カート・アンダーセン『ファンタジーランド狂気と幻想のアメリカ500年史』の「第4部 狂気と幻想のビッグバン(1960~1970)」は、トランプが登場する素地が、その半世紀も前に合衆国では出来上がっていたことを子細に描いています。しかもその登場が、アメリカ国民の単なる気まぐれではなく、建国当時からの気質によるものという物語とともに提出されています。
いつだったか、どこかで河合隼雄が、ある婦人とのやりとりを喋っていたことを思い出した。そのご婦人が交通事故で友人がなくなった夢をみたが、そのときその友人が実際に交通事故で亡くなっていたと話し、「こういうことってあるんでしょうか」と河合に問いかけたとき河合が、「そういうことがあったっていうんですから、あったんでしょ」と応じたということだ。つまり「事実」は事実、それが「物語り」として成立するかどうかは、また別のモンダイとあしらった話として聞いていました。
だが、1960~1970年代にアメリカで起こったことは、「事実」とその「事実」の関係を述べる「物語り」との区別も行われなくなり、ありとあらゆる価値が相対化されていく言説と相まって、当人がそう信じることができればそれは「現実」という、妄想と現実との区別がつけられなくなるほどの「狂気と幻想のビッグバン」が起こったというのである。
「偽物と本物の融合」「西部開拓時代の戦闘を再現するドラマのようなイベント」「フィクションが日常に入り込む」「アメリカをディズニーランドにする」「ギャンブルとセックス――急増する幻想・産業複合体」という小見出しを掲げて、1960~1970年代に進行した都市と郊外の変容を書き留める。そうして、SF作家のフィリップ・K・ディックの言葉(1970年代)を引用して、現実と非現実とが区別できなくなっていくアメリカ社会への不安を、次のように言う。
《……現実とは何かを定義すること、それは大切な問題であり、死活的に重要な問題でさえあると思う。その中には、本物の人間とは何かという問題も含まれる。なぜなら、まがい物の現実が無数に提供されることで、次から次へと、本物でない人間、偽の人間が生まれている…。それは、四方八方から迫りくる偽のデータと変わらない。……偽の現実は、偽の人間を生む。偽の人間は偽の現実をつくり、それをほかの人間に売り、その人間を偽の人間に変える。その結果、偽の人間が、他の偽の人間に売りあるくことになる。これはいわば、きわめて大掛かりなディズニーランドである》
そして半世紀たった今、きわめて大掛かりなディズニーランドは世界大に広がり、他の国々の指導者をも、産業関係者をも、「偽の人間」にかえて行ったのである。
いまや「どちらが偽の人間か」さえ問われているのであるが、そこであなたは、河合隼雄の「事実でしょ」というやりとりから、何を教訓として引き出すでしょうか。あるいは、それをベースに、「偽の人間」「本物の人間」の区別をどうつけるということができるでしょうか。
何だかカート・アンダーセンの下巻を読まなくても、いま立たされている「せかい」が読み取れるように感じています。こういう、「幻想」の変遷に照準を当てたアメリカ史を読んでこなかっただけに、その写し絵のような日本の移り変わりをどうとらえたものか、立ち止まって戸惑っています。
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