかけでもある。そう考えると、自問自答しているのは「わたし」であり、青山文平の描く武士の姿は、すなわち「わたし」の現在と言える。

 でもなあ、そう言うと、答えに行きつけるかどうか、逡巡してしまう。なぜなら、青山文平の描き出す「武士」は、死ぬことと見つけたりという「覚悟」を根柢に抱えて、振る舞う。

 つまり「武士」としての原点を見出すことによって、かろうじて百姓や町人に拮抗しているからだ。つねに死に場所を探る。腹を切るでもよいが、果し合いでもよい。あるいは、何かの拍子に斬りあうことになって、相手を切り殺したがゆえに腹を切るでもよい。あるいは、相手に切り殺されるために剣術の腕を磨き、あわよくば強い相手に巡り合って切り殺されることを期待する。

 他方で時代は移り変わり、町人が剣術を習おうとする。「武士」の身分を売り買いすることも流行り始める。武家も内緒が苦しくなって、養子縁組が金銭関係に変換されたりする。その世相の中の「武士」が、果たして原点を保つことができるかどうか。

 今風にいうと、「生-政治」が生きつづけることを当然としているとすることによって、「死ぬこと」を原点とする高齢者が「覚悟」を定め兼ねる逡巡につながる。ただひとつ、コロナウィルスの時代になって、高齢者ほど「死ぬことと見つける」ことが当然となった時代の風潮。その流行に乗って「覚悟」を決めるなんて、なんだか「覚悟」も原点を離れて彷徨ってるんだね。

 さて、今の時代に原点に戻って、剣術の腕を磨くとは、何をすることであろうか。斬りあう相手をみつけるとは、何をどうすることなのか。そこで果し合いをして、幸いにも切り殺されるには、どういう場面をイメージできるだろうか。そう考えていると、今の時代、死ぬことの困難さをいやというほど思い知らされる。

 結局行きつくところは、『励み場』の主人公に重なる。己の(偶然にも)おかれた社会的立場を保つ(自分なりの)役割を見出し、そこに「命がけで」身を投ずる。そうか、それを「投企」と言えば、実存主義に通じる。己自身の「正しさ」に身を投じる。つまり社会的な「正義」が消え失せて、「正義」もまた、個々一人一人の内心に保たれるだけのものになってしまった。トランプ現象とも言えようか。

 その「己自身の正しさ」に、ある種の社会性を認めようとするのは、幻影を追うような所業なのか。そうやって考えてみると、今も江戸の時代も、そう変わりはないのかもしれない。

2021年6月6日日曜日

哲学を欠いた妙な文書

 知り合いから妙な文書が送られてきた。pdf形式で添付してある。『intelligense.text・・・』とファイル名がついている。ずいぶんの分量がある。今月のテーマ、「2021 年の世界情勢、バイデン新政権誕生とコロナワクチンの裏側」とお題目を掲げて60ページを超える。だがこれが、ざっと目を通すと、なんとも眉唾物なのだ。

 冒頭、1月のトランプ支持者の議会乱入の裏側を取り上げている。トランプ支持者は静かに議会に入ったのだが、それを暴動へと煽りけしかけた極左の連中がいたという噂話。暴動を放置して取り締まろうとしなかった議会の警備警官たちもグルになっていたような書き方。ペロシ下院議長の盗まれたパソコンには中国などと陰謀を企んでいた形跡があった。選挙の不法なやり口を告発したけど、取り合わなかった州当局の不公正。それらを事例をあげながら取り出している。

 妙というのは、その記事のどこにも、トランプが「議会に行こう」と繰り返し呼びかけたことには触れていない。つまり、トランプ支持者は静穏に議会に注目していただけなのに、それを利用して暴動に走らせた左翼がいたという図式だ。

 眉唾というのは、スターリンやトロツキーのやり口が事例に引き出され、それが民主党の左派に受け継がれていると思わせようとする文脈。いまはバイデン大統領だが、そのうち彼の退陣を引き金にして副大統領のカマラ・ハリスが主導権をとるだろうとか。あるいは、ネオコンにはかつてのトロツキストが身を変えて所属しているという周知のデータを力説。でもそれって、共和党のブッシュ政権への批判ではないのか。つまり、共和党も民主党もなく、トランプ支持者がいろいろな伝聞を都合よく集約して、検証なしに伝えようとしている気配に満ちた流言飛語だ。

