動物が言葉を交わすということは、クジラの歌声とか「犬語」「猫語」で説明されてきた。これまでも、例えばウグイスの谷渡りというのは、危険が迫っている「警戒音」と聞いてもいる。それらの「叫び」も、ボディランゲージみたいなものと(私は)受け止めていた。
ところが、鳥の言葉に「名詞」があったり、遭遇している事態を示す「文章」だったりするという研究をしている方がいると知って、面白いと思った。つい先日TVで観たこと。京都大学の若い研究者。
シジュウカラの発する言葉が、ヘビだとかタカだとかを示す「名詞」だと突き止める。ヘビがいる、集まれ! という「文章」にもなる。むろん、食べ物だ! 集まれ! ともなる。そのシジュウカラの言葉が、カラの混群のなかで、コガラにも、ヤマガラにも、ゴジュウカラにも、あるいはメジロやリスにまで共有されていっているという観察は、「ことば」の発生を考える上でも、面白い「発見」である。
しかも、シジュウカラの「蛇」は、コガラやヤマガラでは別の「音」になっている。つまりそれぞれが自分種固有の「おと」を発しているけれども、種を超えて意思疎通の役割を果たしている。彼らはバイリンガルどころかトリリンガルだったりもするわけだ。
蛇がやって来ているということに対して、カラ類の小鳥たちが寄り集まって来て騒ぎ立て、蛇を撃退する映像も、まるで昔のディズニーの映画を観ているように明快なリアリティを湛えていた。ディズニー映画の方は、言うまでもないが、擬人化した作劇法があり、映像の組み合わせをうまくすることによって、あたかも言葉を交わしているかのようにつくられたものだった。カラ類の画像は、あたかも擬人化されたもののように感じられるほど、迫真性を持っていた。
これは私たち人間も、ボディ・ランゲージを用いている上に、さらに「ことば」を遣って子細に意を交わす術を身に備えているから、動物たちがそうして振る舞っていても、不思議ではない。むしろ、やっと動物研究のレベルが、人を研究する水準に近づいてきたと言い換えた方がいいかもしれない。
いろいろな五感が働いてコミュニケーションがとられることは、人も他の動物も変わりはない。そう考えることは、生きとし生けるものがみな「たましい」を持っているように受け止める(日本人的な)自然観を持っている人には、わかりやすい。
食べ物だ、あつまれ! と声を出してしまったコガラが、やってきたシジュウカラに追い払われ、それがヤマガラに横取りされていく姿は、観ている分には微笑ましい。ところがその事態にコガラが、タカが来た! と声を上げて、横取り組を追い払う映像が加わる。となると微笑ましさを通り越して、「ことば」がただのコミュニケーション手段という機能的な断片ではなく、ことごとくコガラの文化として「ことば」が位置を占めていることを意味する。それがまた、ほかのカラ類や近縁の(リスを含めた)動物たちの「文化」にも影響を与えて(オオカミ少年のような存在を算入するようになって)いくかもしれないと感じさせる。これも、面白い。
どこまでが、擬人化した仮説になるのか。「ことば」自体がそのような「普遍性」をもって「生きていくこと」に作用すると考えられるか。興味が刺激されて、我が身の言葉に、ますます無明が広がる気配を感じる。
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