昨年の発生時からコロナウィルスの感染状況を気にしているカミサンが、去年6月29日の日誌をみて笑っている。電車に乗ってさいたま新都心まで行ってきたが、その間、はらはらしていたと記していたそうだ。その日の感染状況の数値、「東京47、埼玉11」。今年の状況「東京317、埼玉68」と較べてみると、いやはや「かわいい」。
茹でガエルではないが、いったん大きな数値が出てしまうと、元の数値がなんでもないものに変わる。馴れなのか、これは。
逆にみると、どうしてそんな小さな数値で「脅威」を感じていたのか。世界的な蔓延の勢いが、いつやって来るかという「来るべき将来」に対する不安が、「脅威」に感じられたのか。
とすると一年を経た昨今、例えば埼玉県の日々の数値が三桁だと「まだまだ」と思い、二桁になっているとホッとしているのは、三桁が「将来的な不安」の解消には向かっていない証左であり、二桁だといくぶんかでも「解消の方向」を読み取ることができるからか。もちろん比較的なもの。TVの画面でいうと、神奈川県や千葉県と比較していて、数値的に「勝った」「負けた」と心裡では見ている。
つまり「将来的な趨勢」を推し測る基準点を、周辺の県とか、前日とか前週という変数に置いて「(自分の)気分」の推移をみているのが「将来的な不安」ということか。これでは、私たちが嗤ってみている政治家たちの気まぐれと変わらない。
「ステージⅡ」になれば実施すると言っていた五輪を、「ステージⅢ」が見えた時点へ移したり、「感染者数」を「重症者数」や「空き病床数」へもって行ったりして、言葉遊びに右往左往している政治家の振る舞いが、私たちにも伝染してしまったのだろうか。それとも、日本人て、もともとそういう気分屋で気まぐれな気質を持っているのだろうか。う~ん、どちらともいえないと、わが胸に手を当てて考えている。
そう考えてきて振り返ってみると、感染症の専門家というのは、エライ。
「感染者数」にせよ、感染拡大の兆候にせよ、どの数値をみているかをはっきりさせて、それを頑として堅持している。「病床逼迫」というのも、数値をみて、「ステージ」を定め、それに基づいて五輪に対しても発言する。
その専門家の発言が、去年の「東京47、埼玉11」のときにどうであったか。覚えていないが、「病床逼迫が起こるのではないか」という懸念が、出されていたと思う。もちろんその後、病床拡大に関して何らかの施策はとられたであろうから、今年と同じ数値で較べることはできない。だがその、専門家たちの変わり映えのなさが、私たちの気分が振れる幅を、ある程度抑制していると思える。
ただ単に「馴れ」たり「慣れ」たりしているわけではない。「将来的な不安」は、正体の見えないモノゴトに対して私たちが感受する「危険信号」だ。楽観的か悲観的かは、そのもう一歩先にある「判断」にかかる。まず、その「危険の察知」に関しては、「茹でガエル」と非難するのではなく、もう一歩踏み込んで、なぜ「馴れるのか/慣れるのか」を解析しなければならない。ひょっとすると、「危険察知」能力が拡散して、希薄になっているとも考えられる。
コロナウィルス感染と重症化の世代的な差異があった。若い人たちが軽症で済むとなると、「ま、一度はかかって抗体を作っておいた方がいい」と考えて、出歩き、屯し、三密をものともせず、イベントに興じたくなる若者がいても、不思議ではない。日常の過ごし方自体が、「お祭り騒ぎ」に仕組まれているのだから、それを急に変えよというのは、それなりの「判断」に宿る「意識的な・社会的な・知的な・何か」が蓄積されていなければならない。そこにこそ、良かれ悪しかれ、ネーションシップの特性がある。
そういう視点でみると、昨年以来の日本の高齢者の振る舞いは、褒められていい。わが身を考えてみても、自画自賛したくなるくらい、自己防衛に徹していた。当然、身の周りの人たちも、同じような振る舞いをしていたから、社会的な気質が作用したとみている。それは、日本社会における高齢者の特長を表しているのだが、そこに踏み込むと、また別のモンダイ次元に入るから、棚に上げておこう。
もはや政治家に何かを期待する気分はないが、彼らが勝手なことをしているのに、そろそろ掣肘を加えたいと思う気分だから付け加えるのだが、大きな絵柄を描いて、上記したような「将来に対する不安」を解消する「地平」を指し示すのが、政治家の役割。細かな(非感染)五輪バブルの手立てを疎にして漏らさぬように講じるのは、役人の仕事。そう心得て、振る舞ってもらいたい。ゆめゆめ、民草は「茹でガエル」とみなして笑い飛ばすことをなさいませぬように。
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