2021年9月30日木曜日

1年の4分の3が見せる自助・自律

 今日で9月が終わる。1年の4分の3。これは、コロナウィルスの到来から1年と4分の3でもある。この間にどれだけ学ぶことができたかが、人類の叡智ということになろうが、そう考えてみると、「現代」の歪が浮き彫りになる。

(1)コロナウィルスの発生源とその拡散経路の探査は、分からずじまい。国家利害の対立に阻まれて雲散霧消してしまっている。その国家利害も、その国の統治者の代表する部分的な利害が前面に出ていて、どこにも「全体の代表者」という気配を感じない。第二次大戦の折に、連合国は「全体主義vs.民主主義」という対立構図を「叡智の上着」にした。後にその上着を「理念」と呼ぶと,戦中生まれ戦後育ちの私たちは知って、それなりにまとった。

 今やそれさえも、脱ぎ捨てたと言えようか。いや、かつては「叡智の上着」らしいぱりぱりにみえた上着であった「理念」も、長年着ているうちにすり切れてボロボロになり、もはや下着が透けて見えるようになった。それを取り繕う「理念」を、すでに世界は持ち合わせていなかったのであった。

 着古した上着のせいというよりも、世界の進展とそれに伴う人間の変容が、窮屈になった上着を取り替えることを求めているとも言える。だがグローバリズムという戦後理念の延長で取り繕うことをしてきたから、「にんげん」としての一体性すらも見失ってしまう様相を呈するようになった。それが大統領選におけるヒラリー・クリントンの敗北であった。

 その対抗軸が、トランプだったことが、「人類の叡智」の貧困を語っている。かれは、下着姿にしたのは、そもそもの上着であったと、その「(近代の)理念が裸である」ことを衝いた。だったら何も隠すことはないと、グローバリズムにおける「強さ」をむき出しにして、しかも対面交渉という「弱いもの相手」には一番の武器を取り出して、世界を4年間掻き回してきた。それが大国トランプの時代であった。

(2)他方で、「理念の根拠」から編み直すことも始められていた。「自由と民主という近代の上着」もさることながら、気候変動という「近代のもたらした災厄」に目をとめ、そこに「人類連帯の必要性の根拠」を置き、羽織る上着を紡ぎ直そうという西欧発のエコロジー。コロナウィルスが到来したこともあって、ますます「人類連帯の必要性」は求められたのだが、発生源の調査どころか、ウィルスへの対処の仕方についても諸国統治者の思惑が絡んで、一様に進まない。それどころか、ワクチン接種の優先順位が、やはり国民国家対立的に、かつ資本家社会的に行われている。感染拡大がなぜ起こるのか、なぜ縮減するのかを、1年と4分の3経っても「わからない」と為政当事者がいう。しかもワクチンも、シートベルト程度にしか利かないといわれては、自己防衛的に用心するほかない。つまり、国家の統治機能さえ信用を失い、科学的判断への信頼も、WHOなど専門機関の権威も薄れ始めている。

(3)人類が積み上げてきた「上着」が剥がれてくるとともに、国家的な統治や世界的な仕組みに対する幻想が浮き彫りになった。マスクをするしないということも、蓄積してきた文化の違いがむき出しになって収まりがつかない。何がフェイクか,何がほんとうかも、自ら見極めるほかない事態になっている。とどのつまり、自分たちのことは自分たちで護るしかないと「自律の志」が芽生えてきた(かもしれない)。思えばこれは、人類史の原点に戻るような「自律」だ。だがそれも、国民国家という「現代の枷」が囲い込み、その中での「自律」と、甚だ心許ない。「民主主義vs.専制主義」という構図を描き出して、夢の再来を試みている大国家リーダーもいるが、果たしてそれで昔日の「人類史的連帯感覚」が戻っているかどうか、頼りない思いをしている。

                                      *

 そういうわけで、はなはだお先真っ暗の「自助・自律」状態におかれている庶民としては、なにが「まことのことか」を一つひとつのデキゴト毎に,自らの自画像を描くように吟味しながら,一歩一歩先へ歩いて行くしかない。この情報化時代に。慥かに心許ないが、心持ちの環境としてはかえってサバサバして、さあここからジンルイ史を紡ぐことになるぞと決意するような気分ではある。出立したばかりのホモ・サピエンスと思えば、不安と一緒にわくわくするような思いが湧き起こってくる。

 と、いいなあと、年寄りは考えている。

2021年9月29日水曜日

納得ずくの世界は混沌の海

 劉慈欣『三体Ⅱ 黒暗森林(上)』(早川書房、2020年)を読んでいる途中で、面白い記述を見つけた。9/24に書いた「英雄か敵か? 歴史だ! 虫けらだ。」の続編に当たるSF物語。だんだん面白くなってきた。物語は省くが、数世紀先に待ち受ける地球の命運を賭ける人物(複数)を国連が選び、その人に「すべてを託す」。

 その人物たちの要求はすべて国連のある機関に伝え、そこだけが精査することになっているシチュエーション。その場面で、警護に付き添う元警官と国連の派遣するスタッフとの会話。その人物(複数の中の一人)が「夢の恋人」を見つけてほしいと元警察官に頼み、彼は国連スタッフにそれを伝える。そのとき国連スタッフは、それを拒む。

「いくら何でも、それは甘やかしすぎだろう。すまない。それを上に伝えることはできない」

「だったらあんたは、(国連決議)に反することになる。……いかに理解不能であっても、すべて報告し、実行しなければならない。拒否権は(国連機関)にのみある」

「しかし、社会のリソースをあんな男の王侯暮らしに浪費するわけにはいかない。あんたのことは尊敬している。経験も洞察力もある人だ。だから本音を聞かせてほしい。(かの人物は)計画を遂行していると本当に思いますか?」

「わからん。だがあんたは,どんなことにも理由を問わずにはいられないタイプだ」

「それが間違いだと?」

「正しいとか間違っているとか、そういうことじゃない。もしだれも彼もが,理由に納得できない限り命令に従わなかったとしたら、世界はとっくの昔に混沌に飲み込まれていただろう。」

 数世紀先の地球の危機に備えるための「プランニング」を(地上のあらゆる資源を使ってもよいと)任されたら、どうするだろうという興味が、読み進めるモチーフになっている。だがそれ以上に、上記のやりとりが、この作品の慥かさを醸し出していると思った。

 と同時に、自律した個人というのが、集団で生活していかなくてはならないヒトのありようとして、いかに障害になっているかも描き出している。自律した個人というのは、まさしく「情報化社会」のリテラシーを身に備えた「立派な人」のことだ。

 たとえば、ドイツの軍人は、上官の命を実行する際に、その正当性を自ら判断しなければならないと規定されていると、何かの本で読んだことがある。ナチスの支配を受けた苦い経験を繰り返さないために、軍人に「主体的判断」を義務化したという。それが問われたのは、ハイジャックされたルフトハンザ機を撃墜した罪を問う裁判を描いた、フェルディナント・フォン・シーラッハ『テロ』(酒寄進一訳、東京創元社、2016年)。これについては、このブログの2016/12/21《「人間の尊厳」の重み》と2016/12/24《市民社会の「法」の精神の原型》の二度にわたって,記述している。

 今その子細には立ち入らないが、上記やりとりに描き出された元警官のことばと振る舞いこそ、己をつかむことが世界を捉えることにつながることを示している。そして面倒なのは、「己をつかむこと」と「世界をつかむこと」が順接していないことなのだ。「己」の中はそれまでに触れた「世界の断片」に満ちており、「世界」の中は、「己の幻想」が混じり合っている。つまり、「世界」を読み取っている「己」自身に(そう判断する根拠はなに? なぜ? と)疑いの目を向けなければ、「己」自身が捉えられないし、そう疑うにためには「世界の断片」の何が,いつの間にか「己」に染みこんでいるのか腑分けしなければならない。そのとき、「理由を納得する」ことは、言わば永遠の自家撞着だ。

 結局,目前の我が役割を「それ」として受け入れて働くこと。そのときの根拠は「世界」に対する信頼であり、それは「ことば」にならないわが身に染みこんだ感性や感覚を一つひとつ吟味することを通じて、「ことば」にしていくことに他ならない。そのようにしてつねにつねに、わが身の輪郭を描き出していくことが、即ち生きることだと、元警官のことばから感じ取ったのであった。

 ここに登場する,目下の主人公の「あんな男の王侯暮らし」こそが、ひょっとすると地球の危機を救う驚天動地の手立てに通じているのではないかと(ちょっぴり感じながら)、「上巻」の6合目ほどを読み進めている。まだ「下巻」があるのだから、読後感はずうっと後になるが、こういう断片にぶつかるために本を読むんだなと思っている。

2021年9月28日火曜日

人と「情報」

 今日(9/28)の新聞を見て。容疑者となった時点で(昨日逮捕された)偽版画流通の元画商が「反省の弁は?」と(メディアに)聞かれて「ありません」と応えたと見出しが出ている。まるで「人非人」という扱いである。と、その下の広告欄に「小室圭さん会見拒否」と女性誌の見出しが躍っている。なんだ、これは! こちらもまるで(当然応答して然るべきなのに)「けしからん」という態度がむき出しである。

 容疑者がメディアに応じることを当然と考えている大新聞の態度が露骨である。小室圭さんという方は、皇女が結婚したいと考えている「一般人」。メディアは皇女に対しては慇懃無礼な言葉を使いながら、その婚約相手には容赦なく(おまえ何様だと思ってんのか!)と言わんばかりの「敵意」むき出し。

 果たして、メディアって、そんなに「公共」なの? って思った。「知る権利」ってメディアが代表してんのか? 「いつ、代表してくれって頼んだよ」っていうのは、素人も素人の一般人の言いそうな愚痴。頼もうと頼むまいと「立場」が「公共」なんですよって、(たぶん)答えが返ってくると思う。

 とすると、メディアの「問いかけ」自体が「公共性」を持っていなければならない。だが「問いかけ」は、取材記者や編集部員の下世話な「関心」が繰り出されているだけではないか。そもそも記者のどういう関心が土台にあって,そういう問いが繰り出されているのか、自問自答したことはあるのだろうか。

(たぶん)編集デスク辺りで、「バカめ、こんなことに(報道)価値があると思ってんのか!」と罵声が飛び交ってんじゃないか。「売れる記事を書け」とか「読者がこんなことに金を払うかよ」と叱りつけてんじゃないか。つまり、記者や編集者自体の「下世話な関心」を、(読者が読みたがる/知りたがっている)と勝手に忖名付けて、「問いかけ」「報道して」いるに過ぎないじゃないか。メディアの記者って、自分の言葉を使わないのよね。誰それがこう言ったと、他人様の言葉を勝手につぎはぎして「作文」している。それが彼らメディアの「正当性」の根拠になっている。これは、売れるのが正義という根拠である。「商業主義」と呼ばれてきた。

 だが同時に、取材したことが,ことごとく記事になるわけではない。そりゃあ紙面の制約があると、編集者はいうかもしれない。だったら、「知る権利」を代表しているような口を利くなと、一般人は思う。報道される事々に取捨選択が偏ると、まるで世の中がそれへの「関心」に満ち満ちていると思えるような事態が、生み出されるからである。

 たとえば、「小室圭さん」の場合、皇女は「公人」である。むろんその根拠は、憲法に規定された「国民の象徴」的存在に連なる暮らしをしてきたからに他ならない。ことに今回の皇女の場合、婚約者の母親の「借金」がモンダイとなった。それを皇女の「持参金」という名の税金が補填するのではないか(それはいくら何でもたまらないよね)と感じる「国民の関心」が、その後のあらゆる「報道」の(問いかけの正当性の)根拠になっている。だが私などは、母親の借金モンダイをどうして息子が応えなくちゃならないんだよと思う。そんなに(知りたければ)母親に訊けばいいじゃないか。だが、どっこい、母親は「一般人」だから、メディアが問い詰める根拠がない。だから息子に「攻撃」が差し向けられているってわけだ。

 放っといてやれよと、私は思う。そもそも論から説き立てると、30年ほどの間「象徴的存在の人質」として(当人の意思に関係なく)制約してきた。だから「持参金」でご苦労様って「解放」してやるんじゃないのと思う。「持参金」は「くに」からの慰謝料みたいなもんだ。1億5千万円ほどというが、毎年500万円とみて30年でその額になる。「くに」の人質の身代金としては、それほどべらぼうとは思わない。その「元皇女」の持参金が何にどのように使われようと、口出しする事柄ではない。金銭モンダイとしては、それで十分ではないか。

「持参金」は、結婚後も惨めな暮らしをしてたんじゃ「くに」の面目が立たない(からもたせる)とか言ってる「皇室報道記者」がいる。だが、結婚後一般人になるってことは、「くに」の面目の領域から外れるってことじゃないか。もし「くに」の面目を言うのなら、貧しくて餓死寸前になっている「民」のことを取り上げて、面目を語れよって、思うね。

 一般人になってしまえば、猥雑混沌の海に溶け込んで、忘れられるってのが、これまでの作法である。いやじつは、結婚後も「公務に類する」お役目を果たしていると「皇室報道」はいうが、伊勢神宮で果たしているお役目は天皇家の私事。あれこれ口出しすることじゃない。それをどこまでも(情報メディアが)追っかけて、月額いくらのマンションに住むとか、セキュアリティがどうなってるとかいちいち「報道」するものだから、「読者」はますます出歯亀のようになって私事に「関心」の刃を向ける。こういうのは、「公正」とはいわないんじゃないか。

 皇室だろうと一般人だろうと、慇懃無礼だけは堅持して容赦なく下世話な話に持ち込むってのは、江戸の頃からの(いや、浪速の時代からの)庶民の流儀。それを「報道」というのなら、そこにはそこの「公正」がある。文春砲のような、情報の刃は、「正義」を振りかざさない。こちらは、一つひとつ、ではこのメディアは何を根拠に「正当性」を主張してるのかと明らかにしなければならない。「世論」というわけの分からない雲霧のような下世話が背景にあると開き直る。だから、大目に見られているんだよ。

 つまり「人の下世話」が「情報」化社会というなら、「公共性」をかなぐり捨てなさいよと思う。「公共性」を被って「知りたい権利」を掲げるなら、取材したことを勝手に取捨選択しないで「報道網」に載っけなさいよ。なによりも、取材記者が,何を根拠に「情報」を追い回しているか、つねにつねに明らかにしておきなさいよと思ったね。

2021年9月27日月曜日

36会第二期第13回seminarご報告(2)電気自動車も化石燃料に依存している

 今回の講師はミヤケさん。お題は「電気自動車・水素社会・原発」の3題噺。そう書き始めてから見た、今朝(9/27)の朝日新聞の朝刊の「記者解説」欄は《EV転換 世界の潮流》。まるでこちらの関心を推し量ったような解説記事である。

