言葉を綴ってモノを書き始めた学生のころ、「太初(はじめ)に言(ことば)ありき」を耳にした。そのとき、結局そこを出発点にするんだキリスト教も、と思った。つまり、神のことを語るのに、「ことば」がどのように発生したのかを問わないで、神が7日間かけてつくった「創世記」を語るわけにはいくまいにと考えていた。「聖書」ということで、「旧約」も「新約」も区別がついていなかった。
それが後に、新約聖書の「ヨハネによる福音書」の一節と知ったが、その言葉の後に「言は神なりき」と続いていると知り、バイブルの読み方ががらりと変わる気がした。
人が口にする「ことば」が「世界をつくった」と読み取れる。なんだ、人の言葉(の不思議)が切り分ける様々なコトゴトによって、「世界」がつくりだされていくってことではないか。それなら、子ども時代からの「わたし」にすると、自然なこと。つまり、「ことば」にすることによって、はじめて「せかい」は起ちあがる。そのようにして「せかい」がつくりだされ、「わたし」の胸中にかたちをもつようになったのは、実感的にも間違いがないことであった。
ヨハネによる福音書はさらに、次のように続ける。
「萬(よろず)の物これに由りて成り、成りたる物にひとつとしてこれに由らずして成りたるはなし」。
そのイメージを絵柄にした塑像にも出会った。カンボジアのアンコールワットやインドのヒンドゥ寺院にあった「乳海攪拌」と名づけられたヒンドゥ(仏教)の物語。混沌の海から人が綱引きをして、モノゴトを取り出してくる。「ことば」にする、つまり名づけることによって、大自然という「世界」から切り分けて取り出すのは、「分節化」すること。そうすることによって「意味の次元」へと引きだされてくる。「よろずの物は言葉によって成り、ひとつとしてこれに由らず成りたるはなし」と得心も行く。唯一神というキリスト教も多神教のヒンドゥや仏教の描く世界も、大自然の不可思議を似たように捉えている。「ことば」は人の表象世界を具現するクセだ。「ことば」にすることによって「せかい」は混沌から切り分けられ、「わたし」のなかに起ちあがる。まさしく創世記だ。
信仰や宗教的信条が、じつはヒトとその出会っている大自然の不可思議をふくめた由緒由来を物語り化したものなのだと受け止めることによって、「宗教」というものへの向き合い方も変わっていった。ただ、所与の大自然を「混沌の海」ととらえるヒンドゥは、乳海という母性に表象することによって是非善悪を越えた畏敬の念を押し立てている。他方、「暗黒」ととらえ、これを分節化することを「光」とみて、ヒトを「暗黒は之を悟らざりき」とみなす出立において、唯一神信仰は「ことば」を善悪二元論に押し込めていると感じる。
不可思議に対する向き合い方が逆立している。「言」の原語が「ロゴスlogos」だと知って、いかにもヨーロッパ的だと思った。
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