久坂部羊『生かさず、殺さず』(朝日新聞出版、2020年)を読む。医師であるこの作家は、認知症病棟の医療を取り上げている。いや正確には、いろいろな病気を患っている患者のうち、認知症を併発している患者を預かっている病棟。つまり、病を治してもらっているという認識もなければ、振る舞いが我が儘という人たちだから、医師も看護師もかかわり方のモチベーションに狂いが出てくる。仲間内の言葉は率直にもなり、また乱暴にもなる。それが医療関係者のホンネを曝していて好感が持てたり、逆に嫌悪感を誘発したりする。仲間内の振れ幅の大きさを表したりもする。当然、患者と医療の間に患者家族がかかわってきて、世話をする面倒と世話をしないが気遣いだけはしてきた「愛情」とが交錯し、ぶつかり、狭間に立った医療関係者は困惑してしまう。読み取るものとしては、自身の価値意識が剥き出しで引きずり出されているようで、読みながら、登場人物の料簡の狭さを嗤い、融通無碍な態度を訝しく思い、きっぱりと切って捨てる姿勢に第三者としての潔さを感じはするが恥ずかしくて、さながら身の裡の見本市のように物語は展開する。
困った問題は、最後のところで取りだされていると思った。標題の「生かさず、殺さず」という武家社会の武士たちが百姓に対して用いたことばが、じつは、「とことん搾り取る」という意味ではなく、「(世話をする)ぎりぎりの境界に手を入れる(にとどめる)」ことをもって、じつは患者(あるいは家族)の自活能力を保ち続けることを意味していると読み替える地点に至った時であった。
はて、そうか? そう思ったのだ。
確かに今の時代、認知症患者の(外のモノゴトがわからなくなっているが)いま自分が何をしでかしているかはわかっている(かもしれない)端境の領域の心情を大切にして、責めない、叱らない、黙って(やらかした)始末に手を貸す、という介護手法が称揚されている。だが、それは「生かさず、殺さず」のどちらの意味にしても、医療従事者と患者の優劣関係は変わらないのではないか。
ちょうどラテンアメリカの人類学者の考察を読んでいたこともあった。ヨーロッパ発の文化人類学において、ヨーロッパ文化の優位が変わらないことに引っかかった。エドゥアルト・ヴィヴェイロス・デ・カストロは、ヨーロッパの優位性を前提にした人類学が、ヨーロッパの人間観の優位性を絶対化した植民地主義的な(宗主国的な)人類学であることを(ヨーロッパ流のそこから入りながら)ぶち壊そうと、試みている。すると、人間の優位性という人間中心主義的な視線がほぐされ崩されて自然存在としての、つまり動物としてのヒトという次元に入り込み、そこを軸に据えた人類学が浮かび上がる(『食人の形而上学』洛北出版、2015年)。
この新しい試みは、フクシマをさながら植民地のようにして電力開発を進めている関東在住者のものの見方考え方を、原発が必要ならお台場につくれと対立項を立てて展開していたのとは違った地平を拓くように思えて、読み進めていたから、ひょっとして久坂部のこの作品が次なる次元を拓くかと、思わぬ期待をしたのであった。
だめでしたね。やっぱり自分で考えなさいと突き放された、という読後感でした。
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