 EUが2035年までにガソリン車の新車販売禁止を掲げ、アメリカは(州による違いはあるが)2030年に新車販売の半分を「排ガスゼロ」にすると宣言している。日本はハイブリッド車で他の先進国の自動車業界をリードしているが、菅首相が2035年までに新車販売をすべて「電動車」にする方針を発表した。記事は、「気候温暖化」というEVへの切り替えの大義名分と同時に、製造業界の覇権争いがあり、同時に、EV化によって業界の雇用が12%ほど減少することとか、他業種が競争に算入してくるという業界事情を紹介している。平坦な道ではないことが分かる。

 しかし三宅さんの3題噺は、この「電気自動車」へ切り替える事情の技術的側面を、根っこから説き起こそうというもの。24枚のパワーポイントのシートを用意して、話し始めた。

 ポイントは「お題」の通り、大きく分けると次の3点にあった。

(1)EV(電気自動車)とガソリン車、ハイブリッド車のCO₂排出量の比較

(2)水素社会をつくる方法と問題点

(3)期待される高温ガス原子炉の安全性と技術的メカニズム

 順次説明していきましょう。


(1)電気自動車

 EUが2035年以降のガソリン車販売を認めないと決議したことで、世界の自動車会社が動き始めました。日本はハイブリッドの開発で世界をリードしていたのですが、EUのこの決議は,日本企業との競争も意識したものといわれています。

 三宅さんの説明は、しかし、「軽四輪EV(電気自動車)」は可能かとはじまりました。日本の自動車の4割を占めているのが、軽自動車です。扱いやすい。税金も安い。細い田舎道もそれなりに走れる。近頃は、「遊べる軽」と銘打って、機能性では普通車に劣らない性能の面白いのまで売り出されています。

 だが、EV車化するとなると、軽(ばかりではないのだが)の寸法制限が大きな問題になります。また、軽であるが故の「安価」さにも負荷がかかるので、全部の車をEV化するというのは、ムツカシイというのが、三宅さんの見立てです。

 車両側のフロアパネルを変更せずにLEJ(リチウムエナジージャパン)製の大容量電池パック(重さ230kg、縦1m×横2m)を配置すると考えた「EV用リチュウムイオン電池」を図示して説明する。リチウムイオン電池の単体(セル)88個組み込んだものがひとパック。これを二パックも組み込むと、普通車の床下は電池だけでいっぱいになる。軽では寸法に収まらない。

 ミヤケさんは、EVのエネルギー消費について、まず勘違いをただす。通常電気自動車がCO₂排出ゼロと言われているのは、車のtank,つまり電池から車輪までのことを指している。だが、その充電する電池が化石燃料を使用しているとしたら、「tank to wheel」ではなく、石油発掘の油井から車輪を回すまでのCO₂排出量を算出しないと、公平ではない。「well to wheel」を区別するよう促す(とはいえ、車両本体の全部を生産するのにどれほどのCO₂を排出するかまで計算しようとすると、複雑な工程が関わってくるから、とりあえず、車輪を回すことだけに限定して、EVとガソリン車とハイブリッド車の比較をしている)。表にすると次のようになる。

      「well to tank」 + 「tank to wheel」 = 「well to wheel」

電気自動車……  42.9%              66.5%            28.5%

gas HV  ……    82.2%              30.2%            24.8%

ディーゼル車…    88.6%              17.8%            15.8%

ガソリン車……    82.2%       15.1%            12.4%

 gasHVというのは、ガソリンハイブリッド。

 各車の「well to tank」は油井から精製・輸送・発電・送電を指す。

 「tank to wheel」は走行効率。

 それらの合計「well to wheel」が熱効率ということになる。総合効率は、電気自動車が最高となっている。

  それをCO₂排出量で較べると、電気自動車はガソリン車の1/3、72%の低減となる。1台当たり年間1万㌔走行の場合のCO₂削減量は約1トンとなる。gasHVの1/2だ。

 各国の発電における「火力発電の占める割合」と「CO₂排出の関係」をグラフにした「EVモード走行時の電力を充電する際のCO₂排出量(発電時の電力構成比とCO2排出量)」をみせる。火力の占める割合は、フランス、ブラジルの10%を最低に、カナダ、ペルー26,27%とつづき、45%ウクライナと間が開いている。日本は「世界平均約68%」よりは少なく「53%」ほど。チリやブルガリアと同じ程度。80%を超えているのは、イタリア、中国、インド、インドネシアと高くなり、93%のタイ、マレーシアと多くなり、98%ポーランドと火力依存が高くなっている。

 CO₂排出量は火力依存が低いほど低く、高くなるほどおおむね排出量が多くなる。おおむねというのは、(たぶん)車社会化の度合いがどの程度かによって、排出量が増減するからであろう。もしCO₂だけに焦点を合わせると、化石燃料から離脱することが、ひとつの道となる。フランスが低いのは原子力発電が圧倒的だからであり、ブラジルが低いのは、水力発電が主力を担っているからである。

 つまり、電力が何に依存して作り出されているかを問わなければ、CO₂排出削減という課題にはなかなか結びつかないのである。(つづく)

2021年9月26日日曜日

36会seminarご報告(1)低空飛行の持続

 昨日(9/25)、36会seminarを開催しました。前回に続き、新橋の「ももてなし家」が快く会場を引き受けてくださり、ワクチン2回接種者のひとつの「社会実験」として「会食」まで行うことができました。そのせいでコロナ感染が発生するかどうかは,まだしばらく様子を見なければなりませんが、まもなく傘寿に手が届こうという高齢者の集まりとしては、行き帰りの交通機関も含めて、参考にできようかと考えています。

 さて、7月のseminarより参加者が3人減りました。一人は別の予定と重なったからでしたが、あとの二人は、急遽入院したご亭主とそのお内儀でした。「行き交う同窓生の十字路」と『うちらぁの人生 わいらぁの時代』(2020年刊行、p4)に記された新橋のお店の経営者ご夫妻。「36会」の名付けの親であり、「seminar」の言い出しっぺです。

 9月3日、ミスズさんからこんなメールが入りました(以下、カタカナ人名は仮名です)。

《今ミコちゃんから電話がありました。マンちゃんが、肺に膿が溜まり、S病院に入院したそうです。16日に、胃癌の初期で入院が決まっていましたが、今朝突然身体が動かなくなり、診てもらったらしいです。コロナ騒動で、家族も会えないみたいです。》

 マンちゃんは長年糖尿を煩っていましたが、一病息災の「低空飛行」。「いつ墜落するか、わからんけえの」と冗談を口にしていました。79歳の今日までご夫婦で店を守って働いてきました。いやじつは、仕事を辞める機会を逸して、ずるずると来てしまった事情がありました。私は60歳の定年で仕事を辞め、気ままな暮らしで、ときどきマンちゃんと顔を合わせては、おしゃべりをしていました。お店が入っているビルが近々建て替えになるから、それを機に店をたたむと言っていたのです。ところがビル建て替えの話が突如宙に浮いてストップしてしまいました。

 どうして?

 東京五輪です。それが2013年の9月に決まり、いきなり東京は建設ラッシュになりました。この国の建設業者も政治家たちも、ハコ物が得意中の得意。何に使うか、どう使うかよりも、まずは建ててしまえ、後は野となれ山となれってワケで、糊口を凌いできたのです。この建設業界のバブルのあおりを受けて、お店の入っているビルの建て替え話は五輪後に持ち越されました。悪いことにコロナウィルスの襲来があり、五輪は延期、立て替え話はさらに持ち越されて、さて五輪が終わったこれから再始動というところでした。

 考えてみると、彼ら夫婦の仕事納めの話が8年延長されてしまったわけです。東京五輪さえなければ、71歳で仕事を納める段取りであったのが、79歳まで延長になりました。思えばよく頑張ったものです。

 ミコちゃんに電話を掛けますが、なかなかつながりません。ミスズさんにその後の様子をうかがうと、次のようなメールが来ました。

《マンちゃんの病名は膿胸です。重症の時は、外科的手術ですが、初期だと思います。呼吸器内科に入院しています。管で膿を吸いとり、薬治療していくのだと思います。ミコちゃんの方は、今日から店に出ている筈です。姪御さんに手伝ってもらいながら頑張るそうです。夜固定電話に掛ければ繋がります。ただし足が不自由なので、長く長く受話器を取り上げるまでかかります。気長に待っていてあげて下さい。》

 ミコちゃんに電話をしました。彼女はマンちゃんの入院に驚天動地、面会もかなわないとあって、ますます気落ちしていました。コロナがもたらした「分断」です。マンちゃんの入院先が彼らの息子さんのマンションから見えるところとあって、息子さんが病院とのやりとりを引き受けているようです。

 つい3日前、ミコちゃんから電話があり、seminarに顔を出すと元気そうな声が聞こえました。マンちゃんの退院が10月1日になるとも話していました。良かったねえ。皆さんへのマンちゃんの病状報告をしてくださいねとお願いして、seminar当日を迎えたわけでした。

 ところが、ミコちゃんは現れません。ミコちゃんを気遣って訪ねて行っていたMs.Greenさんからメールが入っていたのを見忘れていました。Ms.Greenがやってきて、話してくれたのは、マンちゃんの病状はまだ見通せないということ。それを知ったミコちゃんはすっかり気落ちして、seminarに顔出しできないという話でした。

 そうだよね。何十年も連れ添っていれば、それも四六時中店番をして一緒に過ごしていれば、ほぼ一心同体。連れ合いが弱れば、気持ちも落ち込むわなあと思いました。

 そういうわけで、seminarのお話はまた後ほどになりますが、コロナ禍ワクチン接種2回済み高齢者の集会という「社会実験」がはじまったのでした。できれば「アルコール付きの会食実験」にしたかったのですが、お店の方がかっちりと規制を守っていて、提供してくれませんでした。果たして、次の「解除」の時に「アルコール規制」も解除になるかどうか。その「実験」は次回ご期待くださいってことになりました。

2021年9月25日土曜日

ステイ・ホームズの大冒険

 ご近所のストレッチ仲間との月齢飲み会は、コロナウィルス禍のせいで1年以上も中絶したまま。ワクチン接種が2回終わり、そうだ、家でやらないかという独り暮らしの男やもめのお誘いもあって、昨夜飲み会を催した。準備から片付けまで全部、この方にお引き受けいただいて、4人ほどのお客は、手ぶらで身柄を持って行くだけ。軽費は割り勘ということにしたが、主催家のおもてなしに、甘えっぱなし。主催家は経費負担なしにでもすればよかったかなと、朝目が覚めてからかんがえている。悪かった。

 当初2時間と限っていたのに、話が弾んで延長戦をさらに2時間近く行ってしまった。これで、誰かコロナに感染でもしようものなら、馬鹿な年寄りが・・・と嗤われてしまうが、公民館の体育室でストレッチ体操をしてのちの振る舞いであるから、飲み会が感染クラスターになるわけではない。公民館にクラスター発生ともなると、飲み助たちのモンダイではなく活動のモンダイということになる。ま、お酒の提供が感染を広げるわけではないという社会実験ではある。もちろん、どうだモンダイないだろうと証明したいわけ。

 今日はこのあと、新橋に出る。36会の第二期大13回のseminarが行われる。これも、実施するかどうか、悩んだわけだ。感染が収まりつつあるというが、なぜ収まりつつあるのか、わからない。専門家は、次の第6波を心配して、用心せよと言うばかり。もちろん用心してるわいと思うが、政府は(選挙を意識してか)緊急事態宣言解除後の甘い話ばかりに重心を移しつつある。メディアも、すっかり総裁選の浮かれていて、総裁が替われば日本の政治ががらりと変わるような幻想をまき散らしている。政府の甘言に踊らされているように受け取られるのは片腹痛いが、自助、共助。公助は知らんわいとうそぶいて出かけることにしている。こちらは、7月に自前の社会実験をして(安全を確認して)いるから、怖くはない。

「コロナ時代の年寄りの社会行動」をテーマに、話をまとめてみようか。それとも、別様の、長年手入れもせずに使いに使った身体が不調となって、故障が続出する事態になるやもしれない。「社会行動」というより、「自助の行方」でもまとめた方がいいかもしれないよと、もう一人の「わたし」が呟いている。

 そうだねえ。そういう歳になったよね。

2021年9月24日金曜日

英雄か敵か? 歴史だ! 虫けらだ。

 劉慈欣『三体』(早川書房、2019年)が届いた。いつ図書館に予約したかも忘れてしまっていた。刊行から3年待ったことになる。どうしてそれほど評判なのか,今は忘れてしまったが、読み始めて思ったのは、文化大革命のことが起点になっていること。でも私のはやとちり。文革は、この物語全体の展開のきっかけに過ぎない。

 早川書房だからSFだとは思っていたが、基礎科学自体を疑わせる格好で物語が進行する。いわば壮大な陰謀論的な仕掛けが読み進める推力になる。

 こう考えてみると、文化大革命は壮大な陰謀論、そのものであった。どこに帰着点をおいていたのか、毛沢東の心中はわからないが、ただひとつ言えることは、動態的陰謀論。行き着く先は、行ってみなければ分からない。ただ「現状ではだめだ」ということだけは分かっている。革命を指導してきた最高指導者の(こんなはずではなかった)という思いが、「近代」世界の大逆転イメージさせた。国家・社会の大逆転を図らねばならない、私利私欲ではなく民草が幸せに過ごすことができるような「共産社会」を再構築すること。それも「社会関係」を根こそぎ切り替えるには、人々の胸中の根柢から転換させねばならない。つまり「文化大革命」だと考え田ものであろう。

 国家権力は握ったものの、膨大な人口を抱え、人々はそれぞれの身を置いている社会関係とそれぞれの欲望に遵って、懸命に生きようと振る舞う。社会の指導的な立場に立つ「前衛」をわずか7%とみても、1億人近い数になる。それだけの数の国家、社会の指導的立場に位置するものたちを、中国共産党が「統制・指導」できるのか。当時、対岸にいて「文化大革命」の狼煙火を見ていた私も、いよいよ中国も国家権力を握る「革命」から、もっと根っこからの「文化革命」に乗り出したと、毛沢東の「革命構想」の壮大さに驚いていたのであった。

 それが単なる「権力闘争」にすぎないと分かるのは、社会の維持に欠かせない食料の確保にさえ頓着しない「革命」の進行であり、反科学、反近代の、打ち壊し運動に終始していたからであった。その結果、数え切れないほどの餓死者を出すことになり、中国社会そのものがすっかり原始社会に戻るような事態を招いたのであった。

 この『三体』物語の起点にある「文化大革命」とは、その社会運動によって翻弄された物理学者の子どもが、絶望のあまり怨嗟を募らせて地球外の生命体に「力を借りようとする」こと。つまり「文革」と相似形の力の作用を期待して「三体」との関わりが始まるところに、この小説を読み進めるモチーフが形づくられる。

 ひとつ印象深い場面の描き方をしている。文革の時に紅衛兵として物理学者の殺害に手を下した人たちが集められ、この物理学者の子どもから懺悔を求められる場面。「だれも懺悔しない」と題されたこの節の終わりの方で、「あの時代の一人の紅衛兵の墓の前に」たたずむ大人と子どもが交わす言葉がある。

