2021年6月13日日曜日

異郷に死す

 今年3月、タイで亡くなった友人・Mと1970年代以降親しくつきあっていた3人が集まって、追悼の会を持った。と言っても、湿っぽい雰囲気はなく、酒を酌み交わし、「日本へ帰ったらお刺身を食べたい」といっていたからと刺身とにぎり寿司をつまみに5時間ほどお喋りして過ごした。

 仕事を少し早めに退職して、タイに渡り、小さいゴム園などを栽培して静かに暮らしていた。ただひとつ、彼がどうして異郷にわたることにしたのかが、わからなかった。ひとつだけ、日本が嫌いだったことだけが浮かび上がる。でもどうして? 両親や家族に対する恨みつらみがつよかったから、とは感じたが、それがどうしてなのかはだれも聞きただしたことはなかった。

 2020年4月に小腸付近に異常が発見されたMが5月に入院してから音信が不通となり、私のスマホが壊れたこともあって、以後消息不明となっていた。だがMと兄弟のようにかかわっていたYさんに問い合わせたところ、生きていたことがわかり、闘病生活を続けていたと知れた。それから再開したやりとりは、痛み止め薬による譫妄状態が重なって、支離滅裂になっていたが、それでも、声を聞くことができ、国際郵便でのやりとりが何度か繰り返されて、Mの状態をうかがい知ることはできた。そして、3月6日に、タイの(日本語)ボランティアの方からYにMの逝去の知らせが入り、闘病に終止符を打つこととなった。

 その後、Yの元へは、日本語のできないMの奥さまから葬儀の写真や亡くなる直前の、仏教寺院を訪れたスナップ写真が何枚か送られてきた。盛大な葬儀であったことと、感謝を示す「絵文字」が添えられていた。また私の元へは、未開封の国際郵便があったこともあって、(たぶん日本語ボランティアの扶けを借りて)日本の兄弟に知らせが届き、あわせて、私にも御礼を行ってくれと依頼があったようだ。その旨記した、丁寧な手紙をお姉さんからもらった。

 とりあえず、Mとのやりとりをまとめておこうとスマホを覗いたところ、飛び飛びだが、2017年からのメールが保存されていたことがわかった。2017年には使っているスマホの調子が悪く、私のブログにアクセスできないと言って「訴え」が何度も出てきます。2018年には、私のブログの感想が記されていて、タイがすでに第二の故郷になりつつある気配を感じさせています。2019年の秋には、再びブログにアクセスできなくなって、どこに問題があるかわからない、あなたのパソコンに問題があるんじゃないかと思わぬ愚痴をこぼしています。ブログにアクセスするのは、ブログ提供のサイトだから、私のパソコンは関係ありませんよとやり取りがあります。デジタル機器の素人が四苦八苦している様子は、こちらも心当たりがあることだけに苦笑しながら受け止めています。2020年になると、新型コロナウィルスの心配が降りかかってきました。それでも、3月までは(むしろ)私の体調が崩れたことを気遣って「医者に診てもらえ」とメールが届いていました。だが、3月30日のメールで、「小腸に癌か良性腫瘍があった」と医者の見立てを記し、「小腸に癌はできないんじゃないか」と私が返し、十二指腸辺りに異変があるとか、医者の診立てが(担当医が決まっていないため)定まらず、気遣うメールのやりとりが行き来しています。そして、4月21日、吐き気や食欲不振に見舞われ、タイの医療体制の話になり、同じ年齢の人が肺がんで亡くなったことなどをとりあげて、先行きを心配しています。そして、5月7日、「最終的な診断が確定しました。癌ではなく、腸閉塞を伴う十二指腸潰瘍です」とあり、「切除するかどうか」を悩んでいます。そして5月9日、「現在入院中。管を鼻に入れています。来週木曜日に手術をしますが、癌の疑いは必ずしも否定できないそうでしょう」と、語尾が乱れたメールを最後に、音信不通になってしまっていたわけです。

 Mと連絡が取れるまでのYとのやりとり、1月21日にMからの「国際郵便」が届いてからのやりとりと、3月3日に亡くなったという「訃報」、その後の親族とのやりとりをまとめて、彼の追悼号として一冊にしました。A4判で20ページ、400字詰め原稿用紙にして120枚くらいの分量になりました。

 それを肴にして、5時間もおしゃべりをしたのです。追悼というのが、やはり残されたものの心穏やかな安らぎのためにある、ということかもしれません。30年近く離れていた、集った3人の距離が、異郷に死んだMを介添えにして、近くなったことがコロナ時代の手土産というところでしょうか。

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