石山蓮華が「言葉を脱ぐ」という表題のエッセイを書いていて、目をとめた。雑誌「新潮」2021年7月号。
二十歳から6年間していたTVレポーターの仕事のこと。街頭インタビューに駆り出され、「街の声」をもらう。問いかけの言葉も、聞き出す言葉も、自分がそのとき選び取ったものではなく、あらかじめディレクターから渡された台本に記されていること。しかもそのときの声のトーンも、応えてもらうときの相手のテンションにまで、(台本にあるような)「一言お願い」をして引き出してくる仕事をしていると、
《私の体の中で他人のように考え、他人の考えた言葉をしゃべっていると、腹の中が疑問と違和感でパンパンになる》
と。ああ、これは、先にオリンピックで見られたシモーネ・バイルズの「ゲシュタルト崩壊」(2021-08-10ブログ参照)寸前の状態と同じだ。バイルズも、自分の今やっていることは自分の選び取ったことなのだろうかと、「腹の中が疑問と違和感でパンパンにな」っていたのではないだろうか。1960年代の哲学者なら「自己疎外」といったであろう。だれもが大衆社会で味わう疎外感と謂えばそれで片づいたこと。だが今は、もう少し踏み込んで、人の機微に触れている。
「ことば」がそもそも持ち来たっている社会性、つまり世の中に通有する「人様のもの」から始まっている。それを「我が言葉」にする過程が、若い者が大人になることと同義であった。それなのに、大人になり仕事をして世に認められていく過程で、こんなにもたくさんの人様の言葉を重ね着していかねばならないのかと感じる「疎外感」は「離人症」を発症したかと思うほど、我が身から離れ、ふわふわと周りを漂っている。人との関係を「かたち=ゲシュタルト」にしている「ことば」が、「(情報伝達の)彩りのために添えられた電飾」になっている。自らの感性や感覚から飛び離れてしまっている「仕事の言葉」、社会的に流通する言葉。
そういうとき、石山蓮華はどうするか。マイクをしまって、自分の荷物から本を取り出し、目を通す。言葉を脱ぐという。
《私にとって、本は他人の言葉を脱げる小さな部屋のようなものだった》
《体中にぷかぷか浮かんだ疑問や違和感は本で出会った言葉によって整理され、やっと自分の手で触れられるようになる》
と。わかる、わかる。本はマイペースで読める。引っかかったらそこで立ち止まることができる。繰り返し読みなおすこともできる。それはじつは、自分と向き合い、自分の感性や感覚を吟味し、その確かさを確認する行為でもある。時には、その自分の感覚すら、借り物の、根拠がわからない、ただ長く伝承されてきたことを、口伝えに受け取っていたことに過ぎないと、感じることもある。だからいつでも、自分を確信できるわけではない。それを石山蓮華は、どう見るのか。
《私が言葉にしたかったことは、大抵の場合すでに誰かが本に書いているのだ》
《松明のような本に出会うたびに、まだ聞こえない私の言葉も、いつか聞き出せるかもしれないと勇気をもらえるのだ》
と発見する。謙虚で素直。でもすでに「自分の言葉」になっている。自分の使っている言葉が「他人の言葉」と知ったこと自体が、その分岐点だ。
もちろん、いつでも他人の言葉はつきまとう。だって、それを抜きにしたら、社会的な通用が無効になってしまうからだ。言葉の社会性というのは、「他人の言葉」と「自分の言葉」との相互往来であり、その間に介在する「自分の感性や感覚や常識」「社会的な感性や感覚や常識」との間に報じる違和感や疑問を手放さずに、常に吟味し続けること。多面体的で多様な社会の方は、そう簡単に吟味に応じない。だがすでに自分が身につけている言葉ですら、元はといえば生育歴中に、親や周囲の社会からいつ知らず吸収して違和感なく身につけてきた「身についた言語」だ。それにすら疑問を抱き、一つ一つ脱ぎ捨てていきながら自分の言葉を再び「身につける」。それが、自分の言葉を再獲得する小さな一歩であり、同時にそれがまた、社会の一歩になっている。20代の後半を過ごしている石山蓮華は、その一歩を踏み出した。
それの繰り返しが、人生というものだと、70台の最終年を送る年寄りは思うのであった。
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