 ふ~んと読みながら、でも私は、流言飛語だから嫌いというわけじゃない。そもそも私たち庶民は、耳にし目にする「情報」を検証しようもない。つまるところ、自分の好みに合った「情報」を真実と受け取って「せかい」を理解するしかない。つまり流言飛語的に、情報処理をしているのだ。

 そのときひとつ確かなコトと考えているのは、私は私の好みを鵜のみにしない。それを受け容れたがっている自分を対象化して、自分の感性の根拠を確かめてみる。つまり、自省し内省する心構えこそが、唯一の「情報」チェック装置という訳だ。

 じつはこの、私の知り合いという人が、それなりに製造産業の社会の尖端を担ってきた方。たぶん仕事を引退して後は、「○○社長会」のような名士の会にも属して、「勉強会」を続けておられると聞いている。宇宙論や素粒子論にも造詣が深い、理化学系のインテリとして、私もお付き合いしてきている。その彼が、こんな眉唾物の「情報」を添付してきたというのは、たぶん、彼の所属する「勉強会」の名士たちのあいだに、このような「情報」が出回っているのであろう。

 こうもいえようか。日本社会の製造業関係を担ってきた(いわば功成り名遂げた)名士と言われる方々が、こういう眉唾物を読んで、世界をとらえているということだ。邪悪なたくらみを持つ者がいて、それによって世界が振り回されているという陰謀論を素直に信じているナイーブさを感じる。これは、単発的な「情報の欠片」に振り回されて、世界全体の構造やその場における人の振る舞いを、わが世界のこととして受けとめる姿勢を持っていない。敵はつねに外からやってくる。そして私を苦しめるという図柄とでもいおうか。ひょっとすると実業世界の方々は、そういう陰謀論世界を生き抜いてきたのかもしれない。かつて松下幸之助に象徴される経営者の視線とは、まったく違う領域になってしまったのかもしれない。

 それが、今風な風潮なのか、情報化時代の、溢れかえる事象を構造的にとらえる哲学を持たないゆえの結果なのかわからない。だが民主主義政体を、まだマシと思っている私などにとっては、トランプが引っぺがした擬制の傷跡が、いまだ血を垂れ流してかさぶたすらできていない証のように見える。

 トランプ以前に日本もすでに「分断的であった」と、安倍政権に触れて以前にも書いてきた。その根底に、世界の認識に関する大きな「頽落」がある。断片化していて、それに一向に頓着しない横紙破りの主張が横行している。歴史的文脈も、社会的構造も、そっちのけにして、情報の断片だけを選り好みして受け取り、自分好みの「せかい」を構築する、そういう認識作法が広く行きわたっているようにみえることが、一番のモンダイだと思えるのである。 

2021年6月4日金曜日

こちらも、「何を説明しろっていうの?」

 先日書いた大坂なおみと逆の立ち位置で、「何を説明しろっていうの?」と思っている人がいる。菅首相だ。もしこの記者会見を見世物・興行だとすると、全仏オープン同様に劇場型である。大坂なおみとの違いは、菅首相は主催者であり、かつプレーヤーだということ。そして多分菅首相も、記者会見で「何を説明しろっていうの?」と思っているに違いない。

 とうとう国会の場で、身内であるはずの専門家会議の尾身座長からも「オリンピックを今開催する意義とかを説明する必要がある」とせっつかれた。そして出て来た回答が「平和の祭典」だと。ほとんどジョークのような返答である。

 オリンピック実施に関するコロナウィルス対応の彼のワン・パターンの応答は、政府に対する信頼を落とすだけでなく、オリンピックに対する協賛の気分をも損なっていると、メディアは手厳しい。菅首相は、「国民の安全安心を第一として進める」と決まり文句をくり返すばかり。何をどうやって「安全・安心」を担保するのかを説明すればいいのに、それをしないで、ワン・パターンの回答を口にするだけだから、請負仕事をやむなく進める企業幹部のようだとみている方は口性がない。