「この人たちは英雄だったの?」と子どもが訊ねる。大人は

「いや、違う」と応える。

「敵だったの?」と子どもが訊ねると,大人はまた首を振る。

「だったら、この人たちはなんだったの?」と訊かれて、大人はこう答える。

「歴史だ」

 そうなんだね。庶民は「懺悔」さえ価値を持たない。「英雄/敵」にすら値しない。単なる「歴史」として、生きて死ぬしかないのだね。そういう達観が本書を貫いているといえるかどうかわからないが、著者の劉慈欣は、それを大宇宙の中に地球をおくことによって人類というものを「達観」して「虫けら」と呼ばせている。陰謀論的な仕掛けは別として、その著者の心持ちだけは、読むに値すると思った。

2021年9月23日木曜日

秋分の日

 今日は秋分の日。これから一日ごとに、夜時間が長くなる。近頃の気ままな祝日の変更を腹立たしく思っていたから、こういう自然時間の「祝日」が好ましい。暑さ寒さも彼岸までというのが嘘のように、今日も暑くなりそうな気配。だがもし、山でテントを張るような遊びをしているなら分かるが、確実に冷え込んでくる。テントに焚き火台をおいて木を燃やすのが、急に頼もしく感じられる季節の到来である。

 事故があってまもなく半年。山もテントも、まだちょっと先のことに思える日々を過ごしていると、遅々として進まない恢復に、気がもめる。あとしばらく。冬になる頃には、テント泊は無理としても、山歩きはできるかもしれないという感触を,リハビリに感じている。ま、半年はおとなしく医師の言うとおりに恢復努力を続けようと考えている次第。

 昨日は、北本自然観察公園を2時間ほど散歩した。気温も上がり、日差しに出ると汗ばむほどだが、公園内は樹陰が多く、風の快適さが感じられるほどであった。水彩画を描いているグループがあり、これはこれでいい楽しみですねと思う。でも、絵を描くという行為とグループというのが、どうもうまくマッチしない。絵が別件逮捕のように利用されているような気もするのだが、ま、いいか。他人様のことだ。

 じつは来週、この公園で「植物観察ガイド」をする師匠の下見に付き合った。むろん私は、師匠のチェックを聞くだけの受容装置。この装置はもう古びていて、右から左へ聞くそばから通り抜けていく。写真を撮って、あとで確認しようと心掛けは悪くないが、後処理がきちんとできない。原発を非難するなんてもんじゃないね。自分の後始末もできない。

 原発と違うのは、技術的な始末方法が分からないからではない。それは分かっているのだが、丹念にそれに取りかかる気性が培われなかった。ずぼらなのだ。でも原発も、安全措置を施す事を怠っていたなんて聞くと、案外、私のずぼらといい勝負。つまり、そもそもヒトが行うことに論理的な道が開けたからといって、それを鵜呑みにしてはいけないってことか。

 西欧発の概念導入と同じで、モノゴトを純粋化して受け取り、ヒトの粗忽さやズボラさを算入しないで、実行過程を設計してしまう。どうも、そういう悪いクセが私たちにはありそうな気がしている。

 欧米人は、どうこういっても,そう簡単にヒトの悪いクセを抜きにして社会設計をしない。というか、社会設計するときには、ヒトの悪いクセを取り込んだ設計をするという風に、設計思想の次元を編み上げる。それを日本では、性善説なのか性悪説なのかと二元論的に振り分けて、「問題点」をぼかしてしまう。

 じつはそうじゃない。欧米の社会論的展開は、そもそもヒトである自分を信用しないことから立案が始まる。性悪説というより、神ではないヒト=不完全な自分という哲学を組み込んでいるのだ。ところが性善説という「わたしたち」は、自身を大自然の子、即ち無垢に生まれ、邪悪な心持ちを外から持ち込まれなければ悪心を抱かないで育つと、信じている。現実はそうではなく、いつの間にやら,取り囲む親や世間の色に染められてこそ「育つ」。育ってみると、性善とか性悪と一筋縄でくくれるように分けられない。当の本人すら、何で己がこうなってこんなコトをしているのか、わからないことに取り囲まれている。自分の身につけてきた感性や感覚、言葉のことごとくが、出所も根拠も不明のことばかり。となると、まずわが身を疑うことから、世界と向き合うことがはじまる必要がある。

 ズボラな私が、何をきっかけに、自己吟味のようなことを身につけるに至ったのか。たぶん、一つ思い当たるのは、自分に自信がなかったからだ。周りに言説明晰、判断明快、行動果敢、自信過剰な人がたくさんいたのが、東京での大学生活であった。それに比して私は、思っていることが言葉にならない。でも口にすると、反射的に打ち据えられる。相手の言うことを聞いていると、なるほどそれもそうだと半分得心する。じゃあ残りの半分は違うと言えばいいようなものだが、その根拠が分からない。オレはこう思ってるんだと断言するような力強さが生まれてこない。結論先取り的に聞こえるかもしれないが、そこまでズボラなのだと我がことを感じてはいた。

 そんな私が、どうしてこの年までのほほんとやってくることができたのか。それはそれで考えて見ると紆余曲折のある面白いテーマにはなる。また、そのテーマを私の人生の浮き沈みに押し広げてみると、季節的な分岐点(つまり春分の日や秋分の日)がどのあたりにあったかも、わからないではない。人には言えないことも含めて、わが身の裡には心当たりもあるように感じる(どうして他人様に言えないのだろうと考えると、それがまたそれで、一つの論題となる)。

 いずれ機会があれば、わが身から引き剥がして、記すこともあろう。これから夜の長い日がやってくるから、焚き火を囲んで、思い出したことを書き止めていく。そう考えるだけでも、何かの転換点・メルクマールを得たような気がしている。

2021年9月22日水曜日

過激思想と宗教と世直し

 アフガン支配のタリバン復活にともなって、ふたたびイスラム原理主義の宗教支配がテロとあわせて取り沙汰されているが、私のイスラム・イメージはこれとは全くの反対側にあった。井筒俊彦のいつくつかの著作を読んだだけであったが、コーランには苦しい現実を生き抜く人々への社会批判的な言葉が連ねられている印象を持ってきた。

 それが、イスラムとテロとが同一視して用いられるようになったのは、やはり9・11からであったろうか。それからのアフガンやイラクのアメリカとの関係については,もうご承知の通りである。だがタリバンの復活にあたって、女子教育のことがどうなるか注視していたが、やはり女子を学校から排除する方向が打ち出されているらしく、それだけでほとんどテロと同一視する視線は,変わりそうもない。

 藤原聖子『宗教と過激思想ー現代の信仰と社会に何が起きているか』(中公新書、2021年)を読むと、テロに及ぶ過激思想がまとっているイスラム原理主義についても、その過激な言葉を帝国主義との相関で解きほぐし、宗教教義から直に過激な言葉が導き出されているわけではなく、現実世界の展開が深く関係していると述べている。つまり、別様にいえば、テロ組織はその自らの行動の正統性を宗教教義においているように言葉を繰り出しているだけと位置づけて、モンダイの在処を捉えるには次元の異なる世界イメージが必要とみている。

 藤原聖子は,イスラムだけではなく、キリスト教も仏教もヒンドゥ教や神道系過激思想も取り上げて追いながら、異端と過激思想とを区別する。そうして昔ほど「異端」が問題にされなくなったのは、宗教そのものが「個人化・多様化し、正統そのものが消滅したため」と明快である。ではどうして、「過激」は宗教をまとって正統性を保つ必要があるのか。その指摘が面白い。

《宗教的過激思想の目標は「世直し」なのである》

 つまり、まるごとの世界を変えようとする主張は、宗教の「基礎付け」を得なければならないと言えそうだ。「社会体制」を転換させようとするには、総力戦が必要となる。その総力というのは、社会も文化も経済も政治も、ことごとくの相関関係をまるごとまとめて転換を図らなければ、「革命」は成就しない。それには存在の根底に関わる「裏付け」がなくてはならない。そう考えるところに、「反逆の正統性」が宿るように思える。もっとも藤原聖子は《……だから過激思想はよいものだというのが本書のいいたいことではない》と、( )に括って付け加えている。

 ところが、本書の文中には、明らかに、この「宗教的」から逸脱する「過激」暴力行動が噴出しているとみている。つまり「世直し」とはいうものの、その実行部隊となる人々には、日頃の抑圧や差別・格差の鬱屈を晴らす思いが先走ることがしばしば見られる。その人たちにとっては、まるごとの「世直し」はタテマエ、鬱憤晴らしがホンネという振る舞いが実行に移されている。テロ集団の統制などというものではない。あるいは、集団まるごとが鬱憤晴らしになって、ISとして女子生徒を誘拐し、強制結婚させるという奴隷まがいの扱いをする。アフガンのタリバンに、その様相はあるのかないのか。あっても、それを統制できるのかできないのか。となると、タリバンの内部統制をぐらつかせるよりは、外部に向けた「原理主義」を貫徹する姿勢の方が、当面重要とされて、ますます「原理主義的に」過激になると思われる。

 面白い解析であった。そしてまた、イスラムだけもキリスト教・ユダヤ教という一神教だけではなく、多神教でさえも、過激思想が噴出する「世直し」に関心を持つひとたちが出来しつつある時代相に、今私たちは直面している。だって私でさえ、今の日本には「世直し」が必要だと感じているのだから。

2021年9月21日火曜日

ものぐさになる

《人とはぬ庭もわが身もあかつきて苔むしけりなものくさの庵》(徳和歌後万載集)

 と川柳に詠われた「ものぐさ」は、その235年後の私のようでもある。

 さすがに苔むすほどの風格のある古民家暮らしではない。だが「ものくさ」は若い頃からの気性とあって、歳をとるにつれてますます昂進し、なにもかもめんどくさい。カミサンという同居者がいるから、ちょっとはあかつきないように習慣化した生活の型が保たれているが、そういう他者の目がなければ、ほぼ間違いなく生活習慣は崩壊する。

 TVの番組を観ていると、東京から北海道の「山の中の一軒家」に40代で移住し、自らの手でリフォームして暮らしている夫婦が登場する。その二人の気ままでスマートな暮らし方を支えているのは、何事もめんどくさがらずに手を掛けて取り組む姿勢。山羊を飼い、いずれ馬を飼って幼い頃に親しんだ乗馬を楽しみたいと連れ合いが望み、馬の住処まで準備するご亭主。微笑ましいだけでなく、その姿自体が現代の都会ぐらし批判に通じている。田舎育ちの我がカミサンも、若ければねえ、と寄る年波を感に堪えぬ面持ちで振り返る。

 そうした暮らしは、私の「自然観」もあって、好ましく感じる。だが、仮令40年ほど若くても無理だったろうなと自答している。何より私は、ものぐさだ。5人兄弟の三番目に生まれ、上二人の兄を見ながら育ったものの、とうてい二人のまめまめしいモノゴトに対する向き合い方にはかなわないと感じつつ、我が振る舞いの限界を見極めて自律してきた。何より努力するということが身に合わない。自然体と口にはするが、要するに必要に迫られて、致し方なく身につけることは身につける、覚えなければ過ごせないことは何とか覚えるという為体。英語なども、学校の試験に必要だから覚えはしたが、普段遣う暮らしがなければとんと忘れて、おぼつかない。海外旅行も、中学英語で事足りると分かってからは、それ以上の精進を望まない。

 今でもそうだ。健康維持のために歩くということは、本末転倒ではないかと思うから、やらない。だが、リハビリに通うとなると、片道5㌔でも歩くのはいとわない。今もそうやって往復10㌔ほどを歩いてきたばかりだ。

 この私の自然観というのが、ケセラセラ。なるようになる、なるようにしかならない。「であることとすること」とかつて近代政治学者が日本社会の人の習性を無責任の体系と批判したが、意志的に「する」ことが、社会関係をぶち壊す大東亜戦争というのを目の当たりにしたせいか、嫌いであった。「なる」のは厭わない。では、どのような環境がもたらす「自然」を「なること」として受け入れるのか。どのような社会関係の要求する「ならい」を「なること」と認めるのかとなると、じつはなかなか煩わしい解析が必要になる。なにしろ、日本の社会そのものが、「じねん」ということを良しとして、意図的に人を操作するように動かすことを嫌うから、それって「なること」と同じじゃないかと,別の「わたし」が呟くからだ。「なる」という「じねん」も、仮令私ごととして考えても、社会関係との動態的な概念なのだ。

 そうなんだよね。結局、どこからが「私の自然/じねん」なのか、その都度吟味しなくちゃならない。それはそれでめんどくさい。ただひとつ、わが身を振り返るってことだけはさほどめんどくさいと思わない生活習慣を習いにしてきた。つまり「心の習慣」にしてきたから、自問自答の積み重ねは(多分、歳をとったせいだと思うけれども)、面白いと感じている。その一点で、近代政治学者のいう無責任の体系から外れていると思う。

 ものつくりということは、ものぐさの対極にある。習慣化すれば何ほどのこともないとは思うけれども、この年になって今更とも思うから、ものつくりに対する私の敬意は、いや増しに増す。

 断捨離とか、片付けということも、ものつくりに類する精神に起源を持つ。苦手も苦手、結局いろんな身辺の雑事を残したまんま、ケセラセラとなるような気がする。

《人とはぬ庭もわが身もコロナ禍にステイホームのものくさの今》

2021年9月20日月曜日

熟睡の条件

 右肩の強張りも緩やかになり、歩行も2時間くらいは続けられるようになった。それでも、夜中に7時間半ほどを続けて熟睡するというのは、なかなか、ない。昨夜は,久々にそれが叶い、今朝6時半頃に起きた。昨日、何をしたっけと「熟睡の条件」を探っている。

(1)作朝は3時半に,目覚ましで起きた。カミサンが5時過ぎに出かける。別に付き合う必要はないのだが、朝のコーヒーと朝食は一緒に摂ることを「原則」にしているから、私も起きて、見送るまでの時を過ごす。

(2)カミサンは出かけ、私はブログに記事をアップする。

(3)朝8時過ぎ、電話がかかってきた。東京に住む子どもの頃からの友人の奥さん。友人は肺を病んで入院している。目下奥さんが姪御さんの手伝いを得ながら、お店を開けている。もう数えで八十にもなるから、ご亭主の病気を機にお店を閉めようかという話。私はもう19年も前に引退しているから、当然のように同調する。これを機に、幼なじみの近くに移住しようかと考えたという。彼らは息子に住居を譲り、自分たちは高層マンションに住んでいる。子どもの近くに住むのがいいよと応じるが、家賃が高いしねえとため息をつく。そうか、収入がなくなるというのは、個人事業主としては、一挙に懐の心配につながるわけだ。

 それもあって9時過ぎに、ご近所の「賃貸住宅」の様子を探りに出かける。我が家より駅に近いところに,結構、ある。分譲かもしれない。URの賃貸とか住宅供給公社の団地もある。エイブルとか大和リビングと連絡先を記した5階建て住宅もある。それらをメモして家へ引き返す。その途中、床屋が開いているので、予約をする。

