子どものころよく聴いていたラジオ番組に「20の扉」というのがありました。「動物、植物、鉱物」と最初に司会者の声が入って番組がはじまり、回答者が次々と質問を浴びせて、「それ」がなんであるか当てるというクイズものです。世界は、動物、植物、鉱物に分かれていると思って疑いませんでした。
「生物」という概念があると知ったのは、いつのころだったでしょうか。動物と植物が「同じ」であると、ひとつにされていました。それを得心したのは、中学校で「細胞」を学んでからだったでしょうか。いや、もっと昔、まだ物心つくかつかないころから、森の中や夜道では、動物も植物も同じように恐いものだったとも言えます。
「細胞」は「知識」です。でもそれが、「動物、植物」という壁を取り払って「せいぶつ」としての共通世界を生きているのだという「感得」を得たということは、「知識」が私の身の裡に胚胎し、根を張り始めたとも言えます。私にとって「知識」は「(私の感じとっているのとは違う)外」という「世界」。大人の世界でもありました。
その「感得」が根を張り始めて芽生えたのかどうかわかりませんが、高校に入って、当時は最先端と言われていた「分子生物学」に言わせると、動物と植物の端境がないばかりか、鉱物さえ、同じ地平の地平線に見え隠れしていると考察されるようになり、「世界」は一挙に一つになる気配が漂います。「混沌の世界」の再来です。
そこへ(後に)「物理学」からの宇宙論が運び込まれて来ると、「世界」が「宇宙」と起源を同じくして、しかも、「素粒子論」がかたちづくる星と「私たち」とが同じ出来上がり方をしていると考えると、これも「知識」でしかありませんが、ヒトは死んだら星になるという物語りが、俄然リアリティを持つようにさえ、思えたものです。
子どものころの「混沌とした世界」の感触体験は、後の「知識」という外部世界を身の裡に取り込む「感得」の土台となっているのかもしれません。それを経て、外部世界と身の裡の「せかい」とが、つながったり/切れたりしながら、茫洋とした現在の「わたし(わがせかい)」を成してきていると、振り返っています。外と内との「繋/断」が何をスウィッチとしているのかわかりませんし、一度繋がったものが後に切れることになるのかどうか、それがくりかえされているのかどうかもわかりません。
でも、身の裡の感触でいうと、いろんな局面での様々な体験とそれらを忘れることも含めて、外と内との「繋/断」に、なにがしかの物語を絡めて「わたしのせかい」が、ぼんやりとかたちになってみえるように感じ取れるのです。後期高齢者というこの歳になって、ボーっと生きて来たなという自分への思いと、この先それ程の発見があるわけでもないという見切りが、「せかい」をまとめる「ものがたり」を仕上げる接着役をしているのかもしれないと感じられるほどです。
も一つ付け加えておくと、「宇宙論」が登場したころから、「宇宙論」の「物語り」も、わが身の裡の「ものがたり」も、似たような「ヒトの思念/想念/幻想」と感じられ、物質世界ばかりでなく、思念の世界も「混沌」に組み込まれて、「ひとつになる」気配に感じられています。
これって、子どもに還るってことでしょうか。それとも「せかいはひとつ」ってことでしょうか。
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