2021年6月9日水曜日

デジタルの臨界点

 デジタル化社会がすっかり出来上がったら、AIに人は邪魔にされてしまうんじゃないかと問題提起したのが、シンギュラリティ。AIが人智を越える技術的特異点。2045年に訪れるとレイ・カーツワイルが予言した。だがそれは、AIが人の知能の模倣をしていると想定したうえでの話であった。果たしてAIは人の知能の模倣をしているのか。

 昨日の記事を記していて、ひとつ気づいたこと。

 世論を味方につけて五輪関係者や政権が、いい加減な運営状況を乗り切ろうとしていること。そのとき「世論」とされるのは、新聞社やTV局が(どこかの調査機関に委託して)行っている「世論調査」。ときどき、電話がかかってくる。機会音で「世論調査です。これからの質問にお答えください」と断ってつづく。私はたいていその初発の音を聞いて電話を切るから一度も協力したことはないが、「世論調査」というのは眉唾物だと思っている。

 五輪に関して「状況適応的」と「世論」を批判したが、じつは設問者が操作したい「世論的結論」にそぐうように問いかけをつくっている。先に上げた読売新聞の「五輪に関する世論調査」も、「条件付き賛成/反対」と分けて、「どちらともいえない」とか「わからない」を取り払っているから、「無観客なら/観客を削減すれば」が増えている。つまりコロナ感染の広まりとの関連を断ち切る設問をする手法に、すでに調査者の「人間要素」が組みこまれている。

 デジタルのアルゴリズム(展開手法)というのが、じつはすでに「人間要素」を(知ってか知らでか)組みこんでしまっていることが、アルゴリズムの先に展開する世界の「乏しさ」に現れてくる。「乏しさ」と呼ぶのは、私のイメージ枠内に収まってしまう貧弱さを意味している。

 例えば、子どもの振る舞いが単純素朴なものだと考えていると、絵本も遊具も制作者である大人のイメージの枠を超えることがない。ところが子どもは、どんな遊具にせよ、絵本にせよ、自分のイメージ世界に取り込んで(なにがしかの混沌を通過させた文脈において)「気ままに遊ぶ/あるいは遊ばない」。何かわからないが絵本を見て、低いうなり声をあげながら一人遊びをしている孫をみて、そう思った。

 しかしその、意に沿わない「振舞い」に大人は、ADHD(発達障害)などと名をつけて病気扱いする。「病気」となると、大人にとって「不可解な振舞い」も、(異常なこととして)それらしく納得できてしまうから(大人は)安心するってわけだ。だがその時点で、子どもの「不可解な振舞い」は捨て置かれ、「人間論」の俎上に上がることはない。

 ここが、デジタルの臨界点ではないか。それをデジタルの側に思考主体を移して読み取ろうとしたのが、若い数学者・森田真生の「数学する身体」(『新潮』2013年9月号)であった。

 ヒトの技術的レベルではノイズとされる「論理ブロック」が、(なぜかわからないけれども)AIの処理の中では使われて、それなしでは機能しない結果になったという「謎」だ。ここには、ヒトの側からの「論理」とは異なる筋道をAIがとっていると考えられる。だから逆にいうと、ヒトはそう容易にAIを、人と同じように見なしてはいけないという教訓でもある。ヒトとの関係的にAIは配置されるべきだという視線から言うと、デジタルの臨界点である。

 ヒトがデジタルに適応するように振る舞うのが現代だとしたら、それはヒトを飼いならして平板化することにほかならない。AIを飼いならしてヒト化するロボット工学が、なんとも逆説的な結果を招いてしまおうとしている。

 でも、お役所仕事は直観的にそれに逆らっているのだろうか。デジタルに適応できないで、右往左往している(笑)。

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