(4)なんとかエイブルという不動産会社に電話を入れる。入居希望者の年齢をいうと、「65歳までの方の申し込みとなっております」と慇懃無礼に断られた。URの連絡先に電話をすると、一階に空きが二つある、広さは、家賃は,申し込み方法はと丁寧に教えてくれる。年齢を話しても「自立生活ができますか」とだけ確認して、OKという。いいじゃないかとおもって、友人の奥さんに細かいことを伝える。と、彼らが今住んでいる湾岸の高層住宅もURの賃貸らしい。「何じゃな、こちらとそれほど変わらんな」と安くないという。ほかの5階建て団地の家賃と較べてみると、(広さは違うが)3万円~4万円の開きがある。「仲介手数料なし、礼金なし、更新料なし、保証人なし」という売り出し文句が、この家賃の差になるのだろうか。

(4)散髪に行く。ほぼ1時間、髪を切り髭をあたる。肩こりをほぐすように片手を当て、もう一つの手のひらでポンポンと軽くたたくのが心地よい。もうこの散髪屋と付き合って30年以上になる。

(5)お昼を済ませ、図書館へ本を返却に行く。少し雑誌を読見、何冊か借りてから、生協まで足を伸ばし、明日以降のお昼を買ってくる。日差しはあるが、気温がさほどでもなく歩くのが心地よい。本と買った物とが重く感じられる。重さは5㌔くらいだが、それが重く感じられるのは,まだ体調が戻ってないため。体の前にリュックを持つようにしたりして、のろのろと歩いて帰る。帰宅後に見てみると、1万3000歩ほどを歩いている。

(6)あとのことは、ほかの日々と変わらない。そうそうひとつ、夜9時に寝ないで、11時前までTVを観て過ごした。

 熟睡の条件として一番効き目があったのは、(5)。よく歩いてはいるが、普段だって、8000歩から1万歩は歩いている。昼寝を30分くらいうとうととしたが、朝3時半から夜11時前まで起きていたこと。ということは、リハビリが効いて、体調が戻ってきているということか。水分摂取も、ほとんど意識することなく、適当にやっているのが、効果的だったのかもしれない。

 こうやって、熟睡と昨日の行動と私の体調とを照らし合わせて,ほぼ毎日推し量っている。事故以来、恢復の目安として医師が話をした半年まで、あと20日あまり。ぼちぼち、事故前の日々の身の習いが蘇ってきているのかもしれない。

2021年9月19日日曜日

小さな声と多面体と社会の系

 昨日(9/18)の朝日新聞のオピニオン&フォーラム面は、ちょっと面白かった。

 面積を大きくとっているのは、養老孟司の「システムから見た五輪」。「五輪と無関係である」養老が、グローバルなシステムが林立して大きくなりすぎ、人々が理解したり制御するのも困難になったと、今回五輪を見て取る。動き出すまでも大変だが、いったん動き始めると「決まった方向に、決まったように進んでいく」。「止めようにも止まらなくなる」と解析する。そして、「システムそれだけでも運営が大変なのだから、システム間の問題になると、そもそもどちらが主導すべき問題なのかを含めて、ほぼお手上げという状況が発生する。」と今回の事態をクールに考察する。オリンピックを価値的に見ない緯線がクールさの元になっていると感じられる。そこが面白い。

 紙面の6段を占める養老の「寄稿」の下に「多事奏論」という下2段2/3を占めるコラムがあり、天草支局長・近藤康太郎がエッセイを書いている。

「9・11で見た世界 真実の声は小さく うそはでかい」と見出し。20年前の出来事のとき現場近くの公園で、ジョン・レノンのイマジンを低声で歌う人たちとゴッド・ブレス・アメリカを大合唱する”愛国者たち”を較べ、その後のアフガン攻撃へと話を移行する。そして当時日本の国会に呼ばれた中村哲医師の「自衛隊のアフガン展開は有害無益」という発言が政治家たちの非難にさらされたことを取り上げ、「真実の声は小さい。真摯に説明すれば、しぜん、言葉は複雑になる。あたりまえである。世界は複雑なのだ」と結論への水路を作り、総裁選や選挙であたふたする今の日本の政治家を評して、太宰治の「斜陽」の言葉を引用する。

「人間は嘘をつく時には、必ず、まじめな顔をしているものである。この頃の、あの、まじめさ。ぷ!」

「田舎の百姓たる私」を自称するこの方がどんな方なのか知らないが、「神は微細に宿る」ということを語り出す手口はいかにもジャーナリストの鏡。太宰治を引き合いに出して、ご自分の思いと重ねて「ぷ!」というのも、見事なものである。だが、総裁選に夢中の自民党の政治家たちにつばを吐きかけるためにツインタワーの「真実の声」を引き合いに出すのは、ちょっとバランスを欠いてはいないか。20年前の9・11とアメリカのアフガン攻撃のなれの果ての現在とを対比するのなら、ご自分の身にしみる「真実」を挟まなければならないのではないか。

「微細に現れた真実」が、なぜ広く社会化されていかないのか。「ゴッド・ブレス・アメリカ」を歌う人々が「イマジン」を歌うようになるには、何が必要なのか。そこに介在するジャーナリストの役割ってものがあるんじゃないか。そこへ踏み込んでこそ、養老孟司のいう林立するシステムに食いつく「真実」のエッセイになるんじゃないか。これじゃあ、「微細に宿る神」も、型なしになってしまう。

 ところが紙面はよくしたもので、下2段の残り1/3が二つのエッセイをつなぐ。「メディア空間考 政治家のSNS」というコラム。

 記者の伊藤大地さんが「多種多様な姿 まるごと評価」と題して、河野太郎総裁候補のコミュニケーションを遮断する「ブロック機能」の多用を取り上げ、政治家の「私・個人」と「公・仕事」との使い分けを、SNSにこと寄せて述べている。SNSは「固定されたアイデンティティを解体する」装置だとみて、専門家がSNSを通じていろんな分野に口出しすることが「役割」だけで回ってきた社会感覚を壊していると批評する。つまり「私・個人」と「公・仕事」を対立的に見るのではなく、一人の個人の多面体の一側面とみてとることによって、じつは「(人としての)まるごとの評価」につなげるのではないかと希望的に展開する。

 こうも言えようか。

 養老の指摘するシステム世界の息苦しさ、近藤の「真実」の微細な、つまりパーソナルなありようとを、伊藤大地記者の「個人の多面体」がつなぐ視線。面白い視線ではある。

 だがしかし、政治家のSNSといえば、先のトランプ大統領の4年間の振る舞いが、まず目に浮かぶ。あそこに、多面体は見て取れたか。あの場に現れた「まるごとの評価」は、ヒトというものがどれほどに他者を誹ることによって自己確認をし、自律していると錯誤するのにいかにヒトを蹴飛ばしていかねばならないかを示していたのではないか。

 伊藤大地記者は、SNSの用い方というか、リテラシーを語っていたのであろうか。それとも単なるSNSの機能を説いただけであろうか。養老の目にとめた社会すシステムに対するに解体されていっている「個人」の寄る辺なさに踏み込んでこそ、SNS隆盛の時代のマス・メディアの論考となるのではないか。

 三題噺的で面白かったが、いまひとつ重心が高くて、不安定な感を拭えなかった。

2021年9月18日土曜日

動物の言葉

 動物が言葉を交わすということは、クジラの歌声とか「犬語」「猫語」で説明されてきた。これまでも、例えばウグイスの谷渡りというのは、危険が迫っている「警戒音」と聞いてもいる。それらの「叫び」も、ボディランゲージみたいなものと(私は)受け止めていた。

 ところが、鳥の言葉に「名詞」があったり、遭遇している事態を示す「文章」だったりするという研究をしている方がいると知って、面白いと思った。つい先日TVで観たこと。京都大学の若い研究者。

 シジュウカラの発する言葉が、ヘビだとかタカだとかを示す「名詞」だと突き止める。ヘビがいる、集まれ! という「文章」にもなる。むろん、食べ物だ! 集まれ! ともなる。そのシジュウカラの言葉が、カラの混群のなかで、コガラにも、ヤマガラにも、ゴジュウカラにも、あるいはメジロやリスにまで共有されていっているという観察は、「ことば」の発生を考える上でも、面白い「発見」である。

 しかも、シジュウカラの「蛇」は、コガラやヤマガラでは別の「音」になっている。つまりそれぞれが自分種固有の「おと」を発しているけれども、種を超えて意思疎通の役割を果たしている。彼らはバイリンガルどころかトリリンガルだったりもするわけだ。

 蛇がやって来ているということに対して、カラ類の小鳥たちが寄り集まって来て騒ぎ立て、蛇を撃退する映像も、まるで昔のディズニーの映画を観ているように明快なリアリティを湛えていた。ディズニー映画の方は、言うまでもないが、擬人化した作劇法があり、映像の組み合わせをうまくすることによって、あたかも言葉を交わしているかのようにつくられたものだった。カラ類の画像は、あたかも擬人化されたもののように感じられるほど、迫真性を持っていた。

 これは私たち人間も、ボディ・ランゲージを用いている上に、さらに「ことば」を遣って子細に意を交わす術を身に備えているから、動物たちがそうして振る舞っていても、不思議ではない。むしろ、やっと動物研究のレベルが、人を研究する水準に近づいてきたと言い換えた方がいいかもしれない。

 いろいろな五感が働いてコミュニケーションがとられることは、人も他の動物も変わりはない。そう考えることは、生きとし生けるものがみな「たましい」を持っているように受け止める(日本人的な)自然観を持っている人には、わかりやすい。

 食べ物だ、あつまれ! と声を出してしまったコガラが、やってきたシジュウカラに追い払われ、それがヤマガラに横取りされていく姿は、観ている分には微笑ましい。ところがその事態にコガラが、タカが来た! と声を上げて、横取り組を追い払う映像が加わる。となると微笑ましさを通り越して、「ことば」がただのコミュニケーション手段という機能的な断片ではなく、ことごとくコガラの文化として「ことば」が位置を占めていることを意味する。それがまた、ほかのカラ類や近縁の(リスを含めた)動物たちの「文化」にも影響を与えて(オオカミ少年のような存在を算入するようになって)いくかもしれないと感じさせる。これも、面白い。

 どこまでが、擬人化した仮説になるのか。「ことば」自体がそのような「普遍性」をもって「生きていくこと」に作用すると考えられるか。興味が刺激されて、我が身の言葉に、ますます無明が広がる気配を感じる。

2021年9月17日金曜日

文章を褒められた

 先月、私の(ある活動の)後輩Hさんに誘われて奥日光に出かけ、おしゃべりをした。そのとき、4月の私の山での遭難のお話もし、あとでそれを記した「至福の滑落」を送ってご笑覧いただいた。律儀にも「先日の文章の感想をお送りいたします。」と前置きして、読後感を送ってくれた。

 この後輩という人は、大正教養主義時代の文筆家の空気を存分に吸い身に備えた方。演劇グループを率い、脚本・演出にも力を発揮してきている。ただ、コロナ禍でグループの活動が休止状態にあって、いまはちょっと次元を変えて、若い人を対象とした全国演劇活動の本拠地の手伝いをしているという。

 その彼の読後感を(手前味噌ながら)ここに紹介したい。褒められています。この方のような「物書き」に褒められたのは、なんともうれしい。褒め方もまた、いかにも「物語」の推移を追うような演劇的構成に目をとめている。文章というよりも構成に焦点を当てているように思えて、さらにうれしい。彼の了解を得ているわけではないので、一部書き換えてあることをご承知おきください。

 なお、私の子ども世代ほどの歳の隔たりがあるので、私に対して「先生」という敬称を遣ってくれているのは、なんとも面はゆいが、それもまた、大正教養主義のなせる技と読み取ってくれると思い、訂正しなかった。

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                      『秩父槍ヶ岳 至福の滑落』を読んで


 まずF先生のお話になられた秩父槍ヶ岳という山のことを調べたら、確かに「槍」というよりは「穂をかぶせた槍」のような形をしていた。正確に調べたら、槍の穂先などを納めておく筒状のものは、刀と同様に「鞘(さや)」と呼ぶらしい。鞘をかぶった槍、暗喩的にも、見た目以上に危険に満ちた雰囲気が、その名からも立ち上がってくる気がした。

  埼玉県警の令和3年山岳遭難発生状況というサイトの4月12日の項にF先生の事故報告通りの記載が在った。「秩父槍ヶ岳・70代・男性・滑落・軽傷」。しかしF先生の文章に書かれていたものは、そんなものでは言い表せるものではないのだから、事実と真実には大きな差があるというものなのだろうと思う。話はそれるが、秩父周辺の山々でも事故に遭う人が多く、事故を起こしているようであった。そこには死亡や重傷となる方も多くあり、埼玉県に限らず、「山」というものは甘く見ると大変な目に遭うものであるのだ。

 F先生の手記を拝読して、まず感じたことは、文章に引き込まれたということだ。

日光である程度のお話を伺っていたのに、文章の醸し出す臨場感、高揚感に引き込まれ、とてもどきどきした。事前に話の結末は分かっていた。F先生は、滑落しながらも生還するのだ、と。しかし読んでいた途中で感じたのは、「このまま死んでしまうのではないか」という言い知れぬ不安や切迫感、「結末はどうなってしまうのだろうか」という焦燥感だった。それだけご自身の体験に即した、ご自身の独白に説得力がある文章だと感じた。

  まず舞台である秩父槍ヶ岳の紹介と登山ルートに沿った行程の説明も臨場感があった。刻々と「その時」が近づくような、時刻の経過を示す書き方も面白い。

 そして文章中、白眉の描写は「実はその少し前、もう少し山林の上へあがって・・・」という部分である。滑落へとつながる運命へと誘う山の魔力が、妖しく立ち上ってくるのを感じた。

 そして滑落の場面。ご本人の記憶に基づいた回想と、S氏の叙述の両方を比較できるように書かれていた。まさに真実と事実。かくも異なるものか、と感じ読んだ。

「沢の姿は、誘いこまれるほどの美しさ」「おい降りてくれよ、まるで呼びかけているように太い木が、」山そのものか、もしくはそれ以外の人外の魔なのか、本人も自覚するほどに、何かに誘われている。「天にも昇る気持ち」と後述されているが、それほどの魔がその時にF先生の間近に居た、ということか。と同時に、F先生ご自身は、冷静に、客観的に、滑落の原因を分析し、そして結論へと至っていらっしゃる。

 山に誘われたことも、ご自身が今まで積み上げてきた経験と経験の中でついた思考のクセも、突然舞い降りた滑落の瞬間に至るまでの必然のように捉えて述べている。そしてその必然の突き詰めた先に待つものは、明記はしていないものの、「死」に至るということだろう。

  滑落自体が至福、滑落して生き残ったことは至福か。分からない。しかしその結論として、山とある程度の距離を取る結論に至ったのは、至福かもしれない。なぜなら、その滑落で命を落とす運命もあり得たとすれば、やはり生き残り、至福の瞬間をかくも冷静に振り返ること、文章化すること。私においては、それこそが至福のように思えるからだ。

