昨夕、私のPCの「緊急事態宣言」を出した。やはり予想通り、今朝ほどから今しがたまで、何度やってもモニターは暗いまんま。これからPCの新しいのを探しに行こうかと思っていた。ただ、ためしにONにしてみると、なんと画面が見えるではありませんか。
やれやれ。これでとりあえず今日は、ブログに書きこみができる。そう思って今、いそいそと書いている。
書こうと思っていたことは、昨日の続き。
アメリカの作家、カート・アンダーセン『ファンタジーランド狂気と幻想のアメリカ500年史』(東洋経済新報社、2019年)の記述。じつはこの本、(上)(下)の二巻に分かれている。私がいま読んでいるのは(上)なのだが、全体を通じて、アメリカという国が、その建国の前段階から、そこに身を置く人々の心を囚えつづけている「幻想」というか、宗教的熱狂に照準を合わせて、その推移と浮沈を描き採ろうとしている。
読みすすめながら、私自身、これまで抱懐していたアメリカ観が大きく変わる感触を覚えている。
まだ上巻の6割くらいしか読んでいないのに、全体を大まかに概観する。全巻が6部に分かれている。ヨーロッパ大陸からの移住と建国を内面的にも社会的にも支えてきた宗教的情熱が「第1部 アメリカという魔術(1517~1789)」を生み出し、「啓蒙主義」に結果する。カント哲学の延長上に位置する啓蒙主義の「私の信じるものを信じる」という側面が良くも悪くも併存するようにして「第2部 狂信者たちの合衆国(19世紀)」に結実する。落ち着く先を求めて幻想が陰謀説への偏愛に実を結び、メディア、広告、娯楽を通じて幻想が産業化され、「開拓時代への郷愁」を合わせながら、狂信的なアメリカはいっそう進行する。
《こうして、全国的な規模で夢のような嘘を売るのが、当たり前のことになり、アメリカの生活の一部になった。つまり、幻想と産業が永続的かつ相乗的に結びついた幻想・産業複合体の基礎が築かれたのだ。》
第二部までに「アメリカ史の第一期」の終わりまでが描かれる。19世紀の終わりころである。
「第3部 理性への傾斜の時代(1900~1960)」は世界の分割と第一次大戦をヨーロッパ諸国が追いかけて争っている間に、一躍(ヨーロッパに対する)対抗文化から自律することになったアメリカが、第二次大戦を経て、科学技術においても理知的な面においても世界を領導する立場を得て、ヨーロッパ出自への対抗という側面もあって、なお一層「理想郷」へのモチーフを強め、アンダーセンにしてから「アメリカの黄金時代――まともに見えた1950年代」と言わしめる理知・合理的なアメリカが現出した(ちなみに、この時代の米占領軍の若い人たちが日本国憲法を人類史的に理想の憲法として作成したということになる。そういう幸運を子ども心に身につけてきた私などのアメリカに対する「幻想」が、アンダーセンの記述によって、ほんの一面しかみていなかったと思い知らされるわけだ)。
そして「第4部 狂気と幻想のビッグバン(1960~1970)」で、科学は宗教の一形態となり、対岸にソビエトを措いて「陰謀論」は現実と混在し、「幻想・産業複合体」が弾ける。そう言えば、ディズニーランドなどは、まさにその典型であるし、大統領レーガンが「悪の枢軸」という言葉を使ったとき、この人の頭の中では映画の世界と現実が混在していると私は思ったのが、いやそれこそがアメリカだよとアンダーセンに教えられたってわけ。
上記が、(上巻)。
(下巻)は1980年代から本書出版までの37年間。「第5部 「ファンタジーランド」(1980~20世紀末まで)」と「第6部 「ファンタジーランド」はどこへ向かうのか?(1980年代から現在、そして未来へ)」と、全てをつぎ込んで、アメリカ的狂熱の立っている地点を総覧している。
トランプ時代が、実はアメリカという国の社会形成の必然的結晶であり、「陰謀論」がじつは「エリート不信」と背中合わせになっている証明と見るのは、トランプ時代が終わって(なおかつ共和党が未だ占拠されていると)みると、アメリカの宗教的というか、もはや文化的狂熱(しないではいられない気質)が、どん詰まりまできている気配と思える。世界が、日本が巻き込まれるのはやりきれないなあと思うが、安倍宰相がそもそもそういう人であったことを想い起すと、富裕な暮らしが産み落とす歴史的必然の人間像なのだろうか。
一つ付け加えておきたい。
「開拓時代の郷愁」に関して、アンダーセンがヘンリ・デイヴィッド・ソローの『ウォールデン――森の生活』のファンであったと明かして記していることが、ちょっとショックであった。
ソローは「上位中流階級らしい青春期の延長の仕方を編み出した人物」なのだが、27歳の時に「牧歌的幻想を実現するプロジェクトにとりかかり、……森の一角のウォールデン池のほとりに一部屋だけの小屋を建て、居を移し、辺境の地の住人として、素朴で自立的、純粋で高潔であることを夢想した」人として、私もその記録を読み、共感するところ大であった。
ところがアンダーセンは、
「自裁に小屋をつくる際に友人の助けを借りているうえ、小屋を建てた場所は両親など数千人がkらす古くからの繁華街から歩いてわずか30分ほどのところ。新たに敷設された鉄道で30㌔移動すれば、アメリカ第三の年もあるところ」
と追記する。つまり、ソローの「自然の中の生活」というのもまた、フィクションだと書いている。そしてこう続ける。
《……実際ソローは、ウォールデン池を離れたのち、メイン州北部の本当の荒野で数週間を過ごしたが、「薄気味悪くて野蛮で」「巨大な怪物のような自然」に恐怖したと述べている》
いやはや、『ウォールデン――森の生活』を呼んだイメージしていたのは、まったく私の手前勝手な「郷愁」の投影に過ぎないと思い知らされたわけ。
そうなんですよね。そんな風に、自分の姿を(ありうべき鏡に映る姿を通して)他に転移してみているだけなんですね。肝に銘じましょう。
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