2021年6月26日土曜日

コロナウィルスの声を聴け

 緊急事態宣言の解除を嗤うかのように感染者数が増え始め、五輪実施に挑戦するように、コロナウィルスの勢いは、増している。とうとう都知事も(都議選がらみかもしれないが)ダウンしてしまった。「人流を抑えて」と都知事はいうが、そもそも東京が人流を抑えるような成り立ちをしていない。人が密集しすぎている。そこへ踏み込まない限り、いくら都知事が「人流を止めて」と呼びかけても、当面の弥縫策を訴えているだけになる。聴いてる方は、現実的ではないと受け止める。為政者には、到達目標を提示して、そこへ至る道筋に具体的な手当てをすることが期待されているのに、目前の(漠然とした)対応を促すだけでは、現実性があるとは感じられないからだ。

 昨日(6/25)どこのTV番組であったか、「ワクチン接種の世界の様子」を放送していた。ベルギーだかオランダだったか、感染状況の変化と「規制」の強弱を3段階に分け、営業やイベントや振る舞いの必要を一覧表にして市民に配ることをしていた。一枚のペーパーにびっしりとその段階表が記されている。そう言えば日本も、似たような施策を行っているはずだが、TVの画面でそれをみるだけで、市民に配られるようなかたちになっていない。まずそこに、行政と市民との「齟齬」がある。行政の自信の無さとも言えるし、「朝令暮改」の布石とも受け取れる。事実4段階のステージも、「感染状況」から「重症者数」へ指標を移して厚い面の皮を曝している。

 自信のなさというのは、たぶん、行政の策定段階に応じて提示する施策の次元が異なることを意識していないからではないか。中央政府がすべてを取り仕切って、地方政府の採るべき施策の一つひとつまで統制しているというセンスが、すでにして、このコロナウィルスに対応するにはふさわしくないのではないか。そのレエベルの違いを意識していないから、都と中央政府の「齟齬」も、政治党派的対立にしかならない。

 地方政府の方にも、中央からの手当・指示がないことのせいにして、施策の進行を滞らせている姿が垣間見える。むろん行政システムの改善されるべき点が改められる必要もあるが、そもそもそのシステムを疑ってかかる姿勢が(中央の側にも地方の側にも)見当たらない。とどのつまり、不毛な責任の押し付け合いが表面化するばかりなのだ

 たとえば政府は、居酒屋の営業を展開するのに「山梨方式」を見出して得意げに吹聴していたが、それとても、山梨の人口とそれに見合った数の居酒屋だからこそ、「山梨方式」が成立するのだ。東京でやろうとしても、居酒屋の数が多すぎて、コロナ対策をしているかどうかチェックするなんてことも、何人人がいても足りなくなる。机上の空論なら、簡単に口にできるが、それを実施するとなると、手間暇と動かせる人の絶対数とを考えただけで、無理だとわかる。

 加えて、山梨ならばまだ、県知事の呼びかけや市町の首長が何を心配して「山梨方式」を取り入れようとしているかわかるくらいのコミュニティ性を、人々がもっている。その程度の気遣いが働く人間関係が日常のたたずまいに残っている。だが東京では、例えば神田の神保町や猿楽町、小川町の小さな居酒屋を考えてみてよ。常連さんだけでならまだしも、ほかの店が閉まっているからちょいとごめんよと入ってくる一見さんがいかに多いことか。その人たちに気遣いを求めても、読み取る空気が違う。端から期待できない。都会って、そういうつくりになってるんだよ。それを「山梨方式」って一緒にしても、うまくいくはずがない。

 地方政府も、中央政府からそれが提示されると、そのまま実施しようとしてすぐに暗礁に乗り上げる。手が足りないのだ。それは実施するまでもなく地元の居酒屋の実態を見ていれば、すぐにわかること。だのに、地方から「無茶を言うなよ」と声が上がることもない。手が足りないと(地方政府の責任とは言えないと)事実が明らかになったところで、取り組みは終わっている。どこを向いて仕事をしているのだと、現場を取り仕切ってきたものとしては、思う。

 それのどこが目詰まりしているかを、中央政府も地方政府も、その両者の間を取り持つ「関係」を論題として改善していこうと手を付ける方法が、存在しない。

 つまりここは、あの手この手を打っても構わず広がっていくコロナウィルスの、気随気ままの在り様に耳を傾けて、最初から出直すくらいの覚悟をもって都市設計からやり直した方がいい。いや、そうしなければ、根本からの解決策には向かわないと、素人論議ながら、私は考えるのだが、行政の関係者たちは、それは学者が提起してくれなければと考えているのだろうか、わがモンダイではないと言わんばかりに、知らぬ顔の半兵衛なのだ。それが市民からすると、もどかしい。「自助」の扶けにもならない情報公開では、「公助」も「共助」も、関係づけようがないのである。

 コロナウィルスへの対応をいろいろと聞くけれども、マスクと三密用心くらいしか自己防衛の仕方がわからない。行政の人たちもどう対応していいのかわからないのだろうとは思うが、それにしても、クラスター探しのやり方が通用しない感染状況になっても、他の感染経路を探り当てる方策も提起できないというのは、どういうことだろうと、無策ぶりに呆れている。感染症への対応戦略をどなたが描いて指揮しているのか、わからない。

 こう考えてくると、日本には、行政的にモノゴトをすすめていくものの考え方の経路(つまり、哲学)が、意識されていないのかもしれない。ことごとく、行き当たりばったり、いつも当面の仕事ばかりが思い浮かんで、その先が具体化していく段階で何がどう必要であり、何をどう進めておく必要があるかを考える視野が、ほんの一週間先のことにしか届いていない。一カ月先にはどういう事態になっているから何をどう策定する必要があるか、半年先には何が予想されるか、一年先はどうか、五年先にはなにがどうなっているか、そう考えて、施策というものは練るものではないか。

 そのとき結局、視界に収まっているのが、選挙だとか、派閥の力関係だとか、世論の動向という表面的な数値の移り変わりだけに焦点が合い、そのそこに流れている「事態」の推移が真剣に検討されていない。そんな感じが、行政全体に行きわたっているように思えて、がっかりしているのである。

 コロナウィルスの声を聴け、人類史に位置づけてと、大上段に構えたくなっているのだ。

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