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  この度、日光でのお時間を頂戴して、夜にビールを飲みながら、お話を伺う機会を得て、とても楽しい時間を過ごすことができました。F先生が山で大きな事故に遭い、九死に一生を得た話は、とても興味深く、万が一、も、あり得た、自然と一体になった感覚を伴う滑落が、至福であったという逆説的な感覚に、事実を超えた真実を感じました。

 私の感想には誤解もあるかもしれませんが、それこそF先生のみが実感したことに、そもそも他者が介在し解説する余地など微塵も在りません。たわいのない戯れ言だと片付けてください。

 日光で湯の湖の周辺をほんのわずかではありますが、一緒に散策できたことは私にとっては貴重な時間でした。F先生は怪我のリハビリだ、と仰っていましたが、私が子連れであっても、やはり歩くスピードは速く感じました。

 6000mにも及ぶネパールの山々に挑んだ人も1500mの山で死と隣り合わせになる山という場所は、やはり非日常の特別な場所なのでしょう。亡き母が、自分の実力で、できる範囲の中ででは在りますが、山歩きを愛したことも、再び思い出すことができました。

 秋雨前線の停滞の影響か、F先生をホテルの玄関にて見送った後、私達はろくに日光を歩くこともできませんでしたが、娘二人はこの旅が楽しかった、と話しておりました。

「F先生にもらった花火」を埼玉に帰ってから、2回に分けて楽しみました。それまで花火を手に持つことができなかった娘らは、その時初めて自分の手で花火を持ち、楽しみました。

 コロナウィルスの流行は政治的な思惑に左右されながら、現場の生徒・教師を翻弄し続けています。せめて皆、無事息災であることを願うばかりです。

 F先生の体調が回復し、また機会がございますれば、覚張先生や大木先生とも合わせてお会いしたいと考えております。たわいのない日常が、早くこの手に戻れば良いのですが。

 またお会いできる日を楽しみにしております。

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2021年9月16日木曜日

seminar実施もハラハラドキドキ

 今月末のseminarを実施するかどうか、判断を迫られた。7月の時よりも感染者数は減っている。ワクチンを二度接種している高齢者ばかりの集まりだ。

 そこへ持ってきて、seminarの言い出しっぺの一人、「同窓生の交差点」を担ってきたHくんが「肺に膿が溜まって」入院した。私は「言い出しっぺ4人の誰か一人に何かあったときが、このseminarが終わるときです」と『うちらあの人生、わいらあの時代』に書いた。いよいよ終わりの時が来たかと肚をくくった。

 幾人かの方にHの変事を知らせた。皆さん心配すると同時に病状のことなどを調べたり、知り合いの医師に聞いて、「肺炎より重い」などと知らせてくれた。seminar言い出しっぺのほかの一人は、Hがいなくては今月のseminarはできないなと口にした。ところが別の方が、「(こういうことがあるから)会えるときに会っておきましょう」と激励の言葉をかけてくれた。それで、実施することにした。

 集まるに当たって、最大限の自衛措置を講ずることは、前回同様、身についている。皆さんそれぞれに気遣っているらしく、すぐに出席の返事をくれた方もいるが、ギリギリまで様子を見るという方もいた。あるいは、参加者が少なければ、取り消しますと条件をつけて、出席の連絡をくださった方もいる。その返事の集まり具合が、ハラハラドキドキしている気配で、いかにも経験を積んだ後期高齢者の体感を表現しているようで、頼もしくも面白い。

 こうして実施を決断し、皆さんに「案内」を送った。

 今回は、seminarのあとに「近況報告」の時間をも設ける。会食をしながらになるが、個別の歓談だけでなく、一人一人皆さんに「近況報告」をする。「会えるときに会っておく」ことの実を体現するためだ。

2021年9月15日水曜日

食べることと生態系と人間

 タイトルが気になって、藤原辰史『食べるとはどういうことか』(農文協、2019年)を手に取った。面白い。12歳から18歳までの8人の子どもたちと著者との公開セッションに若干加筆したもの。私も、4月の入院のとき、つくづく我が食の過剰を反省したところであった。

 食べ過ぎということや贅沢に食べるという文化としての食については、動物との違いとか生き物の命を奪っているという事実に言及するやりとりから入っていったのだが、その途中に差し挟まれた著者の指摘が、面白かった。

 食というものが生態系にどのような意味を持つかに言い及んで、餌となった食べ物が消化器官を通過して分解され、排泄され、土や海に流れてさらに分解されていく生態系の一過程とみる。すると、人間もまた、捕食者というよりも分解者であり、数多(あまた)いる微生物や細菌と同様の働きをしている。それはそれで「人間とは何か」を考えさせる論題の戸口を示していたことである。

「食べるとはどういうことか」と問う主体が抜け落ちる。神のような視点か。食物連鎖や生態系に視点を置いて考察する観点は、自然を自律的存在として前提するところから必ず発生する問いである。ではそれを、我が実存とどう結びつけているか。

 その点で藤原辰史は、1000兆個にも及ぶと(数えたわけではないと著者は)推測される人体にとりついて共存している菌類に言及して、たとえば化粧品や石鹸を用いて、顔を洗うことによって皮膚表面についている菌類を排除、・殺菌してしまい、そのために皮膚が荒れていってしまうことを指摘する。そうか、そういうふううに、外部に屹立する自然と我が身の実存とを橋渡しする地点があったか。そう考えてみると、人の暮らしに入り込んでいる「衛生観念」がどこを起点にして築かれているかを、問い直さなければならなくなる。面白い。哲学的なモンダイ提起だ。

 この著者、1976年生まれ。今年45歳になるか。若い人がこのように新しい哲学的な視点を築いていると思うと、頼もしい。というか、私たちの子ども世代も、なかなかやるわいとほくそ笑みたくなってくる。

2021年9月14日火曜日

やってみなけりゃ分からないこと

 先日、カミサンをさいたま新都心へ車で送っていくとき、一時停止違反をしてしまった。「えっ、止まったよ。」

 と私が言うと、その若い警察官は

「ええ、タクシーが来てたから止まったのは見てました。その前のところです。」

  と、100mほど前の、少しカーブして来る道との出合いの地点のことをいう。これまで何度も通っているが、気がつかなかった。

「あそこは止まれだったの?」

「ええ。そうです。」

 送り届けるカミサンの時間が迫っていたので、警察官のいうとおりに書類手続きを受け取り、罰金も支払った。後日、同じ道を通ることがあって、一時停止の看板があることを確認した。概ねまっすぐなこちらの通りをメインと思い込んでいたから、表示に気がつかなかったのだ。

 ところが、ひと月以上もたった頃、「臨時認知機能検査通知書」というのが送られてきて、県の中央部にある「運転免許センター」へ(指定の日時に)来て、検査を受けるようにと通知を受けた。イヤだけれど、やらざるを得ない。高齢者は、違反の罰金に加えて、こうした余分なチェックを受ける、罰則がある。

 それに、昨日(9/13)行ってきた。県の中央部、鴻巣市にある「免許センター」までの車の時間をネットで調べると、1時間2分とある。でも国道17号線の上尾の通過は、いつも混雑している。30分は余裕を見て、家を出発した。ところが朝ということもあって、交通渋滞は、上尾へ行くまでもずいぶんと続いていた。分岐のところで、センター到着予定時刻が、集合時刻を15分もオーバーしている。しかも、naviの案内は、上尾を通らず菖蒲町を通過する裏道を案内する。そちらの方へのトラックなどが渋滞気味に並んでいたので、上尾への道に切り替える。

 ところが案に相違して、こちらの方は、下り線ということもあるのか、スムーズに流れている。naviの予定時刻は、一般道は時速30kmで計算するようにして算出している。17号線は時速60kmで流れているから、順調に到着時刻が縮まり、10分前には到着できると表示された。やったあ。これで、間に合う

 ところが、主要道を外れてから、田んぼの中を案内する。そうしてついに、周りは全部田んぼというところで「目的地周辺です。案内を終了します」と、naviは終了宣言をしてしまった。おいおい、こりゃあ困るよ。

 近くで畑仕事をしていた人に聞く。戻ってローソンの角を右へ曲がれば分かると、教えてくれる。戻る。北の方に大きな建物が見える。あれだ、とそちらへ向かう。大きな駐車場に車を止めたときが、すでに集合時刻。受付は4階。エレベータで上がり、人がたくさんたむろする広いロビーを眺めると、机を置いておじいさんが片付けに入っている。私の姿を認めると名簿をチェックして、

「よかったよ。あと一分遅かったら、ここも片付けちゃったからね。ああ、急がなくていいよ。もう説明は始まっているけど、慌てなくていい。経費の750円を用意してね」

 といいながら、建物の奥へと案内する。そこで経費を納め、説明している会場へと向かう。中年の女の方が説明している。免許証を渡し、指定の席へ座る。時計を外し、ボールペンを出して説明の方へ集中する。ここからあとは、一年前とほぼ同じだ。

 すぐに検査に入り、30分足らずで検査は終了し、その採点とそれの発表とその後のことについて、私を案内したおじいさんが言葉を加えて、終了した。入室から終了まで1時間半。読みかけの本をあらかた読んだ。検査結果は、一年前と同じだった。

 そのおじいさんに、「この免許センターはいつ建ったの?」と尋ねる。昭和63年というから、32年も前のことだ。私の車はまだ購入して7年だから、いかに古いnaviデータでも、狂いが出るわけがない。じゃあどうしてなのか。疑問符を残したまま、帰途につき、順調に走ってお昼ちょっと過ぎに帰宅した。

 車の走行時間のこと、免許センターの位置のこと、naviの誤案内のこと、それもこれも、やってみなければ分からないことばかりだった。なんとか滑り込みセーフの態であったが、危うかった。昔のように、地図をきちんと見てどこを曲がると事前に確認していれば、問題なかったのにと、これまた反省をしている次第。やはり私自身が、変わってきたのかな。

2021年9月13日月曜日

独りぼっちの不安

 昨日のつづき。「独りぼっちになる不安」とはなんだったんだろう。

 それまで何もかも親任せにしてきた「暮らしの基本」を自分で取り仕切らなくてはならないという「不安」を感じていたわけではなかった。賄い付きの下宿だったこともあるが、そうした日常的なことにさほどの価値を置いて、自分の暮らしをみていなかったからだ。じっさい、大学在学中、特別奨学金を受けていたのだが、どうやってそれを受け取っていたか、思い出せない。当時銀行に口座を持っていたわけではない。郵便局に定期的に受け取りに行っていた覚えもない。多分当時の大卒の初任給の6割くらいに相当する多額を、どうやって受け取っていたのか忘れてしまうほど、日常の「暮らし」に価値おいて受け止めてはいなかったとだけは言える。むしろ、田舎と都会の暮らし方の違いが圧倒的であった。

 お恥ずかしい話だが、公衆電話を掛けようとして、どうダイヤルを回したらいいかわからず、電話ボックスのドアを開けて、通りかかった人に電話番号を見せ、どう回したらいいか尋ねた覚えがある。電話番号の「×××-****」のダッシュがどこなのか分からなかったのだ。アメリカ映画を観ているとダイヤルが二つついていたのを使い分けると思っていたのに、それがない。田舎の電話は、ぐるぐると電話機の横についたハンドルを回すと交換手が出て、「何番をお願いします」というと、つないでくれるという旧式であった。あるいは、食堂に入ったとき、お皿にご飯も盛り付けた洋式にナイフとフォークが添えられていて、戸惑ったこともあった。そのときは一緒にそのお店に入った同学年の友人が、器用にフォークの背にご飯をのせて口へ運ぶのを真似はしたものの、文化的な落差にショックを受けた覚えがある。

 こうした文化的なショックは、その後いくつも体験することになるが、「独りぼっちになる不安」は、そうした文化的な落差に対応することへの不安も、混じっていたとも思える。学校では同じ教科を学び、同じ試験を受けはしたものの、過ごしている環境とか考えていること、用いる言葉の抽象性などは、ちょっと想像もつかないほどの落差を感じさせ衝撃的であった。それまで、それなりに本を多く読んできたという自負を持ってはいたが、そんなものはいかほどのものでもないと突きつけられたようであった。

 こうも言えようか。初めての山歩きのようなもの。おっかなびっくりでバランスをとり、難所を通過する。岩場にとりつきながら、ルートを探す。もし先行者が一人でもいれば、それについて行けばよい。前を歩く人が言ったところであれば、私もいけると見当をつけることはできる。その水先案内人がいないことの不安が、東京へ出てきたときに私が抱いた「独りぼっちになる不安」だったと言えるように思う。

 それはたぶん、その後の自律の動機となったし、ほかの人との違いを認知し、自分がそう感じたり考えたりしていないのは、なぜだろうと自問自答する最初のステップともなった。その「違和感」は、その後氷解するどころか、ますます大きくなり、後期高齢者になった未だに続く私のクセとなった。クセにまでなってみると、「独りぼっちになる」ことは何の不安もなく、むしろ当然となった。他人と対立し、口も利かなくなってついには断絶するということも、なんの苦もなくやってしまうようになった。

 そこまで考えてみると、「独りぼっちになる不安」というのは、それまで水先案内人とか先行者がいたりしたことの残響ではないか。とどのつまりヒトは独りで生きて行くものだと思うようになってから、「不安」が消えた。それがいつの頃からなのか、もう思い出せないが、そうした諦念は(悟りを開くように)一挙にやってきたのではなく、あれやこれやを経験していくことによって、緩やかに身にしみるようにかたちづくられてきたと思える。

2021年9月12日日曜日

仁慈の心と出撃拠点

 もう60年と半年も前のことになる。東京に出てきて、一人暮らしをする準備を、じつはことごとく長兄の世話になった。兄はその翌月から大阪の勤務になっていたから、彼の下宿をそのまま引き継ぐように私は移り住むことになった。下宿のあった北区西ヶ原四丁目へは、駒込の駅から染井通りを抜けて10分ちょっとだったろうか。東京外語大学の裏手に位置する住宅の立ち並ぶところにあった。下宿のおばさんは小学生の姪っ子の世話をしている気さくな方。兄は、部屋の掃除の仕方、水洗便所の使い方、食事のときの作法など、細々と教え、それらは私にとっては、岡山の片田舎と東京の文化の違いを乗り越えていかねばならないハードルのように感じられ、身が引き締まる思いがしたものであった。

 二階の隣部屋には(兄と顔見知りの)外語大の4年生が住んでいて、シューベルトの冬の旅が一番のお好み。バッハやモーツァルトの音盤を掛けて聴かせてくれて、これもまた、文化の大きな違いを感じさせた暮らしの出発地であった。