 だが、そうか。そうではなく、菅首相にとっては、これ以上何を言えばいいのか、わからない。つまり、「安全・安心」にオリンピックを遂行するのを引き受けているわけであるから、それをやりますと言っているのが、何が悪い。子細を聞いて素人である一般大衆に何がわかる。だいたい、これこれをどうやって行くから大丈夫などと細部を説明しても、それがそのまま受け止められるわけでもない。具体的に言えば言うほど、さらに具体的に求められる。泥沼に踏み込むようなものだ。だいたい具体的に言えば言うほど、ものごとはつまらなくみえるものだ。

 メディアは、想定問答をしていればいいのだろう。だが政府は、実務のバックアップ部隊だ。具体的なやり方は、諸処の実行部隊に委ねている。全体の統括というのは、漠たるものにみえるだろうが、それはそういうものなんだよ。何を説明しろというのかと、たぶん、不満たらたらであるに違いない。

 つまり、菅首相は、いまのオリンピックにかかわる政府の立ち位置を実務型の実行部隊と考えている。記者会見が劇場型のステージだということもわかっていない。ただ単に実務家として引き受けて望んでいるにすぎないから、メディアが何を求めているか理解できないというか、興味本位で突っ込んでくるメディアの関心に付き合うのも、いい加減にしたいと思っているのだ。もう少し視界を広げていえば、菅首相は、その記者会見が自らの「権力」の基盤形成につながっているとは思いもよらないに違いない。民主主義におけるメディアの位置を、政府から伝える一方通行の通信装置と考えているのかもしれない。情報化社会がどういうものかもわかっていない。

 ただひとつ、政府の「バブル方式」に関するメディアの報道に、オモシロイ外野の発言があった。どこかの居酒屋さんが「オリンピックでできるのなら、街の居酒屋にもバブル方式を採用して、営業再開にすればいいのに」と小さい地域割りを想定していると思われる感想をポロリと漏らしていた。

 本当にそう思う。「山梨方式」と言われたやり方がこれに近い(と思う)のだが、こういう発言を拾って、小さい地域割りをどう考えるか、バブル方式のバブルの中と外との「安心・安全な」関わり方をどうやるのかとすすめていけば、民主主義的にすすめるコロナウィルス対策として、一気に菅人気は上がるだろうにと、思った。

 つまるところ、政府の宰相であるという立ち位置を菅首相は見誤っていると思う。IOCという主催者が中心にいて、その指示に基づいてオリンピックの開催が決せられると考えると、日本政府は、単なる実行部隊の「共助」的な一機関に過ぎない。そのように考えている日本の首相は、いわば戦艦の艦長という下士官、将校はIOCなのだ。そう受けとめているとすると、オリンピックって、喜んで引き受ける筋のものかどうか。何億円もの運動費を使って「お・も・て・な・し」などと言っていたのが、なんともわびしく見える。

 これって、今の世界における日本の姿じゃいのか。そう感じられて、やりきれない。

2021年6月3日木曜日

退院ひと月の変化

 退院してひと月。回復傾向は間違いない。

 リハビリにも通っている。その一回の治療は短時間だが、その都度、間違いなく右肩の張りはほぐれ、首筋の窮屈さはやわらかくなっている。確かに一進一退という気配はある。だが、日々を大きく超えて傾向をとらえると、右腕は良く動くようになっているし、力も出ている。

 なにより、夜中によく眠れるようになった。3時間か4時間半を続けて寝ている。夜中に目を覚ましてトイレに行くこともあるし、すぐまた寝入ってしまうこともある。この変化が気分的にも一番うれしいし、回復している実感につながっている。

 先ず体重が増えてきた。4㌔落ちていた体重が、5週間でなんとか元の体重に復した。体重計が表示している「やせ」の表示が、相変わらずなのが良く分からないが。何となくだが、最後の1㌔が境界値にあるように感じる。ひょっとすると、入院前の体重は、決して山用の「蓄え」だったのではなく、ほぼ標準だったということなのか。体脂肪の増減が「やせ」につながっているのか。

