動物と言葉を交わすとか植物と言葉を交わすというのは、どういうことであろうか。動物や植物が発する信号は「ここにいるよ」という存在の声であり、音であり、あるいは様態である。生き物だけではない。巨岩や洞窟に、あるいは山や湖に、さらには暗闇や深い霧や風に感じる「畏れ」や「恐れ」がかたちを変えて「ことば」になり、それとの身の裡の応答が「会話」になる。「言葉を交わす」という響きからすると、「外部/環境」をわが身の一部に取り込んで「ここにいるよ」と共に生きている感触がある。
ところが人類学がとりあげる少数部族になると、そうはいかない。とらえる側のヒトのもつ文化的な優位性が剥き出しになるからである。ヴィヴェイロス・カストロの『インディオの気まぐれな魂』(水声社、2015年)はブラジルに入ったイエズス会宣教師、アントニオ・ヴィエイラの史料を読み返して、16世紀インディオの「気まぐれ」に振り回される西欧人の姿を描き出す。
《…ブラジルでは、神の言葉は一方の耳では熱烈に歓迎され、他方の耳では無頓着にも無視された。ここでの敵とは、異なる教義ではなく、教義に対する無関心、選択することの拒絶であった。気まぐれ、無関心、忘れやすさ。「この土地の民は、全世界のあらゆる民族の中で最も不作法で、もっとも恥知らずで、もっとも気まぐれで、もっともへそ曲がりで、もっとも教えがたき者たちだ」と、幻滅したヴィエイラは挑発的な言葉を並べた…》
これにはじまる他民族文化のとらえ方が、後に文化人類学として、他者を対象化する方法として論題化されるのだが、1980年代末のダム開発をめぐるインディオを対象化する様態に関して、訳者・近藤宏は、面白い指摘をしている。
「計画においては環境への影響が問題視される。この時の環境とは、物理的環境、生物的環境、社会-経済的環境をその下位概念に位置づける。この環境概念により、人間もダムや保全区域という環境の構成要素となる。……(こうして)インディオ社会を広義の環境に取り込み、またその人々を「自然人」に近づけることになる。このイメージは、自然の守護者といった、自然環境と一体となるインディオのイメージにも近い」
そのようにして、インディオの社会を社会的な主体として考えることをしない結果、
「インディオは国家に統制されるものとなる……ブラジルの場合、その統制は両義性に満ちた「保護」の形式をとる。この「保護」とは身体的には保護しながらも、統合することによって固有の社会性を破壊する」と。
近藤の指摘からふたつの論点を取り出すことができる。
(1)近代社会における「開発計画」は、その地に暮らす人々をも「環境(の一部)」とみることによって、その人々が営む独特の社会性を「破壊」している。
(2)ヒト以外の動物や植物、あるいは大自然という環境を「保護」すべき対象と見ることによって、実はその独特の関係性を「破壊」している。
(1)は、目下、中国のウィグル自治区やチベット自治区の「中国化政策」を想い起させて、同類のモンダイと受け取れる。ウィグルやチベット民族を「中国化することによって近代化する(漢民族化)」政策が、じつはそれぞれが持ち来っている独自の社会性を破壊している。それは(漢民族化という言葉は当たらないが)、香港についても同様で、中国の共産党が民衆を指導統治する(=保護する)というスタンスが、すでに、民衆の独自の文化や社会を破壊していることを意味する。
さらにそれを敷衍すると、中央集権的な統治が地域分権的な(伝統的な)社会構成を阻害し、破壊することに通じていると読める。つまり日本の(地方自治的なセンスが破壊されてしまっている)現在にも通じるモンダイである。
(2)は、SDGsで取り上げられている視線と重なる。大自然と言葉を交わす地平を(いつしらず)身につけてきた(敗戦前後生まれの)日本の人々は、どこかに大自然に対する「畏敬」の念を抱いている。それは大きな「開発計画」に関しては大自然もまた、「主体」であると声を発していると受け止める。それが、ひとたび破壊を体験してきたヨーロッパの人々の感覚と同じ地平かどうかはわからないが、SDGsへの共感のベースになってはいる。いわば、原初的な、素朴な自然信仰が、わが身(の開発計画)を対象化する際に作動しているように思えるのである。
そういう微細な違いを、モンダイにするような地点に、いま、来ていると言える。
0 件のコメント:
コメントを投稿