 いや思い出したのは、下宿に落ち着き、兄が赴任地へ赴く3月の下旬。駒込駅まで見送りに行ったときのこと。

「じゃあ、元気でな」

 と、兄が手を上げて改札口へ向かおうとしたとき、なぜか突然目から涙があふれ出した。行きかけた兄は、引き返してきて私の肩をたたき、

「大丈夫だよ。心配ない。やっていけるよ」

 と、言葉を足して、改札口を通って振り返り、ふたたび別れの手を上げた。

 あのときに溢れてきた涙は、生まれて初めて「独りぼっちになる」ことへの不安だったのだと、いま思い返している。

 考えてみると、生まれてそれまでの18年間、いつも兄弟に囲まれていた。それは同時に、兄から弟への慈愛に満たされて、何の不安を抱くこともなく世間と向き合うことのできる私の出撃拠点でもあった。しかも、一度も慈愛を受けているという風に、我が身を対象化することなく、ごくごく自然なことのようにもたれかかって生きてきた。そうした自分の立ち位置が、兄に「じゃあ、元気でな」という言葉を掛けられた瞬間に、分かったのであった。引き返してきたときの兄の言葉は、その私の胸中の揺らぎを瞬時に見て取ったものだったろうが、そうか、あれこそが「慈愛」であったと今朝方の夢で思い出されたのであった。

 あのときの出撃拠点とは、田舎と東京との文化の違いに向き合う拠点であり、これから独りで学生生活を送る自律の足がかりであり、「大丈夫」というのは、それだけの生育歴を身につけてきているはず、狼狽えずにちゃんと向き合って行けという激励であった。それこそが、兄が弟に向けた「慈愛」。

 三男坊の私は普段、すぐ上の次兄にくっついて遊んでいた。次兄はいろいろと工夫をして遊びをこしらえ、年上の仲間たちの間に私を入れて、面倒を見てくれていた。兄の情景にいつも浮かぶのは、次兄。長兄は、もう一段上の世界に位置して、三男坊の私からみると手の届かない文化世界を生きているエリートに見えた。ことに高松から海を渡った玉野に移ってきて、方言の違いもあって学校で孤立してからは、私の文化の吸収先は、もっぱら二人の兄に依存しっぱなしであった。と同時に後に、それが世間と向き合う根拠地となったと、いまならば言える。

 その長兄が生まれて、ちょうど今日で、84年目。すでに故人となって7年になろうとしている。夢枕に立ったのか。

 大丈夫だよ、まだ、やっていってるよ。

2021年9月11日土曜日

二十年という歳月と身の記憶

 ニューヨークの貿易センタービルに飛行機が突入し崩落するのを観てから20年。あのとき私は「あ、これは戦争だ」と思った。どういうところに身を置いて、そう思っていたのかと、今振り返っている。

 印象的だったのは、団塊世代の数学教師が特撮映画でも観たように、大声ではしゃいでしゃべり回っていたことだ。そりゃあ、ちょっと違うだろうと私は、出来事の象徴性に身を寄せて白い目を剝いていた。出来事の象徴性というのは、上り調子のアメリカ経済の突出した象徴である貿易センタービルに、同様にアメリカのそれを象徴的するジャンボジェット機が二機も突入する。ハイジャック犯が自爆するというよりも、アメリカの誇る物的隆盛が自爆するという構図。

 その出来事の動的誘因となったテロリストたちが起点とした鬱屈は、見えていない。でも私はそれを感じていたと、今でも思う。なぜか。多分私の身の底に、1945年の空襲におびえながら逃げ惑う気分が刷り込まれているからだと、そのときよりさらに半世紀以上前の幼い我が身の体感を振り返っている。はしゃいでおしゃべりする数学教師と私とは、その身に刻んだ記憶が違う。私は、バブル時代の暮らしそのものになじめなかった。経済的な贅沢に、つねに居心地の悪さを感じ続けていた。

 こう言い換えることができようか。

 そこまで怨恨を募らせたテロリストたちのみている現実世界。そういうことを別世界の出来事としてのほほんと暮らしている私たちの日常との象徴的衝突。それでいいのかと我が身が我が身に反省を迫っている、と。その自問自答の視覚化されたのが、貿易センタービルの崩落ではないか。これは戦争だ、という直感は自分が自らの60年近い径庭(のもたらしたこと)へ仕掛けた戦争ではなかったか。

 二十年たった今、アフガンからの米軍の撤退という出来事を目にしている。アフガンにアメリカが介入するコトの始まりは、ソ連のアフガン侵攻にあった。そのソ連軍に抵抗する勢力の一つがタリバンであり、ロケット砲などの装備を(裏から手を回して)提供していたのがアメリカだったことは周知のことであった。そしてソ連が撤退し、アメリカの援助装備で力をつけたタリバンがアフガニスタンの主導権を握り、テロリストの巣窟となった。そして、アメリカへの攻撃である。まさしく、アメリカの所業がアメリカに戦争を仕掛ける象徴的な出来事となった。

 もちろんそれは単純に、アメリカの自業自得よと言って済ますことのできるモンダイではない。アメリカの暴力装置が全世界に配置されていることによって保たれてきた「平穏」というものに、全世界が依存してきた。世界はそのように絡み合っている。だから、イスラムのテロリストたちが考えるほど「敵/味方」が截然と分かたれているわけではなく、彼らの存在が抑圧し募らせている怨恨があることを、かれらもまた現実世界のこととして受け入れなくてはならないのだと思う。因果はめぐる風車、である。

 二十年経って振り返ってみると、物はすっかり復元している。記念碑的に置かれていても、それはコトを忘れてしまうヒトのクセに対する警告、あるいは忘れていいよという代替。めぐる因果の先に、逃げ惑うアフガンの人たち、飛び立つ米軍の輸送機にしがみついて振り落とされる姿が見える。貿易センタービルの中にいた人たち、ジャンボジェットの乗客であった人たちと重なっている。それこそを、忘れては困るよ。そう感じる。それを忘れると「戦争」さえなかったことになってしまう。私の人生の起点となった身の記憶が、違った意味で「戦争」を呼び起こしている。

2021年9月10日金曜日

季節のせいか復調の兆しか

 このところ気温が下がっている一昨日(9/8)は、雨も落ちず曇り空。東松山の国立武蔵丘陵森林公園へ出かけた。植物案内の師匠が同行。だが私はどのくらい歩けるかが主眼。4時間を目指している。もちろんゆっくりでないと草臥れる。植物案内というおまけがついていると、頭は素通りするが、テンポはのんびりになる。

 コロナ禍になって何度かここに足を運んでいるが、それでも全部のルートを歩いたわけではない。どこへ行こうと「抜け道あります」と具合がいいから、おおよその自分の位置を頭に描きながら、ついて歩く。師匠は、この森林公園を探鳥や植物観察のフィールドにしている。にもかかわらず、全体像が頭に入っていないのか、細かい自分の現在地が跳んでしまうのか、今どこにいてどちらへ向かっているかがわからなくなる。つまり、山歩きのGPSのような役割をする私の出番もあるというものだ。

 師匠は、気ままに歩く。これといって当てがあるわけでもないから、メインの舗装路ではなく草をかき分けるような踏み跡をたどるルートをとる。だから私も、初お目見えの道に踏み込むようになる。それは、面白い。何が面白いのだろう。初めて通るという感触なのか、どちらを見ても、昨日までの雨を吸った草と木がびっしりという環境なのか。でも暑くはない。半袖の私は、ちょっとしまったと思っている。蚊がいる。心得たもので、師匠は長袖。私は、つい公園という言葉にだまされて(そうではないことが分かっているはずなのに)、半袖にしてしまった。時々、ペチペチと腕をはたきながら、歩く。

 前方を、鳥観の一脚望遠鏡を抱えた方が横切る。その人のあとへ、うんと距離を置いてついて行く。池や大きな水たまりや庭園風に設えた蓮池へ出る。「トンボ公園よ」と師匠はいう。ショウジョウトンボやシオカラトンボ、イトトンボが飛び回っている。と、アラサーの男が私のカメラを見て「撮ってくれ」といって、庭園中央に設えられた風通しのよいお休みどころに座って待つ。カメラのシャッターを押して「送ってあげるからメールアドレスを教えろ」というと、「スマホを手放してしまった。鶴ヶ島に住んでいる」とちょっとおぼつかない日本語で話す。「じゃあ今度、ここであったらね」と師匠が横から口を出す。師匠の脇には、先ほどの鳥観の望遠鏡男がいて、アオゲラはいるが、アカゲラは山へ帰って行ってると話している。あとで聞いたが、その鳥観男が「あまり相手にしない方がよい」と師匠に言ったという。話しかけて、お金をせびるようなことをしている、と。う~ん、彼の異国人も苦しいんだなと、チラリと思う。

 ジャコウアゲハが目の前を舞って、すぐにそれを忘れる。ウマノスズクサに卵を産み付ける、ほらこれよと教わるが、その脇の大きな葉とどこが違うか、分からない。関心がないから、目がとまらないのだと、我が身のふがいなさを知る。

 大きな池にかかる吊り橋を渡る。水気をたっぷり含んだ樹林を抜ける。これがガンクビソウ、こちらは仲間のヤブタバコと、歩きながら目にとまる草の名を次々と師匠は口にし、ときどき私はカメラに収めるが、そのうちふ~んと聞き流すようになって、門前の小僧からも降りてしまう。

 おや、もう2時間も歩いている。肩の強張りは、感じない。今日は調子がいいようだ。そろそろお昼にしようと、広い親水公園へ降りてゆく。テーブル付きのベンチが何十脚も置いてあるが、まばらに年寄りが腰掛けて食事にしている。貸し自転車の修理点検をしている若者が二人、向こうの方の動きを引き受けている。

 15分程でお弁当を済ませて、再び歩き出す。向こうの方で、キ~ッ、キ~ッと笛を吹くような声を出して、幼い子どもが抱き上げる親に逆らっている。2番目の孫がこういう声を出して泣いていたなと思い出す。師匠は「ああ、あの子は眠いのよ」と平然としている。池が広がる。そちらにお目当ての鳥がいるかどうか見に行こうと師匠の足が向く。私は、こちらを歩いたことがない。

 先ほどの奇声を発していた子が、父親にあやされて、まだ泣いている。「すみませんねえ。眠いんですよ」と親が恐縮して、私に声を掛ける。「いえいえ、たいへんですね」と言葉を返す。

 池に7羽くらいのカルガモが群れて泳いでいる。この夏前に生まれたご家族さまって感じ。おっ、カイツブリがいたと師匠が指をさす。イソシギがパタパタと細かく羽を動かしながら、右から左へ飛び木陰に入った。うしろから、とことこと駆け寄る足音がして振り向くと、先ほどの奇声の子が、ニコニコ笑いながら駆け寄ってくる。やあ、元気になったねと声を掛けると、後ろから来る父親の足の陰に身を隠す。

 行き止まりかと思った池の縁から、樹林の中の斜面を登る道があり、師匠は勝手知ったるところのように、上っていく。中央口近くのレストランに出る。以前この近くのベンチに座ってお昼を摂ったことがあった。ということは、引き返すルートに入っている。ま、いいか。それくらいの時間ではある。公園の向こう1/3ほどを残して、帰途についているが、それでもあと1時間半はかかるだろう。

 どこにいるのか分からないという師匠を、私が案内して、「野草園」へ向かう。秋の七草の案内をしているが、「晩夏の花」も何十種と見かけた。ナンバンギセルとかノハラアザミがきっちりした輪郭を見せて鮮やかであった。ヤマハギとかシラヤマギクが楚々として花開いている。ゴンズイ、ウメモドキ、ヨウシュウヤマゴボウなどの木の実も、まさしくたわわに実って、秋到来を告げている。カメラに収めたのが60種以上になる。これらも、師匠が口にするから耳を通るが、すぐに抜けてしまう。

 粘土質でぬれて滑りそうな斜面を用心して歩いたりしながら、車に戻ったのはほぼ2時。見込み通り、4時間の行動時間となった。肩のこりを感じない。涼しかったせいだろうか、それとも、我が身が回復の兆しを告げているのであろうか。

2021年9月9日木曜日

「とき」の原点、重陽の節句

 今日は九月九日、重陽の節句。なぜ奇数を陽数といい、偶数を陰数といったのか私は知らない。旧暦が月齢を基準としていたことからすると、目で見て判別できる月齢こそが、「とき」を知る手がかりだった、目で見えるものを陽、見えないものを陰と考えたとみてとれる。でも太陽も、日々見えていたではないか。単に目に見えるかどうかではない。「とき」を刻むとは、目に見えないことが(後付けになるが、文字通り時々刻々)変化していること。一日という「とき」は太陽で見極められるが、ひと月という「とき」は太陽で見極められるだろうか。一年という「とき」は何によって見極めることができるか。次元の違う「とき」の指標を組み合わせることによって目視化するということは、その指標となること自体に「違い」が見て取れる必要がある。だから、月齢となった、と「とき」の原点に興味がそそられる。言うまでもなくそこでいう「違い」とは暮らし方に由来するものでなくてはならない。

 一日の「とき」は、太陽の動きが明白に示す。夜が来て、朝が来る。それを一日とするというのは、とらえやすい。同じ日々が経巡るなら、それだけで支障はないが、ひと月とか一年という、少し広い単位で「とき」の巡りをとらえようとすると、何を目に見える指標とするか。農業を生業とするか商業を営んで移動しているか、ノマドのように遊牧生活をしているかによって、目安にする事柄は違ってくる。

 太陽暦発祥の地とされるエジプトでは、ナイル川の氾濫を目安にしたらしい。そして、1年を365日と定めたのだが、微妙にずれが生じることに気づいた。天体の明るい星シリウスに着目すると、ずれを生む端数が分かり、「閏年」を用いて補正をした。さらに補正を精確にした太陽暦をローマ法王グレゴリウスが定めたというのが、現在用いられている太陽暦だ。

 他方、現在も太陰暦を用いているのは、サウジアラビア。これは、月の満ち欠けを目安としたことから、355日とされている。砂漠を旅するアラビアの商人たちは、灼熱の太陽よりも涼しい夜に移動する際に目にする月の満ち欠けを好ましく思っていたのかもしれない。太陽暦の365日+αと月齢の29.5日+βとのつじつまを合わせるというのは、地球の周りを公転する月と太陽の周りを公転する地球との、ずれを数値化して、計算式を考えていくことになる。世界がグローバル化したことによって、それが必要になった。その観察が目視によって行われていた人の力に、恐れを抱かないではいられない。

 いま私たちが知る「旧暦」というのは、東アジアで用いていた太陰暦。いまは「太陰太陽暦」と呼ばれ、「月の変化」と農業に必要な太陽の動きとを両方取り入れ、「閏月」をいれて太陽の動きとの間に生じる差を埋め合わせるようにしていた。紀元前1300年頃の中国の殷代ですでに採用されていたというから、日本には、おそらく中国(あるいは朝鮮)を通じて入ってきたものであろう。

 奇数を陽数といい、偶数を陰数と呼ぶのは陰陽五行説に由来すると思われる。なぜ、奇数が陽数で、偶数が陰数なのか。紀元前3000年頃に成立したとされる陰陽五行説に踏み込めば氷解するのかもしれないが、今私の関心の距離は、そこへ踏み込むまでには及ばない。