 しかし、体力が戻らない。歩くと50分ほどで肩の張りが強くなる。リュックを背負っているからだとカミサンは言うが、そうではない。右腕が重いのだ。それをぶら下げたままの姿勢が腕の付け根、つまり肩の張りにつながり、窮屈になる。首筋の張りになり、思うように回らなくなる。どうもそれが、体力全般に作用しているように感じる。ここが戻らないと、長い時間歩けない。一万歩も歩くと、どこかに座ってひと休みしたくなる。

 リハビリの回復感と体力の無さとの乖離を、どう繋げて理解したらいいのかわからない。一日のうちの身の変化だと今は考えて、一進一退と表現しているが、ほんとうにそうなのかどうか、わからない。回復に半年かかるというリハビリ士の言葉に信を置くほかないのかもしれない。それほどに、身というものが不可思議なつくりをしていると思うばかりである。

 指の動きは、ほぼ旧に復した。右第二指と左第二指の付け根に感じるピリピリ感だけは、変わらず残っている。神経への頸椎変形がもたらす圧迫が、変わらず残っている信号と受け止めているが、水をつけるだけで痛みが走ったころと比べると、格段に我慢しやすくなった。パソコンを扱えるのが気休めになっている。ただ長時間パソコンに向かっていると首筋にしこりが生まれるから、ほどほどにしている。ついつい夢中になって時間が長くなると、首が回らなくなる。まるで借金みたいに(私に)取付いているようだ。

2021年6月2日水曜日

自立と自律

「自分のことを自分でやるというのが、生きていく基本」と記しました(5/29)。どうして、自分のことを自分でやることが基本なのでしょう。

 それは人が、他の人に依存しないでは生きていけない存在だからです。子どもが一人前になるまで親に依存するほかないことは、いうまでもありません。しかし一人前になっても、他の人たちのつくったものを、自分の作ったものと交換して手に入れて暮らしています。互いに依存して生きていく場が人間の社会です。

 互いに依存するというのは、自分のことを自分一人で決めることができない立場です。私の食べ物をつくっている方が病気や事故で作れなくなったために私が飢えて死ぬというのは、困ったことです。同様に自分がつくっているものが、何かの理由でつくれなくなって他の方の暮らしが行き詰るというのも、困ったことです。それを避けるためには、社会のどなたもが、それなりに暮らしを立てて行っていなければなりません。自分だけが良くても、他の方々がうまくないのでは社会は成り立たない。まず自分がしっかり自立すること。同様に、ほかの方々がしっかり自立していることも必要です。つまり、自立というのは、社会的に成り立っている。

 依存しているがゆえに自立することが大切になる。その感覚が、人と人との間という人間の基本センスなのかもしれません。大きな社会のポツンと一人暮らしである個人としては、暮らしの全体としてはお客様として過ごすしかないから、基本部分は(できるだけ)自立することを志す。

 では、自律ってなんだ? 自分で決めること。何をどうするかを、自分で判断すること。自分の意思。自律する意思を他人に左右されたくない。でも、社会的に位置する自分の立場というのは、社会的に「期待される自分のイメージ」。それって、本当に自分の意思なの? そう考えると、どこかでそう思いこまされているってことも、ありうる。生まれ育ってくる間に見聞きし、そういう役割を担う人が必要と思いこんだ可能性は、ないとはいえない。これも、社会的意思の欠片(かけら)のひとつかもしれない。

 ひょっとすると、純粋に自分の意思というのは、ないのかもしれない。だとすると、「わたし」という個人に降り積もって堆積してきた「社会的意思の欠片」が、自分の意思として現れてくるのかもしれない。人類史の一端が「わたし」の体を借りて現れている。それが自律だと思えば、わが身が体現した社会的意思。悪い響きではありませんね。

2021年6月1日火曜日

何を説明しろっていうの?

