2021年6月27日日曜日

宗教的熱狂の振れ幅と「哲学」の組みこみ方

 カート・アンダーセン『ファンタジーランド』の「第5章 拡大するファンタジーランド(1980年代から20世紀末まで)」は、表示する年代の宗教を軸にして変容・急進化するアメリカの精神世界を解析していて、刺激的である。キリスト教やユダヤ教の宗派の変わりようも、宗教というよりは人の精神が活動・集散する「舞台」という趣。バイブルやコーランを読んでわかったつもりになっていたキリスト教観は、ほぼ役に立たない。バイブルにかかれていることが、どのような象徴的なことかという理解も、旧習のカトリックやユダヤ教の方がはるかに近代科学合理性を組みこんでいるのに対して、プロテスタントは原理主義的なバイブル理解に固執して「狂信化」している。

 アンダーセンの記述で面白いのは、そういった宗教指導者の「狂信化」にドライブをかけているのが、受け手である大衆の狂熱ということだが、信仰というよりは、ただ単に何かに思いをぶつけ、狂熱のなかに憤懣をぶちまけたい精神世界の代償作用のようにみえる。それをアンダーセンは、「魔術」とか「ニューエイジ運動」とかと並べてキリスト教という人々の共有する文化的共通性としての「信仰」と受けとめているようだ。

 たとえば、近代的合理性に対するカトリックやユダヤ教とプロテスタントの対照的な違いに関して、次のように解析する。ローマ法王の一元管理の元にあるカトリック(の信仰)や高学歴者が多いユダヤ教の受け容れている合理性と、プロテスタントの学歴的、社会的不遇さの受け容れている「魔術性」とを比較するようにして解析している。つまり、今年初めのトランプ派の議会襲撃なども、政治党派が「魔術化」しているというわけだ。

 それは逆に、陰謀論を信じる基盤にもなる。ことにエリート層の、トランプ現象に対する冷笑や嘲笑は、システムにおいて優位に位置するエリート層の「陰謀」を明かしだてるものとさえ受け止められ、ヒラリー・クリントンの敗北につながった。さらにそれは、科学技術に対する疑問視にも広がり、ワクチンに対する不信にも結びついている。まさしく「ファンタジーランド」と化しているアメリカである。

 アンダーセンは、その行きつくところが「何でもありの世界」であり「最大の関心事は人生を楽しく過ごすこと」と人々の受け止められている、と解析する。この、末尾の部分だけをみると、日本も同じだと思わないではいられない。ただこうした部分だけをとって全体を推し量ることをすると、「分断」は一向に解消しない。つまり、「冷笑・嘲笑」するのと同じ轍を踏む。

「最大の関心事は人生を楽しく過ごすこと」という一言についても、どのような文脈に位置づけてそれを見て取るかによって、社会の風潮の流れを的確につかむか、外してしまうかが分かれる。つまり、もっと次元を深めてその言葉をとらえ返さなければ、表面的な解釈しかできない。

 たとえば、個々人の趣味嗜好に基づいて「人生を楽しく過ごす」としても、その趣味嗜好が、どこまで自然と人の拠り集う社会性とを視野に収めて活かされているかによって、「過ごし方」は違ってしまう。そういう趣味嗜好の広がりと深まりを吟味しながら、社会現象は解析していかなければならないが、言うまでもなく私たち一人一人のもっているネットワークは、それほど「哲学的」ではない。広がりや深まりを探るには、やはりメディアの質的な取材力量に拠るところが大きい。チャットやユーチューブというインターネットの「情報源」では、狭く、小さく、深掘りするような傾きばかりがいや増しに増し、その狭い世界での窮屈な言葉のやりとりで満たされてしまって、好みや憎悪が(つまり分断が)広がり深まるように見える。アメリカの強熱する「魔術」のようなものだ。

 その社会的な風潮の空間を掬い取るだけの社会的運動がどうやったら起こせるか。政治家たちには、そういうことを真剣に考えてもらいたい。

 私たち市井の庶民は、とどのつまり身の回りのコトゴトを「人生を楽しく過ごす」ことに傾けるしかない。ただひとつ、それが「人生を」広げ、深めることに通じているかと自問自答する。そういう「哲学的」なモチーフを組みこむことしかないと思うのだが、どうだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