今朝のロイター電をみて驚いた。大坂なおみが全仏オープンを途中棄権するという。さらに「うつ病に悩まされてきた」とも告白している。
昨夜、じつは、以下のように書いて、今日のアップに備えていた。
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テニスの大坂なおみが全仏テニスの試合後の記者会見を断ったことが非難を浴びている。プロテニス選手たちから浴びせられる非難は、「自分がここにいるのは記者会見のお陰でもある」という論調。つまり全仏オープンという劇場型のステージに立ってこその「わたし」を自覚しなさいよと、若い大坂選手を諭すような響きがある。主催者はもう少し居丈高に、記者会見を拒否するなら選手資格を抹消すると拳を振り上げた。それを伝えるマス・メディアは、自らの立ち位置もあるから、どっちつかずで番組は落ち着かない。
だが大坂選手の言い分を勝手に敷衍するなら、ゲームに集中する選手にとっては、記者会見で神経がピリピリするのは堪らない、と言いたいようである。アスリート・ファーストなどと言っているメディアとしてはそれを忖度しないわけにはいかない。
だがメディアに登場する(過去にそれなりに実績を持っている)アスリートたちは、劇場型のスポーツ競技であることを否定するわけにはいかない。だから大阪選手に苦言を呈する。そうして「記者会見を拒否するんじゃなくて、記者会見の場でそのことを堂々と主張するべきだ」とけしかける。そりゃあ、外野としてはそれは面白いだろう。だが当の選手にとっては、傷口に塩を擦りこむように痛々しく感じられるんじゃないかと、私は思った。
プロかアマチュアかということはさておいて、大坂選手の神経ピリピリというのが、私には良く分かる気がする。わかるというよりも、そうか、そういうレベルで彼女は戦っているんだと感じ入っている。そのナイーブさが、記者会見拒否という態度にも表れている。
しかしテニスの全仏オープンは、主催者からすると興行である。見世物なのだ。当然記者会見というメディアの場面は、ショウ・アップとしても欠かせない。錦織圭がいうように、多額の賞金を受け取ってもいる。主催者からすると、アスリート商品として選手が「記者会見」で「なぜ負けたか」を問われ、涙ながらに自己告白する姿は、最大の見せ場と言ってもいい。勝ったいいときだけのメディア出演では、いいとこどりじゃないかというわけだ。選手たちの反応には、その忸怩たる思いが込められているように感じる。
でも、ま、大坂のナイーブな振る舞いもいいじゃないかと、私は外野からみている。
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昨夜までは外野で、私は「何を説明しろっていうの?」と気取って喋々していた。たぶん大会主催者やメディアもそれに乗るコメンテータも同じ気分だったのかもしれない。それを大坂選手は(やはりナイーブにも)率直に説明した。
「うつ病に悩まされてきた」と。
さてそうなると、風向きが変わる。まず(昨日このブログで取り上げた)、與那覇潤と斉藤環との対談『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮選書、2020年)を読み直したくなる。つまり「うつ病になると、テニスをやってはいけないの?」という問題になる。これは、病に関するBLMである。まさしく大坂選手の出番ではないか。もしこれを知ってなお、テニスの4大大会主催者が「罰金と出場停止」の措置を検討し直さないとしたら、それこそ、新たなBLMとしてメディアはとりあげるモンダイではないか。
ここには、劇場型のスポーツイベントと病という絡みをどうとらえるかというモンダイが見え隠れしている。精神科医の斉藤環は、人間概念をあらかじめ設えてそれに適合するかどうかで判断すると病は治らないと診たてている。一つひとつ、そのケースに応じて聴き取り、うつ状態からの離脱を図るほかないというのである。
記者会見拒否は、大坂選手の、その具体的な処方箋の一つであったと言ってもいいかもしれない。
驚くと同時に「うつ病に悩まされてきた」と公表した大坂選手のオープンさを、私は率直に受けとめたい。そこには(ナイーブという批判を浴びてもなお)、BKMを受けとめるのと同じように、地に足をつけてそこからモンダイを見つめようとする人としての清冽さが見てとれる。
それでもなお、それをイベントとしてみている私たちは、排除して済ませるのか。今まさに警察官に首根っこを押さえつけられて、苦しいよおと(大坂選手が)声をあげている事態と感じる。
大会主催者と、それにまつわるメディアと、さらにそれを楽しもうとしている私たち視聴者に問いかけられている。
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