 今朝のロイター電をみて驚いた。大坂なおみが全仏オープンを途中棄権するという。さらに「うつ病に悩まされてきた」とも告白している。

 昨夜、じつは、以下のように書いて、今日のアップに備えていた。

                                            *

 テニスの大坂なおみが全仏テニスの試合後の記者会見を断ったことが非難を浴びている。プロテニス選手たちから浴びせられる非難は、「自分がここにいるのは記者会見のお陰でもある」という論調。つまり全仏オープンという劇場型のステージに立ってこその「わたし」を自覚しなさいよと、若い大坂選手を諭すような響きがある。主催者はもう少し居丈高に、記者会見を拒否するなら選手資格を抹消すると拳を振り上げた。それを伝えるマス・メディアは、自らの立ち位置もあるから、どっちつかずで番組は落ち着かない。

 だが大坂選手の言い分を勝手に敷衍するなら、ゲームに集中する選手にとっては、記者会見で神経がピリピリするのは堪らない、と言いたいようである。アスリート・ファーストなどと言っているメディアとしてはそれを忖度しないわけにはいかない。

 だがメディアに登場する(過去にそれなりに実績を持っている)アスリートたちは、劇場型のスポーツ競技であることを否定するわけにはいかない。だから大阪選手に苦言を呈する。そうして「記者会見を拒否するんじゃなくて、記者会見の場でそのことを堂々と主張するべきだ」とけしかける。そりゃあ、外野としてはそれは面白いだろう。だが当の選手にとっては、傷口に塩を擦りこむように痛々しく感じられるんじゃないかと、私は思った。

 プロかアマチュアかということはさておいて、大坂選手の神経ピリピリというのが、私には良く分かる気がする。わかるというよりも、そうか、そういうレベルで彼女は戦っているんだと感じ入っている。そのナイーブさが、記者会見拒否という態度にも表れている。

 しかしテニスの全仏オープンは、主催者からすると興行である。見世物なのだ。当然記者会見というメディアの場面は、ショウ・アップとしても欠かせない。錦織圭がいうように、多額の賞金を受け取ってもいる。主催者からすると、アスリート商品として選手が「記者会見」で「なぜ負けたか」を問われ、涙ながらに自己告白する姿は、最大の見せ場と言ってもいい。勝ったいいときだけのメディア出演では、いいとこどりじゃないかというわけだ。選手たちの反応には、その忸怩たる思いが込められているように感じる。

 でも、ま、大坂のナイーブな振る舞いもいいじゃないかと、私は外野からみている。

                                            *

 昨夜までは外野で、私は「何を説明しろっていうの?」と気取って喋々していた。たぶん大会主催者やメディアもそれに乗るコメンテータも同じ気分だったのかもしれない。それを大坂選手は(やはりナイーブにも)率直に説明した。

「うつ病に悩まされてきた」と。

 さてそうなると、風向きが変わる。まず(昨日このブログで取り上げた)、與那覇潤と斉藤環との対談『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮選書、2020年)を読み直したくなる。つまり「うつ病になると、テニスをやってはいけないの?」という問題になる。これは、病に関するBLMである。まさしく大坂選手の出番ではないか。もしこれを知ってなお、テニスの4大大会主催者が「罰金と出場停止」の措置を検討し直さないとしたら、それこそ、新たなBLMとしてメディアはとりあげるモンダイではないか。

 ここには、劇場型のスポーツイベントと病という絡みをどうとらえるかというモンダイが見え隠れしている。精神科医の斉藤環は、人間概念をあらかじめ設えてそれに適合するかどうかで判断すると病は治らないと診たてている。一つひとつ、そのケースに応じて聴き取り、うつ状態からの離脱を図るほかないというのである。

 記者会見拒否は、大坂選手の、その具体的な処方箋の一つであったと言ってもいいかもしれない。

 驚くと同時に「うつ病に悩まされてきた」と公表した大坂選手のオープンさを、私は率直に受けとめたい。そこには(ナイーブという批判を浴びてもなお)、BKMを受けとめるのと同じように、地に足をつけてそこからモンダイを見つめようとする人としての清冽さが見てとれる。

 それでもなお、それをイベントとしてみている私たちは、排除して済ませるのか。今まさに警察官に首根っこを押さえつけられて、苦しいよおと(大坂選手が)声をあげている事態と感じる。

 大会主催者と、それにまつわるメディアと、さらにそれを楽しもうとしている私たち視聴者に問いかけられている。