 ただ、陰/陽に関する好悪の判断は、陰陽五行説には含まれていないと、私のか細い陰陽五行説知識は訴えている。陰と陽、闇と光なども、二項対立するというよりは、相補的に世界を構成しているとみていた。あるいは五行説の「木・火・土・金・水」も、ある種の生態系を構成するように、相互牽制的であると同時に相互依存的であり、善し悪しを超えてそれらの連関によって世界が構成されているとみていたという「自然観」だと受け止めていた。

 だからそれらの二項が善悪二元論のように対立的に位置づけられた価値観は、ユダヤ教やキリスト教という絶対神に依る「自然観」が働き始めてからではないか。つまり、遙かに後世のもので、陰陽五行説のころには、今(日本の)私たちが抱いている、陽を良しとし、陰を悪しとする印象論的価値観はついていなかったのではないか。その片方(いまの時代に悪しとされることの実在)を視野に入れて受け入れる感性こそが、エコロジカルな視点を組み込んで原点に迫り、重陽の節句という移ろいに人生を重ねて言祝ぐ道筋をつけるように思うのだが、どうだろうか。

2021年9月8日水曜日

明晰と混沌の動態的システム

 コロナウィルスの感染拡大が高止まりとはいえ落ち着いているのに、重症者数は増え、自宅療養者数が相変わらずなのはどういうことか。「事態」は混沌としているように見える。今月のseminarを開催するかどうかを見極めようと、探っている。一つ、腑に落ちる解説をみつけた。

 PCR検査が追いつかないか、クラスターをチェックすることに熱心でなくなったというのである。つまり、保健所や行政機関を通じて検査されていた「上からのPCR検査」が消極的になり、発熱や呼吸困難など症状が出た人が診療所(クリニック)で診てもらって感染していることがわかる「下からのPCR検査」の数値がもっぱら公表されているのではないか、という。すなわち(検査をしない)、無症状の感染は拡大している。実態がつかめない。TVのコメンテータを務める専門家は、したがって、感染者数は減っているように見えるが、ほんの一週間後には再び増加に転じる可能性があるから、ワクチン接種を終えていても感染防止は怠りなくと呼びかける。

 そう受け止めていて、感じたこと。

(1)PCR検査が追いつかないということは、どこの報道機関も報じていない。クラスターが発生したかどうかは、ときどきニュースになるが、去年のようにそれを追いかけているのかそうではなくなったのかも、わからない。上からのPCR検査が減っているかどうかは不明だが、保健所の手が回らないということなら知っているから、腑に落ちる。

(2)下からのPCR検査によって判明した感染者かどうかは発表されないから、その数値が出ているのかどうかも、わからない。だが、無症状が多いとは聞いているから、症状が出た人がPCR検査を受けていて、そちらの数値が落ち着いてきているというのは、腑に落ちる。そう考えると、自宅療養者数がおおいのも、重症者数が増えているというのも得心がいく。

(3)上記のPCR検査や症状発生などの推移を専門家はつかんでいるだろうか。報道機関は、チェックしているだろうかと思う。専門家はそれを知っているから、公表数値が減っているからといって(感染拡大への)警戒を怠るなというのだろう。要は、行政機関を含めて、その数値を公表していれば、「事態」は判明する。それなのに、「ワクチン接種すれば感染拡大は防げる」という政府の考え方に反する数値が出るから、発表しないのか。そういうことは、これまでもそうだった。大いにありうると思う。

(4)コロナウィルスに対応するのに「自助」を組み込んでいるのであれば、庶民が自ら判断するに足る「情報の公開」が欠かせない。そういうことに対する「お上」の体制ができていない。それなのに「自助」を算入して「事態」収集に対応するのは、「寄らしむべし、知らしむべからず」体質が染みついているということだ。つまり「事態」の明晰でないところには、目に見えない(あるいは語られていない)要素が隠されている。そこへ踏み込まないでは、自助が起動しない。

(5)コロナウィルスの感染に対応する「事態」が明晰になるとは、私たちの暮らしのすべてが明らかになることだ。「自助」ばかりでなく、「共助」や「公助」がどの部分に担われて日々の暮らしが成り立っているか、普段は、漠然と思い描くだけでやり過ごしているが、感染を防ぐという非常事態となると、きっちりと明晰に判明させる必要が出てくる。そのときに、「自」と「共」と「公」がそれぞれに感知しなかったことも明らかにして「共有」する必要があるということだ。自宅療養というとき、一人暮らしか、連れ合いは病んでいないか、緊急時の連絡先はどこかなど、プライバシーに関わることも、「共」や「公」に通じておかねばならない。「共」や「公」の方も、持っている情報・方針などを「自」に周知する必要がある。それぞれの領域が、ある意味融通無碍に作動するには、情報の共有を通して「関係」を動態的につかんでいることが不可欠である。

 もう一つ付け加えておきたい。

 明晰であることを求めるのは、ヒトのクセだ。常にモノゴトが明晰になるわけではない。むしろ分かれば分かるほど、その先が混沌であることがはっきりしてきたりする。だから、「明晰」と腑に落ちた瞬間から、「混沌」が顔を出し、次の「明晰」へ向けて歩き始めなければならない。正体不明のコロナウィルスに立ち向かうには、こういう覚悟さえ共有する必要がある。その「共有」の動態的な社会・政治システムが民主主義だと思った。

2021年9月7日火曜日

恢復の感触

 ずいぶん涼しくなった。昨日(9/6)は、曇り空。リハビリへ行くのに、歩きを再開した。約5㌔。暑くなる前に歩いて通ったポイントを通過するのに、何分かかっていたかと比較しながら、我が体調の回復度合いを推し量っている。

 初めてこのクリニックに足を運んだ5月の連休明けは、カミサンが付き添った。1時間ほどかかったろうか。そのときは、かかる時間は気にとめていない。それよりも、途中で右肩にかかる強張りが重くなり、歩くのが大儀になった。何度も、ひと休みしなければならなかった。

 ひと月たった頃は、続けて眠れるようになったことに「回復」を感じている。といっても、1時間半ごとに目が覚めていたのが、3時間とか4時間半と延びている。歩くときの肩や首の強張りは、歩く時間に比例して強くなり、ときどき休まなければならなかった。 7月末には、日光白根山近くの座禅山へハイキングに出かけた。4時間ほどの行動時間。3時間の歩行。背負ったリュックの右肩が痛くなり、前に抱えたり、下ろしたりする。同行したカミサンが鳥を観ながら付き添い、気分も変わってずいぶん長時間過ごした。

 普段、図書館へ行ったり生協へ買い物に行くなど、合計1時間から1時間半、7千歩~1万歩ほどは歩いていた。リュックに5㌔ほどの荷重があると、途中の公園でベンチに腰掛けて一息入れる。リハビリ病院へはその後、暑さに辟易して自転車だったり、車にしたりして、9月を迎えた。そして昨日の、往復2時間ほどの歩行。

 昨日は、ほとんど右肩の強張りを意識しないで歩いた。リュックで汗ばむ背中を嫌って前に抱くようにはしたが、歩くのをしんどいとは感じなかった。行きは51分、帰りは54分。歩く速さも、そこそこ恢復している。

 8月から始めた鍼治療も、振り返ってみると恢復に効果を発揮している。睡眠が続けて7時間とか8時間とれることもある。時に9時間続けて寝られるとリハビリ士に話すと、「えっ、それは寝過ぎですよ」と笑う。そうだよね、若い頃は6時間も寝れば十分と思っていたなあと、我が歳を思う。

 恢復の感触が、さて、山歩きでどこまで通用するか。あとひと月ほどで、事故があってから半年になる。

2021年9月6日月曜日

もしアフガンに暮らしていたら

 アフガニスタンのカブールで女性たちのデモがあったと、TVで画像が流れている。ちょっとホッとする。米軍の輸送機にしがみついて振り落とされて何人かが死亡したとき、ああ、蜘蛛の糸だと思った。ひとつの世界ががらりと転換して様相を変えるときの庶民の姿が象徴的に現れているようで、胸が塞がれた。

 もしアフガンに暮らしていたらと、このときに思った。ぱっと思い浮かんだのは、場所は違うが、タリバンに襲われて瀕死の重傷を負った少女、マララ・ユスフザイさん。私のぼけ頭でもすぐに名前が出てくるくらい著名になった。そのときに、女は学校に行くな、一人で家から出るなと、イスラムの戒律にあるとタリバンがいっていると知った。

 いつであったかもう十数年前、イランに行ったとき、厳しい戒律の下に置かれている女たちを見た。入り口のドアにはノッカーが二つついていて、訪問客が女の場合と男の場合とで使い分ける。それに応じて出迎える側の性も変えていくという。イスラム寺院を訪問したとき、女性たちには全身を覆う黒いチャドルが用意されていて、身を覆わなければ入らせないと入口でやはり黒い衣で身を覆った女性がチェックしていた。しかし、町中で見かける女性たちは概して明るく、テヘランなどの都会の商業地では、ヒジャブと呼ばれるスカーフだが、彩色の際立つのを巻いて闊歩している姿も見かけた。また、日本人が珍しいのか、女子高校生たちが固まって私たちを指さすようにしてキャアキャアと声を立てているのも見かけたから、変わりつつあるイランのイスラムと希望を感じていた。

 イスラムの戒律にある女性への規制は、父権主義的な、つまり女性を保護することを趣旨とする男性側から仕掛けた解釈の適用と受け止めていた。だが、学校にも行かせない、単独の外出も認めないというタリバンの解釈は、時代を飛び越えて7世紀のムハンマドの時代が顔を覗かせた気配であった。そのタリバンが国家を掌握した。米軍が駐留している間の二十年間に政権が保持してきた自由な(しかし混沌の)空間が消える恐怖が、重く感じられたのであった。

 そんなときに、横山秀夫『出口のない海』(講談社、2004年)を手に取った。これは、2008年に一度読んでいる。太平洋戦争中に応召された大学生が、敗戦を見通しながら軍務につき、自爆兵器「回天」の搭乗員としてどう死ぬかを自問自答する物語である。2008年には、一人の野球青年の人生として、背景の戦局と空襲に追い回される人々の暮らしへ思いをいたしながら、読み進めた。『半落ち』でデビューした横山が、こんな作品を書くのかと思いつつ読んでいる。

 今回は、もしこれがアフガンに身を置く一人の若い女性だとしたらと思いつつ読み進めた。そうか、彼女たちは、この主人公のように自問自答しながら生き、そして死んでいくのかもしれないと、自作自演の感銘を受けつつ読み進めた。

 軍国主義が圧倒的に制圧している日本。軍務につくのは、当然とする社会的風潮。外国勢力に支配され、戦場であったアフガンも好ましくはないけれども、タリバンの支配は、まるで軍務についた主人公が、どんどん回天搭乗員としての訓練を受け、逃げ場をなくして攻撃に向かう。だが、回天自体が想定されたように不具合を起こして起動せず、生き残って帰還する。再び訓練生活に戻るが、死を約束された立場が変わるわけではない。その間の、周囲との関係から行きつ戻りつする自問自答が、まさしくタリバン政権下の女性の立場を象徴していると思えた。

 7世紀初めにムハンマドがアッラーの天啓を受けた頃には、父権主義的な観念、女性を絶対的に保護すべき内属的存在として規定し、いわば暮らしの土台として位置づけていた。しかしその後、世界の交通は圧倒的に頻繁、煩雑になり、人の暮らしも大きく様変わりした。世界がどのようにつくられ、他の世界の人々がどのように生きているかを知った人たちにとっては、1400年前の世界は窮屈な牢獄に見える。イスラムという社会環境の中に閉じ込め、浮かび上がることを絶対的に拒絶された世界である。まさしく、回天である。

 保護なんか、いらない。放っておいて! と叫ぶ女性の声が聞こえる。その場に生まれ、そこの空気を吸って生きていかざるを得ない(しかし、別の世界があることを知った)青年が、ではそのとき、どのように自らの人生の意味を思い定め、日々を送り、ある諦念に到達して回天に搭乗するか。

 カブールの女性たちのデモ行進。アフガンの女性は、この青年にくらべたら、まだ自在であるようにも感じる。どう牢獄を打ち破るか。他人事ながら、幼い頃の我がこととしてみている。

2021年9月5日日曜日

文化のずれに身が慣れる

 大学の同期、だが年齢は上ということは、よくある話だ。私の世代では、同期でも、年齢が上とわかってからは敬称を用いた。長幼の序という序列意識が、社会的にも一般的であったし、長じている方が、知的にも生活的にも、しっかりしたものを持っていると感じてもいたからだ。

 仕事に就いてから、そのあたりの序列が、多様化してきた。知的に優れているかどうかということとまた別に、仕事に長けているかどうかが目につくようになる。人柄も、その時々のこちらの都合も織り込まれて、その長短や善し悪しをみるようになる。私の場合、長幼の序ばかりは変わらなかったから、それはきっと、「(生きてきた)時間」に対する感覚だけは、私の実存とは別の理由によって存在している外部的な尺度と考えていたのかもしれない。そのほかの、人と向き合ったときの感懐や振る舞いは、ことごとく私自身の内面の鏡のように思えたから、相手の言動によって腹を立てたり、すぐに攻撃的に反発したりすることをしなくなった。一度、己の腑に落として、咀嚼吟味して後に吐き出すようであった。

 そういうことを思い出したのは、都内のエスカレータで昔の(大学時代の)同期生に硫酸を掛けて捕まった男の鬱憤のワケを聞いたからだ。同期とはいえ年齢が上の私を呼び捨てにした(敬語敬称を使わなかった)と、溜まった鬱憤の説明をしたと報道していた。そうか、捕まった男は「長幼の序」感覚が私(世代)に近い。

 呼び捨てにするというのも、今時の若い人たちの文化なのだろうと思う。知り合いの間での私たち世代は、本当に親しい間柄か、明らかに社会的な序列が明確な下僚に対してでない限り、呼び捨てにすることはしない。学校などの同世代が言葉を交わしている時に呼び捨てにする人物というのは、対象として(客観的に突き放して)みているときの表現であった。それに敬称をつけて、「マルクスさんは……」という先輩が一人いたが、ほとんどユーモアと受け止めていた。

 だが若い人たちの世代は、親しいかどうかだけでなく同輩であれば、男女の間でも、呼び捨てにしても違和感がないように振る舞っている。欧米文化の影響とも思うが、敬称が変化していると、感じてきた。

 いや何もそれほど世代を隔てていなくても、長幼の序が崩れていると感じたことは、一度や二度ではない。ほんの十歳若い世代が、職場秩序があるから敬称は省かないが、明らかに「年齢に関係ないよ」という言動をとることに出くわしたことが多々あった。慇懃無礼というやつである。イケイケドンドンという社会的風潮もあったろう。新しい技術が社会を切り開くという生産主義的傾向も後押しをしたのであろう。年寄りは迷惑というホンネを隠さなくなったともいえるかもしれない。文化は急激に変容していた。

