2021年6月2日水曜日

自立と自律

「自分のことを自分でやるというのが、生きていく基本」と記しました(5/29)。どうして、自分のことを自分でやることが基本なのでしょう。

 それは人が、他の人に依存しないでは生きていけない存在だからです。子どもが一人前になるまで親に依存するほかないことは、いうまでもありません。しかし一人前になっても、他の人たちのつくったものを、自分の作ったものと交換して手に入れて暮らしています。互いに依存して生きていく場が人間の社会です。

 互いに依存するというのは、自分のことを自分一人で決めることができない立場です。私の食べ物をつくっている方が病気や事故で作れなくなったために私が飢えて死ぬというのは、困ったことです。同様に自分がつくっているものが、何かの理由でつくれなくなって他の方の暮らしが行き詰るというのも、困ったことです。それを避けるためには、社会のどなたもが、それなりに暮らしを立てて行っていなければなりません。自分だけが良くても、他の方々がうまくないのでは社会は成り立たない。まず自分がしっかり自立すること。同様に、ほかの方々がしっかり自立していることも必要です。つまり、自立というのは、社会的に成り立っている。

 依存しているがゆえに自立することが大切になる。その感覚が、人と人との間という人間の基本センスなのかもしれません。大きな社会のポツンと一人暮らしである個人としては、暮らしの全体としてはお客様として過ごすしかないから、基本部分は(できるだけ)自立することを志す。

 では、自律ってなんだ? 自分で決めること。何をどうするかを、自分で判断すること。自分の意思。自律する意思を他人に左右されたくない。でも、社会的に位置する自分の立場というのは、社会的に「期待される自分のイメージ」。それって、本当に自分の意思なの? そう考えると、どこかでそう思いこまされているってことも、ありうる。生まれ育ってくる間に見聞きし、そういう役割を担う人が必要と思いこんだ可能性は、ないとはいえない。これも、社会的意思の欠片(かけら)のひとつかもしれない。

 ひょっとすると、純粋に自分の意思というのは、ないのかもしれない。だとすると、「わたし」という個人に降り積もって堆積してきた「社会的意思の欠片」が、自分の意思として現れてくるのかもしれない。人類史の一端が「わたし」の体を借りて現れている。それが自律だと思えば、わが身が体現した社会的意思。悪い響きではありませんね。

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