江國香織『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』(朝日新聞出版、2014年)を手に取って、不思議な偶然に驚く。先日(6/17)に「太古のイメージ」で、動物と言葉を交わす人類学の記録を取り上げたばかりだった。
本書は、そのものずばり、ヤモリやカエルやシジミチョウと言葉を交わす幼い子の振る舞いが主旋律のように描かれる。むろん、普通に暮らしている人たちには、理解できない。わからない。子どもにだってわかる子もいれば、わからない大勢もいる。
だが大人は、それと気づかず「じねん」に振る舞うことはしている。ヒトの規範に縛られず、社会的関係にもとらわれず、わが身の思うがままに振る舞う大人の「じねん」は、動物と言葉を交わす幼子の「自然」センスが、人の世がつくりあげた身の裡の「じねん」に従うのと、どこが違うか。そう、本書全体を通じて、この作家は問うているようである。
つまり、こうも言い換えられようか。
人類学がとりあげたカナダ先住民の自然との一体性のセンスは、今や形を変えて、本性の趣くままに、現代社会の規範やシステムを潜り抜けて「じねん」に振る舞う人たちに体現されている、と。嗤うべきは、アンモラルに振る舞う「じねん」ではなく、ヒトを縛り付けている「イエ」や「カゾク」や「ヒトの文化」である。
でも、ね、と幼子はいうかもしれない。言葉を交わせるのは、「ヤモリ」であり「カエル」であり、二匹が絡まり合って飛び交う「シジミチョウ」である。「家守り」や「帰る」処を見失っては、人の世はつづかず、でも、「シジミチョウ」の恋を否定しては動物の命そのものがつづかない。「シジミチョウ」の産み落とす結果としての「ヤモリ」や「カエル」をどう保ちながら、「シジミチョウ」をつづけるか。そうう疑問をかかえたまま、ヒトの営みは営々と続けられていますね、と。
「じねん」を否定するでもなく、「ヤモリ」や「カエル」を、どうかたちを変えて保ち続けるか。それに対する一つの、答えを、作家・江國は用意している。それを明かしてしまうと、読む趣向を殺いでしまうから、ここでは明かさない。
だが、その答えとて、果たしてそのまま承認していいものかどうか、この作家も迷うところだ。そこのところを「ゆめ・まぼろし」のようにあしらって、すがすがしく終わるのが、いかにも大衆紙の新聞小説であった気配をとどめる。
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