 そういう意味で硫酸男は、古い世代に属する文化を身につけてきていた。それに対して、掛けられた男は(掛けた男の話が事実だとすれば)、若い学生の同輩に対するごく普通の文化を吸収していたのかもしれない。そのずれが、硫酸男が身に抱えた鬱屈によって増幅され、噴き出したのだろうと思った。

 文化の潮流は行く川の流れ同様に、絶えずしてとどまりたるためしなし、なのだ。だが、淀むところもあれば、急流となって急ぎ足で流れ下るところもある。川床の凹凸や川筋の屈曲が流れの様を変えているのかもしれない。その屈曲や凹凸が、一人一人の抱える鬱屈となって身のなじみ方を変えていっている。そうした文化の変化に、身が慣れるのか、あるいは馴れるのか。ひょっとしたら、狎れてしまうのか。そういったことをふりかえってみると、私たちの受け継ぎ、手渡している文化も、一筋縄で語ることはできない。

 まして、海外からの文化の流れ込みもある。海外への流出が向こうの文化と融合してハイブリッドとして流れ戻ってくることも多くなった。「日本人」とか「日本文化」を固定的にみてとるわけにはいかない。ヒト・モノ・カネの流れとエコノミストはいうが、ことごとくを文化の流れとその変容とみると、ただ単に生産主義的にみるのではなく、暮らしや生活関係のすべてを視野に収めて、多面的にも多様にもみることができる。

 文化の変化に身を馴染ませ、自らのそれと外からのそれとのずれを一つ一つ意識しつつ、受け入れていくことが、これからの日本の姿と思われる。古い規範にとらわれた鬱屈をぶちまけていては、自らのアイデンティティすらわからなくなる。そんな時代を歩いている。

2021年9月4日土曜日

当たるも八卦

 昨日(9/3)の記事、「気分一新という禊」をアップした状況を、ちょっと説明しておきたい。朝方起きてから書き始め、食事で中断し、ほぼできあがった頃に医者へリハビリに行く時間が来て出かけ、戻ってきてブログ記事を仕上げて、アップした。いまみると、11:49。そろそろお昼かと食事の用意に取りかかり、TVをつけたら、なんと「総裁選に立候補断念」と宰相の動静を報道しているではないか。驚いたね。

 ブログの「気分一新」は、自民党幹部人事の刷新を指しているつもりであった。新総裁がどうなるかも、その中に含まれるとはいえ、まさか菅総裁が、立候補を断念するとは考えてもいなかった。まさしくこれは、サプライズだね。当たるも八卦。

 とはいえ、昨日書いた趣旨は、変える必要はない。メディアは、前日にもまして、「気分一新」して、番組制作に慌ただしい。その「気分一新」が「人心一新」と一緒くたになって、移ろいゆくのが、私たちの悪くクセだと指摘したのが、昨日の記事であった。こちらは八卦かどうかではなく、モンダイ提起の哲学のつもり。

 ま、そこんとこよろしく。

2021年9月3日金曜日

気分一新という禊(みそぎ)

 コロナウィルスの勢いがちょっと止まった。専門家の解説を聞くと、お盆の人流があって首都圏で減った感染が、今、数字に現れているという。また今後はお盆明けの人口集中が蘇って増えるだろうから、警戒を怠るなと引き締めにかかっている。

 宰相が「日の目が見える」とコロナ収束の先行きを見込んでいたのは、ひょっとすると、このお盆時の(首都圏の)「人流が止まった」ことを指していたのか。そう考えると、なるほど、人流と感染拡大との相関を言い訳にしていた宰相のコロナ観がみえる。

 そうしてマス・メディアは、目下、自民党の総裁選に関心を移しつつある。菅政権の失政を、それを支えてきた自民党の無能無策と捉える視点は消え失せて、力関係と人事の争いの面白さに浸されつつあるようだ。

 支持率が落ちている菅宰相は、対抗馬が提案する党幹部人事の刷新案を意識してか、自民党の幹部人事を刷新すると発表した。あさって(9/5)からの話題が提供されて、マス・メディアは「活気」を取り戻し、自民党に関する報道が集中しつつある。そこへもってきて昨日(9/3)菅総裁が自民党へ出向いて幹事長に会ったものだから、「ひょっとしてサプライズか」とメディアは沸き立った。つまり、解散総選挙という奇手に打って出るのか? と色めき立ったのだが、それもこれも、自民党の人事に人々の気分を誘導するためのお膳立てというわけだ。

 《みそぎして思ふことをぞ祈りつる やほよろづの神のまにまに》

 と、宇治拾遺に歌われた(13世紀初め頃の)私たちの、自然(じねん)の心情に寄り添うように考えると、自民党の人事刷新というのが、「みそぎ」に当たるか。水をかぶって身を清め、犯した罪や被った汚れを除くという振る舞いと見なすか。あるいはさらにもう一歩先の総選挙で過半数をとることによって、コロナもオリンピックも、チャラにして水に流す国民性に期待しているのか。

 これに苛立ちを覚えるのは、いつだってこうしてモンダイ人物を水に流して、じつは、モンダイの在処まで水に流してしまうからだ。つねに出直してばかり。モンダイの核には踏み込まない。踏み込んでいないという意識もない。人が変われば、手立ても変わるだろうという期待は、配役を入れ替えて同じ物語を繰り返しているだけ。これでは日本は、変わりようがない。千何百年も、こういうことを繰り返していれば、それが習い性になってネーションシップとして染みついてしまう。ネーションになったのはまだほんの百五十年ほどだよと言えばいえるが、島国の一体性というか、列島人としてのアイデンティティというか、そんな風な漠然とした自然観のもたらす同一感覚に染みついた「自然(じねん)感覚」、つまり気質が感じられて、なんとも言いがたいジレンマを味わっている。

 やっぱりそれじゃあ、まずいよと、誰が誰に向かっていつどこで声を出せばいいか、それすらわからない。「禊ぎ感覚」も、なんとなく共有していると思っているだけで、じつはただ無関心が広がっているだけ。マス・メディアのディレクターたちが勝手に「共有している」と思っているだけかもしれない。その一体感のベールを食い破るのは、ではどうやって? だれが? どこで? いつ? そうそう、なぜ? 

 こうして呟くだけが、目下の手立て。こちらは歳をとっているから、それでいいようなもの。若い人たちにとっては、たまらないだろうなあ。えっ? そうでもないか。

2021年9月2日木曜日

デジタルとアナログの陥穽

 昨日(9/1)の新聞の埼玉版に「12日間の安否確認なく死亡」の記事が載った。

 先月11日にコロナウィルスに感染が判明。軽症と判断され経過観察。ところが27日に119番があり、それを通じて死亡が確認されたという。基礎疾患のある60歳男性。妻も感染して自宅療養していたそうだ。その記事からわかったこと。

(1)保健所は自宅療養者の「健康観察」を支援センターに委託していること。連絡が取れないときには保健所に連絡。保健所が安否確認をするという。

(2)支援センターは「連絡」を「自動音声による電話」で行っていること。

(3)健康観察の対象者は一日9000件に上り、50人の職員で対応している。

(4)同様のケースで死亡していた高齢者がほかにもいた。


 保健所が手一杯ということは、1年以上前から聞いてはいた。支援センターへ「健康観察」を委託するってことも致し方ないだろうとは思う。だが、1年前に較べると感染者数は十倍を超えている。だから支援センターを設けたのであろうが、「連絡が取れなかったときは、保健所に知らせて、保健所が安否確認をする」という。これは、どういうことだ?

(1)では、支援センターは、責任ある仕事のインセンティブを持てない。安否確認というのを、医療的な診断を含むと考えると、医療素人の支援センターには任せられないというのも(理屈としては)わからないでもないが、軽症の状態が続いているかどうかを「確認する」と考えると、支援センターに任せることができる。ただ単に「連絡がつくかどうか」だけではなく、電話に出る状態が続いているかどうかだけでも、「責任」は大きく生じる。だが、責任を負っているという感覚は、支援センターにはなかった。

 それを明かすのが、(2)だ。「自動音声」というのは、近頃の「世論調査」などで用いられている電話手法であろう。私は機械音だとわかるとすぐに電話を切ってしまう。「失礼だ」と感じるからだ。アナログ育ちの世代には、慇懃無礼な機械音を聞くと、馬鹿に済んじゃないよと思ってしまう。それに機械は、「連絡が取れない」という事実だけを理解するが、その出られない電話口の先にある事態に想像が及ばない。まず、これで「連絡している」と考えている支援センター自体が、「責任」を感じていない。もしAIに「連絡が取れないのが二日続いた」という設定でもしてアラームが鳴るようにしていれば、少しは変わるかもしれないが、これだけで、自宅療養者は、放置されているとわかる。

 一週間ほど連絡がつかなくて、「看護師が直接電話」と記事は書いている。「本来ならば、直接電話に出ない場合は、保健所に連絡し、保健所の職員が直接自宅を訪れて安否確認」と手順を考えていたらしい。

 モンダイはここだ。ただでさえ忙しい保健所に「連絡がつかないと知らせる」ことが、できるかどうか。支援センターが責任を持っていれば、「状態確認」はできる。そうとなると、「責任」が生じるから、支援センターが自ら出向いて「確認」するだろう。だが、「連絡が取れない」について、「二重のチェックができていなかった」と弁明しているとあるが、そんなことに二重のチェックということ自体に、責任感覚のなさが現れている。責任がないところに矜持は生まれない。機械的に電話をしたという「記録」を残すのが仕事ということになる。自宅療養は、見放されている。

 加えて、支援センターの仕事の多さだ。50人の職員で一日に9千件の電話をするという。一人一日に180件の電話。勤務時間を8時間フル稼働と考えても、平均して一人当たり約3分。電話が鳴る。病人が受話器を取るまでに1分かかってもおかしくない。

「様子はいかがですか?」

「はい、ありがとうございます。なんとか……」

「熱は? パルスオキシメーターの表示はいくつになっていますか?」

「熱は……、オキシメータは、今ちょっと調べてみますね……」

「食事はとれていますか? 食べ物はありますか? 必要なものがあれば教えてください」

「食欲がありません」

 とやったら、普通に自宅にいる人だって、3分はかかる。まして職員も、昼食は摂るし、トイレにも行く。8時間ぶっ通しで電話機に張り付いているわけにはいかない。そういうわけで、自動音声の導入なのであろう。だが、若い人はともかく、年寄りはアナログ育ち。近頃はやりのカスタマーセンターに電話をするだけで、10分は待たされる。用件が済むまでに20分から30分かかることもある。アナログ育ちは、そこまで機械に向き合えない。

 総じていえば、医療は完璧に崩壊している。ワクチン接種も効かないと名古屋の市長も証明している。つまり、コロナ感染の自己防衛に失敗したら、運を天に任せて祈るしかないのが、現状だというのが、この記事の教えていることだ。

 コロナ感染について「明るい日が見える」とこの国の宰相は言ったそうだ。何を見てんでしょうね、この人は。

2021年9月1日水曜日

言葉を脱ぐ

 石山蓮華が「言葉を脱ぐ」という表題のエッセイを書いていて、目をとめた。雑誌「新潮」2021年7月号。

 二十歳から6年間していたTVレポーターの仕事のこと。街頭インタビューに駆り出され、「街の声」をもらう。問いかけの言葉も、聞き出す言葉も、自分がそのとき選び取ったものではなく、あらかじめディレクターから渡された台本に記されていること。しかもそのときの声のトーンも、応えてもらうときの相手のテンションにまで、(台本にあるような)「一言お願い」をして引き出してくる仕事をしていると、

《私の体の中で他人のように考え、他人の考えた言葉をしゃべっていると、腹の中が疑問と違和感でパンパンになる》

  と。ああ、これは、先にオリンピックで見られたシモーネ・バイルズの「ゲシュタルト崩壊」(2021-08-10ブログ参照)寸前の状態と同じだ。バイルズも、自分の今やっていることは自分の選び取ったことなのだろうかと、「腹の中が疑問と違和感でパンパンにな」っていたのではないだろうか。1960年代の哲学者なら「自己疎外」といったであろう。だれもが大衆社会で味わう疎外感と謂えばそれで片づいたこと。だが今は、もう少し踏み込んで、人の機微に触れている。

「ことば」がそもそも持ち来たっている社会性、つまり世の中に通有する「人様のもの」から始まっている。それを「我が言葉」にする過程が、若い者が大人になることと同義であった。それなのに、大人になり仕事をして世に認められていく過程で、こんなにもたくさんの人様の言葉を重ね着していかねばならないのかと感じる「疎外感」は「離人症」を発症したかと思うほど、我が身から離れ、ふわふわと周りを漂っている。人との関係を「かたち=ゲシュタルト」にしている「ことば」が、「(情報伝達の)彩りのために添えられた電飾」になっている。自らの感性や感覚から飛び離れてしまっている「仕事の言葉」、社会的に流通する言葉。

 そういうとき、石山蓮華はどうするか。マイクをしまって、自分の荷物から本を取り出し、目を通す。言葉を脱ぐという。

《私にとって、本は他人の言葉を脱げる小さな部屋のようなものだった》

《体中にぷかぷか浮かんだ疑問や違和感は本で出会った言葉によって整理され、やっと自分の手で触れられるようになる》

 と。わかる、わかる。本はマイペースで読める。引っかかったらそこで立ち止まることができる。繰り返し読みなおすこともできる。それはじつは、自分と向き合い、自分の感性や感覚を吟味し、その確かさを確認する行為でもある。時には、その自分の感覚すら、借り物の、根拠がわからない、ただ長く伝承されてきたことを、口伝えに受け取っていたことに過ぎないと、感じることもある。だからいつでも、自分を確信できるわけではない。それを石山蓮華は、どう見るのか。

《私が言葉にしたかったことは、大抵の場合すでに誰かが本に書いているのだ》

《松明のような本に出会うたびに、まだ聞こえない私の言葉も、いつか聞き出せるかもしれないと勇気をもらえるのだ》

 と発見する。謙虚で素直。でもすでに「自分の言葉」になっている。自分の使っている言葉が「他人の言葉」と知ったこと自体が、その分岐点だ。

 もちろん、いつでも他人の言葉はつきまとう。だって、それを抜きにしたら、社会的な通用が無効になってしまうからだ。言葉の社会性というのは、「他人の言葉」と「自分の言葉」との相互往来であり、その間に介在する「自分の感性や感覚や常識」「社会的な感性や感覚や常識」との間に報じる違和感や疑問を手放さずに、常に吟味し続けること。多面体的で多様な社会の方は、そう簡単に吟味に応じない。だがすでに自分が身につけている言葉ですら、元はといえば生育歴中に、親や周囲の社会からいつ知らず吸収して違和感なく身につけてきた「身についた言語」だ。それにすら疑問を抱き、一つ一つ脱ぎ捨てていきながら自分の言葉を再び「身につける」。それが、自分の言葉を再獲得する小さな一歩であり、同時にそれがまた、社会の一歩になっている。20代の後半を過ごしている石山蓮華は、その一歩を踏み出した。

 それの繰り返しが、人生というものだと、70台の最終年を送る年寄りは思うのであった。