2021年9月22日水曜日

過激思想と宗教と世直し

 アフガン支配のタリバン復活にともなって、ふたたびイスラム原理主義の宗教支配がテロとあわせて取り沙汰されているが、私のイスラム・イメージはこれとは全くの反対側にあった。井筒俊彦のいつくつかの著作を読んだだけであったが、コーランには苦しい現実を生き抜く人々への社会批判的な言葉が連ねられている印象を持ってきた。

 それが、イスラムとテロとが同一視して用いられるようになったのは、やはり9・11からであったろうか。それからのアフガンやイラクのアメリカとの関係については,もうご承知の通りである。だがタリバンの復活にあたって、女子教育のことがどうなるか注視していたが、やはり女子を学校から排除する方向が打ち出されているらしく、それだけでほとんどテロと同一視する視線は,変わりそうもない。

 藤原聖子『宗教と過激思想ー現代の信仰と社会に何が起きているか』(中公新書、2021年)を読むと、テロに及ぶ過激思想がまとっているイスラム原理主義についても、その過激な言葉を帝国主義との相関で解きほぐし、宗教教義から直に過激な言葉が導き出されているわけではなく、現実世界の展開が深く関係していると述べている。つまり、別様にいえば、テロ組織はその自らの行動の正統性を宗教教義においているように言葉を繰り出しているだけと位置づけて、モンダイの在処を捉えるには次元の異なる世界イメージが必要とみている。

 藤原聖子は,イスラムだけではなく、キリスト教も仏教もヒンドゥ教や神道系過激思想も取り上げて追いながら、異端と過激思想とを区別する。そうして昔ほど「異端」が問題にされなくなったのは、宗教そのものが「個人化・多様化し、正統そのものが消滅したため」と明快である。ではどうして、「過激」は宗教をまとって正統性を保つ必要があるのか。その指摘が面白い。

《宗教的過激思想の目標は「世直し」なのである》

 つまり、まるごとの世界を変えようとする主張は、宗教の「基礎付け」を得なければならないと言えそうだ。「社会体制」を転換させようとするには、総力戦が必要となる。その総力というのは、社会も文化も経済も政治も、ことごとくの相関関係をまるごとまとめて転換を図らなければ、「革命」は成就しない。それには存在の根底に関わる「裏付け」がなくてはならない。そう考えるところに、「反逆の正統性」が宿るように思える。もっとも藤原聖子は《……だから過激思想はよいものだというのが本書のいいたいことではない》と、( )に括って付け加えている。

 ところが、本書の文中には、明らかに、この「宗教的」から逸脱する「過激」暴力行動が噴出しているとみている。つまり「世直し」とはいうものの、その実行部隊となる人々には、日頃の抑圧や差別・格差の鬱屈を晴らす思いが先走ることがしばしば見られる。その人たちにとっては、まるごとの「世直し」はタテマエ、鬱憤晴らしがホンネという振る舞いが実行に移されている。テロ集団の統制などというものではない。あるいは、集団まるごとが鬱憤晴らしになって、ISとして女子生徒を誘拐し、強制結婚させるという奴隷まがいの扱いをする。アフガンのタリバンに、その様相はあるのかないのか。あっても、それを統制できるのかできないのか。となると、タリバンの内部統制をぐらつかせるよりは、外部に向けた「原理主義」を貫徹する姿勢の方が、当面重要とされて、ますます「原理主義的に」過激になると思われる。

 面白い解析であった。そしてまた、イスラムだけもキリスト教・ユダヤ教という一神教だけではなく、多神教でさえも、過激思想が噴出する「世直し」に関心を持つひとたちが出来しつつある時代相に、今私たちは直面している。だって私でさえ、今の日本には「世直し」が必要だと感じているのだから。

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